「歌のある生活」13「音楽」の歌その1

 音楽をうたった歌に出会うことがあります。

 有名なところではこんな歌です。

 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき         近藤芳美

 この歌、一般的に名歌ということになっています。たとえば、永田和宏はその著「現代秀歌」(岩波新書)で、巻頭歌としてこれをあげ「近藤芳美の代表作のひとつであり、戦後短歌の出発を伝える歌であり、さらに戦後の相聞歌を代表する一首ともなった記念碑的な歌である」と絶賛しています。

 私にはどうにもキザッたらしいという感覚なのですが、永田をはじめ、現在でも多くの人が「良い」というので名歌になっているのでしょう。

 それはともかく、下句です。「或る楽章」です。「或る楽章」というのですから、クラシック音楽なのでしょう。ここでは、軽やかなハイドンとかモーツアルトではなく、ベートーヴェンブラームスのシンフォニーのような重厚な感じが合っているように思います。で、そんな楽章を作者は「思ひき」。つまり「思った」というわけです。

 ここに私は引っかかります。それって「思ふ」ものなのでしょうか。

 音楽は「思う」もの?

 どうでしょうか。

 私は、音楽というのは、普通一般に言う「思う」とは違うものと考えます。感覚的に言うと、頭のなかであれこれと思い浮かべるのではなく、気が付けば、すーっと頭の中を流れてくるもの、といった感じです。

 言い換えると、「思う」とは、言葉を思い出すといったように「言語」の記憶でありましょう。あるいは、風景や情景、幼き日の思い出といったように「視覚」の記憶に対しての想起がしっくりくる。

 一方、音楽というのは、聴くものですから「言語」や「視覚」の想起とは違う。もちろん、音楽も記憶することには違いがありませんので、頭のなかで記憶された音楽は「思い出す」ものでしょう。しかし、「言語」や「視覚」の記憶の想起とは、違ったものではないか、というのがここでの私の疑問です。

 近藤の歌に戻ると、君の姿が霧にとざされてしまったのを見て、われは或る音楽を思った、というのではなく、或る楽章が頭のなかにすーっと流れてきた、といった感じのほうが、よりしっくりくるのではないでしょうか。ですので、結句の「思ひき」は人間の感覚としては違うのではないかというのが、私の意見です。

 しかし、この歌、トリックとまではいきませんが、実は、この「思ひき」にちょっとした仕掛けがあります。

 それは、どういう仕掛けかというと、この「思ひき」によって、読者は、それはいったい何の楽章なのだろうと「思ってしまう」のです。「或る楽章」と匿名にしていることからも、近藤は、それを狙っているのはたしかでしょう。そうして、読者は、どんな楽章なのなかあと、あれこれ想像してしまうのです。さっきの私のように、ベートーヴェンかな、ブラームスかな、といったみたいに、「思ひき」で、まんまと作者の意図にのってしまうというわけです。

 今回から不定期で音楽の話をしていきます。これには、私の短歌に関する問題意識があります。それは「短歌で音楽をいかに表現するか」という問題意識です。次回は、この辺りのことのお喋りからはじめます。

 

「かぎろひ」2015年7月号

「短歌人」4月号ベスト3

ずり下がるライダーベルト押さへつつ正義のための飛び蹴りをせり 河村奈美江

「正義」の歌である。こうした大きな言葉を歌にするのは、たいへん難しい。正面からうたおうとすると、どうしても気負いすぎて、歌にならずに安っぽいアジテーションになってしまうのは、皆さんご承知の通り。ならば、ちょいと斜に構えてアイロニーにしましょうかしら、というのが、せいぜいのところ。しかし、作者は第三の道を行く。

 強いて言えば、ファンタジーといえようか。「正義」という歌にするにはあまりに大きな概念を、別の世界観を創出させることで詩歌に昇華させた鮮やかな一首である。別の世界観とは、すなわち、子どものごっこ遊びの情景だ。

 跳び蹴りをしているのを作者とすると、かなりアクロバティックな読みになるが、ここは素直に、どこかの少年たちが仮面ライダーごっこをしている様子を作者が歌にした、と読むのがいいだろう。幼い子どもが、身体よりも大きいライダーベルトを押さえながら仮面ライダーになりきって、「正義」のために、敵に向かって飛び蹴りをしているのだ。いまどきの子どもがこんな遊びをしているのか知らないけど、仮面ライダーがまごうことなき「正義」だった時代には、そんな情景はあったに違いない、と読者は共感できよう。子どもたちが、かつて、ごっこ遊びに夢中になっていたであろう情景を夢想することで、現実世界の「正義」の意味が生きてくるのだ。

抽出しの中に夜あり少年の失いやすき詩の眠るため         鈴木秋馬

 この抽出しは、自室の勉強机の抽出しだ。夜に、少年は、いつもの勉強机に向かう。そして机の抽出しをひらくと、そこに詩が眠っているのだ。

 まさしく少年の歌だ。ああ、私にはうらやましい。もう私には自分の部屋もなければ机もない。抽出しを探そうとすれば、職場の事務机だ。そんなところには、詩は眠っちゃあいない。代わりに、おどろおどろしいものが入っていて、とてもじゃないが歌になんてできやしない。

 けれど、そんなくたびれたオッサンにも、うら若き少年の頃はあって、あの頃の自分の勉強机の抽出しには、ちゃんと詩が眠っていたのだ。どんな詩だったかと思い出そうとするのだけど、ああ、もう思い出せない。きっと純粋で可憐な恋の詩だったに違いがない。そうだよなあ、そんな感情なんてもうとっくに失われてしまったのだ。こんなにも失いやすきものとは、少年の頃には思いもよらなかったなあ。なんてぼやきつつ、また夜が明ければ、私は職場に向かい、開けたくもない事務机の抽出しを開けるのである。

力まずにひとと会話ができなくてひたすら齧る鳥の肝串      有朋さやか

 肝串である。だいたい、肝串をうたおうとする心意気に惹かれる。だって、どう歌にしようにも、肝串じゃあ上品な歌にはならないに決まっている。それに語感からして、イマイチな感じが漂う。

 しかし、上句からの流れで、ウマい具合に仕上げた。「ひたすら齧る」のカジルというあまり美しくない語の響きも肝串にはぴったりである。そして、結句の体言止め。するすると読ませて、おおこりゃ、着地もいい感じではないか。

 こういう素材の生かし方というのもあるのだなあ。そもそも上句は、詩ではない。にもかかわらず、肝串の下句がつくことで、見事に詩になっている。この構成力も実にすばらしい。感服の一首だ。

 

「短歌人」2015年6月号 所収

 

 

「歌のある生活」12子どもが詠んだ歌

 先日、学校の先生方の研修会で、短歌についてお喋りをする機会があった。研修会といっても参加者は十人程度の小さいもので、国語科授業の韻文学習の研修というのが会の目的であった。この研修会、実は私の昔の仲間の企画で、そういえば元教員の桑原が、最近は短歌をやっているらしいから、あいつを呼んだら面白いだろうということになって、私に声がかかったのだった。それで、昔の仲間のよしみで、一時間ほど短歌についてお喋りをしたのである。

 国語専門の教師に向かって、短歌について何か教育的な提言をすることなど、私にできるわけがなく、それでも、子どもの短歌作品の紹介や解説くらいだったらできるだろうとは思い、そこで、今回は「平成万葉集」(読売新聞社)をテキストに、そこに掲載されている子どもの作品を紹介することにした。この本は、出版が二〇〇九年とやや古いものの、現代を生きる市井の人々の飾らない生活歌が満載で、とくに、小中高生の子どもの歌が豊富に採られているのがいい。

 そこから私は、五首ほど選び、先生方に解説をしたのであったが、そこで思ったのは、とにかく、子どもの歌はすごいということだ。奇をてらわずスルッと詠む。にもかかわらず、技巧的にもウマい。もう、脱帽である。と、いうようなことを、研修会で喋った。以下に、歌の紹介と私の解説を載せるが、はたして私の感激が伝わるだろうか。(すべて前掲書所収、年齢は出版時)

はるのやまちょうちょがとんでにぎやかにみずのなかにこいがいっぴき

                              塩田丸子 (八歳)

 たぶん、この子は、はじめて短歌を詠んだのではないか。蝶の数の多さとの鯉が一匹だけという対比。実に巧みである。これだから、子どもの歌は、あなどれないのである。

公園でひみつの道を進んだらヨウシュヤマゴボウむかえてくれた 末岡玉恵 (九歳)

 普通に詠んでヨウシュヤマゴボウは出てこない。これは、担任の先生が「自分だけの発見を歌にしてね」という指導をしたに違いない。かように、教室での短歌創作のときには、教師の指導言は重要なポイントになる(と、少しは、講師らしいことを喋る)。

赤とんぼ差し出す指にそっととまる恋もそうならいいなと思う                              

                            築比地彩花 (十四歳)

 これはウマい。上句で実景を詠い、下句で心情を詠うという短歌の王道をいく構成。しかし、そんなこと作者はわかって作っているわけがない。詠んだらそうなったのだ。だから、子どもの歌はすごいのだ。

もう寝よう思ったとたんに朝になる夢もみるひまないくらいに 大久保藍(十四歳)

 この歌は二通りの解釈ができる。毎日が充実しているという現状肯定的な解釈と、今が忙しくて未来への展望が見られないという否定的な二つである。どちらを解釈してもいい。解釈の広がりのある歌は、いい歌である。

スベリ台幼い頃は大きくてこんなぼくでも世界が見えた     田村 元 (十五歳)

 中学生になると屈託のある歌が詠まれるようになる。「こんなぼくでも」が鑑賞のポイント。また、上句はたいへん共感性が高い。短歌は共感の文芸であるから、子どもの心情に寄り添って、歌を解釈するのは短歌の学習としては重要である(と、講師らしいことを喋って、終わった)。

 

「かぎろひ」2015年5月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌⑦

 前回まで、教科書のなかの歌を皆さんと見てきました。今回は、その番外編といった感じで、私の教科書の思い出について、おしゃべりしたいと思います。

 私が中学生だったとき、教科書でこの作品に出会いました。

 みちのくの母のいのちを一目見む一目見むとぞいそぐなりけれ      齋藤茂吉

 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天にきこゆる

 のど赤き玄鳥ふたつ梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 齋藤茂吉「死にたまふ母」の一連からの三首です。私は、この歳になってもまだ教科書に載っていたこの三首を覚えています。

 別段、その当時の私は、短歌に興味のあった早熟な少年だったわけではなく、ごく普通の中学生でした。まさか、こんな歳になって短歌を詠むなんて、当時の私にはまったく想像もしていなかったことでしょう。ですので、私は、当時さほど短歌に関心があったわけではなかったのですが、こうして今でも教科書に茂吉の作品が載っていたことを覚えているのです。この私の経験から、私は、教科書にどの作品を載せるのかというのは、とても重要なことだと思うのです。なぜなら、ずっと、生徒の記憶に残るものなのですから。

 では、どの作品を載せるべきか。というと、大前提として、近代現代を代表する歌人の作品を載せる。そのうえで、できるなら、その歌人の代表歌を載せるべきだと思います。

 私の場合は、斎藤茂吉でした。茂吉には膨大な作品がありますが、この「死にたまふ母」もまた茂吉の代表作であることに異論はないと思います。ですので、私は短歌とよい出会いをしたと思っています。

 ところで、学校では、教科書のほかにも、短歌作品に出会うことがあります。私の場合は、国語の資料集からでした。そこにも、いくつか現代短歌が資料として載っており、それらの作品が私の記憶に残っています。たとえば、こんな歌が資料集には載っていました。

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子

 この歌は、なかなか印象的でした。へんてこりんな歌だなあという感じでしょうか。ガサッが、あまりに直截で、それが記憶に残ったのですね。これが、河野の代表作であり、現代短歌の代表作と知るのは、もちろんずーっと後のことです。今となっては、ガサッもそうですが、初句の「たとへば君」が斬新だなあ、という感想をもちます。

 もう一つ。資料集には、塚本邦雄の作品がありました。

 日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも        塚本邦雄

 これ、中学生にはさっぱり意味がわからない。で、資料集にある解説を読んでみました。だいたい、次のような解説でした。

皇帝ペンギンは、日本を脱出したいと思っている。そして、飼育係もまた脱出したいと思っている」

 うーん、そうか? 中学生の私は、この解説文は、どうも違うのではないかと直感的に思っていました。今、あの時の私の感覚は正しかったと思います。

 やはり、この解説は変ですよね。現代短歌の最前線を載せるにせよ、解説文を書く編集者も腕組みしてしまうような作品は、載せないほうがいいでしょうね。

 

「かぎろひ」2015年3月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌⑥

 さて、国語教科書に載っている短歌の紹介も今回で最後です。とうとう残り三首になりました。近代から現代へ、現役の歌人の作品も登場してきています。さあ、誰のどんな作品を中学生に紹介しましょう。

 白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり      高野公彦

 高野公彦の登場です。夜の公園でしょうか。霧にしっとりと濡れている自転車が置かれてある。その自転車が、まるで翼をもっているようだと詠っています。

 この歌は、中学生に紹介するにふさわしい作品だと思います。鑑賞のポイントは「ほそきつばさ」です。これで、夜の公園で霧に濡れた自転車が、ぐっと引き立ちます。「隠喩」の効果といえましょう。では、この「ほそきつばさ」は、何をたとえているかわかりますか。正解は、自転車のハンドルです。

 ただ、私は、ハンドルが翼に見えるのは、どうにも無理のあるたとえのような気がしています。けど、この名歌について、そういう意見を言う人はいないようですので、皆さんはすんなりと鑑賞できているのでしょう。

 国語の授業では、まずは「隠喩」をおさえてから、夜の公園で自転車が霧に濡れている情景について、自由に思ったことを発表する、というような学習をするのでしょう。

 次に紹介するのは、河野裕子の歌です。

 土鳩はどどつぽどどつぽ茨咲く野はねむたくてどどつぽどどつぽ    河野裕子

 この歌は、変化球です。現代短歌には、ちょっと変わった、そして面白い歌もありますよ、と中学生に紹介するのでしょう。教科書に掲載されている十二首の中には、秀歌ばかりではなく、こうした変化球もまじっています。私は、教科書に変化球をまじえるのについて反対はしませんが、大賛成というわけではありません。なぜかというと、この歌は河野の代表作というわけではないからです。河野にはもっともっといい歌があります。ですので、この作品で河野裕子を紹介してしまうのは少し残念な気がするのです。

 さて、最後の歌になります。最後は、栗木京子のこの歌です。

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生           栗木京子

 栗木の代表作であり、現代短歌の名歌でもあります。

 私は、この作品が中学校の教科書に載っていることに、正直驚きました。中学生には、ちょいと早くないかなあ、と思うのです。せめて高校生だったら、この歌の情感をしっかりと味わえるとは思うけど、中学生には無理ではないか…。

 こうした私の意見は、前回の佐佐木幸綱の作品にもいえました。けれど、教科書は、中学生にはやかろうが、そんなことはおかまいなしに触れさせるわけです。ここに、私は、教科書編集者の見識をみるのです。

 ちなみに、この歌では、下の句が「対句」になっています。「君には一日我には一生」のところです。「対句」によって、語調がよくなって、短歌としての形式が整うということを学習するわけですが、そんな学習事項は、もうどうでもいいように思います。

 編集者は、「対句」を学ばせるために、この作品を載せたのではなく、この作品からたちこめる切ない情感をとにかく中学生に触れさせたくて取り上げたに違いないと、私は確信に似た思いを持っています。

 

「かぎろひ」2015年1月号所収

「歌のある生活」9国語教科書のなかの歌⑤

 中学校の教科書に載っている短歌作品を紹介しています。

 中学生向けだからといって、平易な歌ばかりではありません。近代から現代にうつるにつれて、理解が難しい作品も登場するようになります。大人が鑑賞するにも、かなり歯ごたえがあると思われる作品を読み解きながら、それにプラスして、中学生は短歌の「学習事項」も学んでいくことになります。

 ところで、前回まで、いろいろと短歌について学習したのですが、覚えていますか。ちょっと、おさらいしておきましょう。

 短歌は、五七五七七の定型詩で、文語と口語があるということ。「句切れ」も学習しました。それから「擬人法」「体言止め」といった修辞技法のついても学習しました。

 では、ほかにどんなことを学習するのでしょうか。引き続き、光村図書の国語教科書の作品をみていくことにしましょう。

 ぞろぞろと鳥けだものを引きつれて秋晴の街にあそび行きたし    前川佐美雄

 さあ、この歌、どうでしょう。果たして中学生がストンと鑑賞できるのでしょうか。というか、大人の私にも難しい。これ、さらっと読んだだけなら、楽しそうな歌だねえ、で終わってしまうのでしょうが、それでは鑑賞になりません。結句「行きたし」に屈折があります。ここが鑑賞の分かれ目と思えるのですが、授業ではそこまで教えるのでしょうかね。国語の先生に聞いてみたいものです。それから、修辞技法としては、「鳥けだもの」と「街」の対比から、「換喩」を教えるのだと思いますが、果たしてそれも中学生に理解できるのでしょうか。

 こうした難解な作品が教科書に載っているのをみると、教科書編集者の「今はまだわからなくてもいいよ、大人になってわかればいいよ」というささやきが私には聞こえてきます。

 はとばまであんずの花が散つて来て船といふ船は白く塗られぬ       斎藤史

 ああ、これは、そんなに難解ではない。ちょっとほっとします。情景をしっかりと思い浮かべることで鑑賞できます。とくに、色彩の対比。あんずの花の白と、海の青。それでも歌われている情景を読み取るのはやや高度かもしれませんね。ちなみに、この歌では、学習するべき修辞技法はないと思います。句切れもありません。

 新しきとしのひかりの檻に射し象や駱駝はなにおもふらむ        宮柊二

「象」と「駱駝」が登場してさきほどの「鳥けだもの」とやや重なります。こちらは「なにおもふらむ」と歌っています。これは擬人法です。擬人法になっていることで、歌の理解はやさしくなっています。それに「象や駱駝は何を思っているのかあ」と想像することで、さまざまな解釈が生まれやすいと思います。私は、「換喩」を読み解く「鳥けだもの」よりも、「擬人法」で象や駱駝の気持ちを想像するこちらのほうが、中学生向きに思えます。

 ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ      佐佐木幸綱

 ちょっと早熟な感じがします。中学生でラグビーは早いです。この「吾」は、高校生以上でしょう。「吾の男よ」の隠喩も中学生に理解できるかどうか。けれど、中学校の教科書に載っている。なぜだろう。ここでも、「今はまだわからなくてもいいよ」という編集者のささやきが私には聞こえてきます。

 

「かぎろひ」2014年11月号所収

 

「歌のある生活」8国語教科書のなかの歌④

 中学校の国語教科書に載っている短歌作品を紹介していますが、いよいよ近代短歌のスーパースター石川啄木の登場です。

 

不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心        石川啄木

 啄木を中学生に紹介するなら、この一首で決まりでしょう。

 一読、かっこいいですよね。

 このかっこよさを中学生に伝えたいのですが、さて、どうやって伝えましょう。

 歌の意味はさほど難解ではありませんので、中学生でも理解できるでしょう。各々の感性で鑑賞できると思います。

 けれど、せっかくですので、この短歌の技巧的なかっこよさを伝えたい。「ここのところ、かっこいいね」だけでは、何のことだがわかりませんので、なんとか理屈をつけて伝えなくてはいけません。

 上句は、まあ、そんなにかっこいいわけではないですね。ここに短歌の技法は施されていません。技巧的にかっこいいのは、何と言っても下句です。「空に吸はれし」と「十五の心」です。これが、かっこいいのです。

「空に吸はれし」のポイントは二つです。一つは、擬人法です。空に吸われる、というのは表現として常套な感じもしますが、定型にハマっているだけに、巧い擬人法と思えてしまう。そして、もう一つは「し」。今の言葉でいえば「た」。「吸はれし」と「吸われた」では、まったく語感が違う。そんな文語の文体のかっこよさを伝えたいですね。

 結句「十五の心」は、体言止め。体言止めがどうしてかっこいいのかと言えば、それは止めることで生まれる余韻。「十五の心」でプツリと終わることで生まれる余韻を味わってもらう。

 と、私が今、思いつくままにダラダラと言ったことを、実際の授業では、国語教師が理路整然と説明するのだと思います。

 次の歌に移ります。

 

街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る          木下利玄

 この歌からは、短歌の技法として区切れを教えたい。

 中学生にとっては、この区切れの理解が難しいようです。どこで切れるのかが、どうもわからない。ですので、せめて教科書に載せる歌はわかりやすいものにしたいというのが、編者の意図でもあるでしょう。そこで、わかりやすい利玄の歌をここに持ってきたといえます。四句切れの名歌です。

 ちなみに、前回紹介した、若山牧水の「白鳥は…」も区切れのある歌ですが、何句切れかわかりますか。そうですね、「白鳥はかなしからずや」で切れますので二句切れです。

 さてさて、擬人法や体言止め、区切れを学習したところで、次にいきます。次は、女流歌人の登場です。

 

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり      岡本かの子

 岡本かの子の代表歌です。

 この歌で、字余りが登場しました。「いのち一ぱいに」のところです。ちっちゃい「っ」も一音とカウントします。けれどこの歌については、そんな技巧的なことよりも、二つの「いのち」の言葉の強さをしっかり味わってほしい。短詩ならではの迫力を受け止めてほしい、と私は思います。

 教科書には、こんな強い歌も載っているのです。中学生向けといってもあなどれません。

 

「かぎろひ」2014年9月号所収