伊福部昭「ラウダ・コンチェルタータ」

 伊福部昭の楽曲で、私は「タプカーラ」も「交響譚詩」も「ヴァイオリンの協奏曲風狂詩曲」も好きだけど、いちばん好きなのは「ラウダ・コンチェルタータ」だ。伊福部版マリンバ協奏曲なのだが、とにかく演奏者のテンションがモロにわかる。マリンバ奏者にとっては、おそらく難曲なのではないかとおもう。

 この曲の録音は、独奏が安倍圭子でヤマカズ指揮の新星日響が初版である。これは、初演のライブ録音でもあった。1979年である。CDはこれ。

 

伊福部昭交響作品集

伊福部昭交響作品集

 

 

伊福部昭交響作品集

 この演奏はすごい。ヤマカズよりも安倍が突っ走る。はじまりはまだオケだけなのでヤマカズにしては実に理性的であるが、序奏部の安倍のマリンバソロは、すでにあやしげなテンションである。続いてアレグロに入り、安倍のマリンバが入ったところから、急激に走る。もう、安倍は最初からトップギアの演奏なのだ。

 聴いている方は、記譜どおりなのかカデンツアなのかさっぱりわからない。とにかく、安倍がエキセントリックに叩いているのである。多分、ステージ上ではヤマカズ並みに跳びはねているんじゃなかろうかと思う演奏である。

 中間部を経て、後半のアレグロも、安倍がぐいぐい押す。だから、タテが合わない。オケがついて行けるわけがないという演奏。

 圧巻がコーダ。マリンバが弦と一緒にオスティナートを刻むのだけど、合うわけがない。途中からタムタムがリズムを刻むがそれとも合わない。ヤマカズはというと、私は勝手に確信しているのだが、拍節では振っちゃあいない。指揮台の上で、管楽器の長大な旋律とともに指揮棒をユラユラさせているに違いがない。そんな状態にもかかわらず、安倍は、後半の1オクターブ上げてのオスティナートで、なおも走る。つまり、本当の独奏となる。弦にも、管にも、打楽器にも合わせず、ひたすら刻む。

 しかし、ここが面白いところなのだけど、終わりは、ぴたっと合うのである。もう、これだけずれていると、指揮者の終止の合図がないと収束しないのだ。だから、ヤマカズがきちんと終わりの指示をだして、フォルティシモで漏らさず終われたのである。トゥッティでタテがあったのは、この終わりだけかもしれない。

 こうして初演の熱狂がひしひしと伝わるディスクなのだが、伊福部が好きな人じゃないと、珍盤扱いされてしまうかもしれない、という演奏だ。

 次に発売されたのは、吹奏楽版。1998年。マリンバ独奏は山口多嘉子。山口のマリンバもなかなか野生的とは思うが、安倍の演奏の後では、実に端正に聴こえてしまうから面白い。セッション録音というせいもあるし、スタンダード盤を作ろうという意図もあったのかもしれない。私は、スコアを持っていないので正確なことはいえないが、この演奏が記譜どおりの演奏なのだと思う。中間部の終わりがカデンツアなのだろう。安倍のと聴き比べれば、安倍がどれだけ楽譜を無視して叩いているかがわかるはずである。

 

シグナルズ・フロム・ヘヴン

シグナルズ・フロム・ヘヴン

 

 

 

 

 この2枚がラウダの現役盤だったが、最近になってCDが発売された。

 ひとつは、岩城と都響の1990年定期ライブ。発売は2014年。もうひとつは、石井真木と新響の1993年ベルリンライブ。発売は2012年。独奏はどちらも安倍圭子。

 

 

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

 

 

 

伊福部昭 傘寿記念シリーズの全て

伊福部昭 傘寿記念シリーズの全て

 

 

 

 私としては、安倍が歳をとり、どんな演奏を聴かせるのかに興味があった。

 まずは1990年の岩城指揮。安倍は、1937年生まれだけど、衰えは感じない。ヤマカズ盤と比べて、ずいぶん理性的な演奏。独奏だけなら、この盤がベストかもしれない。序奏や中間部などはもう少しどっしり演奏して欲しいなあとも思うし、なぜがタムタムのバランスがひどく悪い。それが残念な盤である。

 もう一枚の新響のライブだが、これもなかなかいい。オケの演奏が重々しい。やたら重低音を強調したミキシングになっている。ただ、安倍のマリンバが乗り切れていない。初演のときの荒々しさは消えている。ソロリソロリとした演奏だ。年齢による衰えなのかなんなのかはわからない。いいようにとれば枯れた味わいと言えなくもない。ただ中間部はそこそこいい。初演の録音があるだけに、この変わりようはちょっとした驚きである。

 結局、安倍の3枚は、聴く側の好みになってしまうかなあと思う。

 ただ、この曲は、これからも再評価されるに違いない楽曲だと思う。であるから、もしかしたら、今後、もっともっとすばらしい演奏に出会えるかもしれないという期待があるのだ。

 

伊福部昭「日本狂詩曲」

 高関健と札幌交響楽団による伊福部昭「日本狂詩曲」ほかのCDが発売された。発売といっても、2014年10月のことだから、もう1年近く前の話だ。

 CDは、こちら。

伊福部昭の芸術10 凛―生誕100周年記念・初期傑作集(仮)

 

伊福部昭の芸術10 凛―生誕100周年記念・初期傑作集

 この「日本狂詩曲」、まったくもう、すばらしい。

 

 実は、私はこの演奏をライブで聴いている。2014年5月の札響定期である。プログラム1曲目が「日本狂詩曲」だったが、はじまりのビオラの一音で、やられてしまった。これまで、いろいろな演奏をCDで聴いたけど、この歌い方はなかった。そして、テンポ設定と音色。もう、すべてが高関ブラボーの解釈だった。

 私にとって、高関健の演奏は、ライブでは札幌交響楽団との演奏しか聴いたことはないけれど、彼の学者肌のアナリーゼには信頼をおいている。演奏会でハズれたことがない。とにかく緻密なのだ。そして、その高関の解釈を、札幌交響楽団はしっかり応えていると感じていた。

 今回の伊福部は、それが完璧というくらいの演奏だった。高関の緻密なアナリーゼもオケの演奏も見事だった。

 Ⅰの「夜曲」。高関のテンポは、遅い。多分、ディスクとして録音のあるすべての「日本狂詩曲」のなかでもっとも遅いんじゃないだろうか。けれど、これが、実にしっくりくるのだ。この遅いテンポが正統なのだという説得力がある。そして、ダイナミクス。高関は拍節単位で、ダイナミクスを計算していることが聴いていてよくわかる。そして、それをオーケストラが見事にこたえる。「日本狂詩曲」のⅠの夜曲は、第1テーマで単旋律が切々と歌い上げるから、その歌い方とダイナミクスが曲にとっては重要になるのだ。それは、ビオラ奏者をはじめとする奏者の巧い下手ではなく、いかに構成するかという指揮者の構成力によるところが大きい。高関は見事に「夜曲」のスコアを読みきっていた。繰り返しになるが、冒頭のビオラの歌い方は、これまでにない解釈であり、まさしく、この歌い方が正統だったとわかるのだ。

 Ⅱの「祭り」。ここでも、高関は決して勢いで曲を流すことはない。やはりテンポは遅め。(私は、スコアを残念ながら持っていないのだが、これが指示されているテンポだと思う。他の演奏は、指示よりも速いんじゃないかというのが私の印象だ)。この曲は、楽譜に正確に演奏すれば、最大限の効果があるといっているかのような、端正な演奏。

 ただし、この曲は何といってもバランスをとるのが非常に難しい。たとえ打楽器協奏曲だとしても、打楽器が終始フォルテで鳴っていたら音楽にはならない。やはり、緻密なアナリーゼが必要になるし、そもそも緻密にオーケストレーションが施されているのだ。単調な旋律の繰り返しにみせて、瞬間瞬間、パッ、パッ、と音色がかわる。この音色の変化を巨大な打楽器編成でいかに聴かせるがというのが、この曲のポイントなのだ。

 伊福部の曲は、重低音でアレグロでフォルテでオスティナートで、とにかくゴリゴリの大味な曲という印象をもたれがちだが、そんなことはなく、この「日本狂詩曲」のように緻密なオーケストレーションでかかれている曲もある(そうじゃなく、ものすごく大味にかかれている曲も、もちろんある)。だから、勢いで押してしまう演奏は、スコアに書かれた精密さまで到達しないのだ。

 高関は、後半になってもテンポを上げない。そして、バランスをきちんと計算して打楽器を鳴らす。なんて、心地いい「祭り」だろう。伊福部が書いた音符が、きちんと鳴っている。粗野とか野蛮とかとは反対の、スタイリッシュな演奏。指揮者の意図がはっきりわかる演奏に出会えるというのは、とても嬉しい。

 ライブで聴いたとき、ああ、この曲だけでもう十分、という気持ちだった。

 それが、CDとなって発売されている。

 聴くと、あのときの演奏が、見事に再現されている。録音技術もホールも響きも、すばらしい。

 かつて、「日本狂詩曲」のディスクといえば、山田一雄、東京交響の1962年録音版しかなかった。私は、この曲が流れたFM放送をカセットテープに録音して繰り返し聴いた。この演奏、悪くない。録音もそこそこしっかりしていて、曲の全体像をきちんと伝えている。

 次に出たのが、おなじくヤマカズ指揮、新星日響の1980年録音版だ。これ、私が買ったのは、1993年発売版だが、たぶん再発なのだろう。これは、まさしく狂詩曲にふさわしい狂ったような演奏。バランスもタテセンもバラバラ。超高速の「祭り」。ただ、これはこれで記念碑的な演奏といえた。

伊福部昭交響作品集

 そうして徐々に伊福部の再評価が高まりつつあったが、決定的になったのが、1995年からのキングレコードによる伊福部シリーズだ。広上、日フィルによる「伊福部昭の芸術」シリーズ。この第1弾の1曲目が「日本狂詩曲」だ。ハイレベルな録音技術と演奏。この録音が「日本狂詩曲」のスタンダードとなった。「日本狂詩曲」だけではなく、伊福部音楽を聴くならこのシリーズだ。このシリーズによるセッション録音は、録音も演奏も本当に申し分ない。「タプカーラ」も「サロメ」も「交響譚詩」も「土俗的三連画」も、この広上、日フィルでの録音を越えるものは出てきていないと思う。

譚 ― 伊福部昭の芸術1 初期管弦楽

 このシリーズが、伊福部の死後も続いていて、2014年で12枚目になった。売れるからだろう、すでにセッション録音された楽曲が、わざわざライブ音源でもリリースされている。

 今回の高関、札幌交響楽団も、このシリーズの一枚で、第10弾目ということになる。

 だから、このシリーズの「日本狂詩曲」の2枚目のディスクということになる。

 ぜひとも聞き比べてほしい。広上、日フィルと高関、札響の「日本狂詩曲」。どちらが、いいだろうか。私は、言うまでもなく、札幌のほうがいい。他の「日本狂詩曲」のディスクと比べてもそうだ。沼尻と都響ナクソス版、岩城と都響のライブ版、小泉和裕と新響の卒寿版。私はこれらのディスクを聴いたけど、今回の札幌版にはかなわない。冒頭のビオラからして高関版は違う。

日本管弦楽名曲集

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

 

 今回、こうして「伊福部昭の芸術」シリーズにこの演奏が名を連ねることになって、本当によかったと思う。この演奏が、「日本狂詩曲」のこれからのスタンダードとなった。このディスクが「日本狂詩曲」の決定版である。そして、演奏している札幌交響楽団が、中央のオケに引けをとらない優れたオケであることもわかったことだろう。

「歌のある生活」13「音楽」の歌その1

 音楽をうたった歌に出会うことがあります。

 有名なところではこんな歌です。

 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき         近藤芳美

 この歌、一般的に名歌ということになっています。たとえば、永田和宏はその著「現代秀歌」(岩波新書)で、巻頭歌としてこれをあげ「近藤芳美の代表作のひとつであり、戦後短歌の出発を伝える歌であり、さらに戦後の相聞歌を代表する一首ともなった記念碑的な歌である」と絶賛しています。

 私にはどうにもキザッたらしいという感覚なのですが、永田をはじめ、現在でも多くの人が「良い」というので名歌になっているのでしょう。

 それはともかく、下句です。「或る楽章」です。「或る楽章」というのですから、クラシック音楽なのでしょう。ここでは、軽やかなハイドンとかモーツアルトではなく、ベートーヴェンブラームスのシンフォニーのような重厚な感じが合っているように思います。で、そんな楽章を作者は「思ひき」。つまり「思った」というわけです。

 ここに私は引っかかります。それって「思ふ」ものなのでしょうか。

 音楽は「思う」もの?

 どうでしょうか。

 私は、音楽というのは、普通一般に言う「思う」とは違うものと考えます。感覚的に言うと、頭のなかであれこれと思い浮かべるのではなく、気が付けば、すーっと頭の中を流れてくるもの、といった感じです。

 言い換えると、「思う」とは、言葉を思い出すといったように「言語」の記憶でありましょう。あるいは、風景や情景、幼き日の思い出といったように「視覚」の記憶に対しての想起がしっくりくる。

 一方、音楽というのは、聴くものですから「言語」や「視覚」の想起とは違う。もちろん、音楽も記憶することには違いがありませんので、頭のなかで記憶された音楽は「思い出す」ものでしょう。しかし、「言語」や「視覚」の記憶の想起とは、違ったものではないか、というのがここでの私の疑問です。

 近藤の歌に戻ると、君の姿が霧にとざされてしまったのを見て、われは或る音楽を思った、というのではなく、或る楽章が頭のなかにすーっと流れてきた、といった感じのほうが、よりしっくりくるのではないでしょうか。ですので、結句の「思ひき」は人間の感覚としては違うのではないかというのが、私の意見です。

 しかし、この歌、トリックとまではいきませんが、実は、この「思ひき」にちょっとした仕掛けがあります。

 それは、どういう仕掛けかというと、この「思ひき」によって、読者は、それはいったい何の楽章なのだろうと「思ってしまう」のです。「或る楽章」と匿名にしていることからも、近藤は、それを狙っているのはたしかでしょう。そうして、読者は、どんな楽章なのなかあと、あれこれ想像してしまうのです。さっきの私のように、ベートーヴェンかな、ブラームスかな、といったみたいに、「思ひき」で、まんまと作者の意図にのってしまうというわけです。

 今回から不定期で音楽の話をしていきます。これには、私の短歌に関する問題意識があります。それは「短歌で音楽をいかに表現するか」という問題意識です。次回は、この辺りのことのお喋りからはじめます。

 

「かぎろひ」2015年7月号

「短歌人」4月号ベスト3

ずり下がるライダーベルト押さへつつ正義のための飛び蹴りをせり 河村奈美江

「正義」の歌である。こうした大きな言葉を歌にするのは、たいへん難しい。正面からうたおうとすると、どうしても気負いすぎて、歌にならずに安っぽいアジテーションになってしまうのは、皆さんご承知の通り。ならば、ちょいと斜に構えてアイロニーにしましょうかしら、というのが、せいぜいのところ。しかし、作者は第三の道を行く。

 強いて言えば、ファンタジーといえようか。「正義」という歌にするにはあまりに大きな概念を、別の世界観を創出させることで詩歌に昇華させた鮮やかな一首である。別の世界観とは、すなわち、子どものごっこ遊びの情景だ。

 跳び蹴りをしているのを作者とすると、かなりアクロバティックな読みになるが、ここは素直に、どこかの少年たちが仮面ライダーごっこをしている様子を作者が歌にした、と読むのがいいだろう。幼い子どもが、身体よりも大きいライダーベルトを押さえながら仮面ライダーになりきって、「正義」のために、敵に向かって飛び蹴りをしているのだ。いまどきの子どもがこんな遊びをしているのか知らないけど、仮面ライダーがまごうことなき「正義」だった時代には、そんな情景はあったに違いない、と読者は共感できよう。子どもたちが、かつて、ごっこ遊びに夢中になっていたであろう情景を夢想することで、現実世界の「正義」の意味が生きてくるのだ。

抽出しの中に夜あり少年の失いやすき詩の眠るため         鈴木秋馬

 この抽出しは、自室の勉強机の抽出しだ。夜に、少年は、いつもの勉強机に向かう。そして机の抽出しをひらくと、そこに詩が眠っているのだ。

 まさしく少年の歌だ。ああ、私にはうらやましい。もう私には自分の部屋もなければ机もない。抽出しを探そうとすれば、職場の事務机だ。そんなところには、詩は眠っちゃあいない。代わりに、おどろおどろしいものが入っていて、とてもじゃないが歌になんてできやしない。

 けれど、そんなくたびれたオッサンにも、うら若き少年の頃はあって、あの頃の自分の勉強机の抽出しには、ちゃんと詩が眠っていたのだ。どんな詩だったかと思い出そうとするのだけど、ああ、もう思い出せない。きっと純粋で可憐な恋の詩だったに違いがない。そうだよなあ、そんな感情なんてもうとっくに失われてしまったのだ。こんなにも失いやすきものとは、少年の頃には思いもよらなかったなあ。なんてぼやきつつ、また夜が明ければ、私は職場に向かい、開けたくもない事務机の抽出しを開けるのである。

力まずにひとと会話ができなくてひたすら齧る鳥の肝串      有朋さやか

 肝串である。だいたい、肝串をうたおうとする心意気に惹かれる。だって、どう歌にしようにも、肝串じゃあ上品な歌にはならないに決まっている。それに語感からして、イマイチな感じが漂う。

 しかし、上句からの流れで、ウマい具合に仕上げた。「ひたすら齧る」のカジルというあまり美しくない語の響きも肝串にはぴったりである。そして、結句の体言止め。するすると読ませて、おおこりゃ、着地もいい感じではないか。

 こういう素材の生かし方というのもあるのだなあ。そもそも上句は、詩ではない。にもかかわらず、肝串の下句がつくことで、見事に詩になっている。この構成力も実にすばらしい。感服の一首だ。

 

「短歌人」2015年6月号 所収

 

 

「歌のある生活」12子どもが詠んだ歌

 先日、学校の先生方の研修会で、短歌についてお喋りをする機会があった。研修会といっても参加者は十人程度の小さいもので、国語科授業の韻文学習の研修というのが会の目的であった。この研修会、実は私の昔の仲間の企画で、そういえば元教員の桑原が、最近は短歌をやっているらしいから、あいつを呼んだら面白いだろうということになって、私に声がかかったのだった。それで、昔の仲間のよしみで、一時間ほど短歌についてお喋りをしたのである。

 国語専門の教師に向かって、短歌について何か教育的な提言をすることなど、私にできるわけがなく、それでも、子どもの短歌作品の紹介や解説くらいだったらできるだろうとは思い、そこで、今回は「平成万葉集」(読売新聞社)をテキストに、そこに掲載されている子どもの作品を紹介することにした。この本は、出版が二〇〇九年とやや古いものの、現代を生きる市井の人々の飾らない生活歌が満載で、とくに、小中高生の子どもの歌が豊富に採られているのがいい。

 そこから私は、五首ほど選び、先生方に解説をしたのであったが、そこで思ったのは、とにかく、子どもの歌はすごいということだ。奇をてらわずスルッと詠む。にもかかわらず、技巧的にもウマい。もう、脱帽である。と、いうようなことを、研修会で喋った。以下に、歌の紹介と私の解説を載せるが、はたして私の感激が伝わるだろうか。(すべて前掲書所収、年齢は出版時)

はるのやまちょうちょがとんでにぎやかにみずのなかにこいがいっぴき

                              塩田丸子 (八歳)

 たぶん、この子は、はじめて短歌を詠んだのではないか。蝶の数の多さとの鯉が一匹だけという対比。実に巧みである。これだから、子どもの歌は、あなどれないのである。

公園でひみつの道を進んだらヨウシュヤマゴボウむかえてくれた 末岡玉恵 (九歳)

 普通に詠んでヨウシュヤマゴボウは出てこない。これは、担任の先生が「自分だけの発見を歌にしてね」という指導をしたに違いない。かように、教室での短歌創作のときには、教師の指導言は重要なポイントになる(と、少しは、講師らしいことを喋る)。

赤とんぼ差し出す指にそっととまる恋もそうならいいなと思う                              

                            築比地彩花 (十四歳)

 これはウマい。上句で実景を詠い、下句で心情を詠うという短歌の王道をいく構成。しかし、そんなこと作者はわかって作っているわけがない。詠んだらそうなったのだ。だから、子どもの歌はすごいのだ。

もう寝よう思ったとたんに朝になる夢もみるひまないくらいに 大久保藍(十四歳)

 この歌は二通りの解釈ができる。毎日が充実しているという現状肯定的な解釈と、今が忙しくて未来への展望が見られないという否定的な二つである。どちらを解釈してもいい。解釈の広がりのある歌は、いい歌である。

スベリ台幼い頃は大きくてこんなぼくでも世界が見えた     田村 元 (十五歳)

 中学生になると屈託のある歌が詠まれるようになる。「こんなぼくでも」が鑑賞のポイント。また、上句はたいへん共感性が高い。短歌は共感の文芸であるから、子どもの心情に寄り添って、歌を解釈するのは短歌の学習としては重要である(と、講師らしいことを喋って、終わった)。

 

「かぎろひ」2015年5月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌⑦

 前回まで、教科書のなかの歌を皆さんと見てきました。今回は、その番外編といった感じで、私の教科書の思い出について、おしゃべりしたいと思います。

 私が中学生だったとき、教科書でこの作品に出会いました。

 みちのくの母のいのちを一目見む一目見むとぞいそぐなりけれ      齋藤茂吉

 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天にきこゆる

 のど赤き玄鳥ふたつ梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 齋藤茂吉「死にたまふ母」の一連からの三首です。私は、この歳になってもまだ教科書に載っていたこの三首を覚えています。

 別段、その当時の私は、短歌に興味のあった早熟な少年だったわけではなく、ごく普通の中学生でした。まさか、こんな歳になって短歌を詠むなんて、当時の私にはまったく想像もしていなかったことでしょう。ですので、私は、当時さほど短歌に関心があったわけではなかったのですが、こうして今でも教科書に茂吉の作品が載っていたことを覚えているのです。この私の経験から、私は、教科書にどの作品を載せるのかというのは、とても重要なことだと思うのです。なぜなら、ずっと、生徒の記憶に残るものなのですから。

 では、どの作品を載せるべきか。というと、大前提として、近代現代を代表する歌人の作品を載せる。そのうえで、できるなら、その歌人の代表歌を載せるべきだと思います。

 私の場合は、斎藤茂吉でした。茂吉には膨大な作品がありますが、この「死にたまふ母」もまた茂吉の代表作であることに異論はないと思います。ですので、私は短歌とよい出会いをしたと思っています。

 ところで、学校では、教科書のほかにも、短歌作品に出会うことがあります。私の場合は、国語の資料集からでした。そこにも、いくつか現代短歌が資料として載っており、それらの作品が私の記憶に残っています。たとえば、こんな歌が資料集には載っていました。

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子

 この歌は、なかなか印象的でした。へんてこりんな歌だなあという感じでしょうか。ガサッが、あまりに直截で、それが記憶に残ったのですね。これが、河野の代表作であり、現代短歌の代表作と知るのは、もちろんずーっと後のことです。今となっては、ガサッもそうですが、初句の「たとへば君」が斬新だなあ、という感想をもちます。

 もう一つ。資料集には、塚本邦雄の作品がありました。

 日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも        塚本邦雄

 これ、中学生にはさっぱり意味がわからない。で、資料集にある解説を読んでみました。だいたい、次のような解説でした。

皇帝ペンギンは、日本を脱出したいと思っている。そして、飼育係もまた脱出したいと思っている」

 うーん、そうか? 中学生の私は、この解説文は、どうも違うのではないかと直感的に思っていました。今、あの時の私の感覚は正しかったと思います。

 やはり、この解説は変ですよね。現代短歌の最前線を載せるにせよ、解説文を書く編集者も腕組みしてしまうような作品は、載せないほうがいいでしょうね。

 

「かぎろひ」2015年3月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌⑥

 さて、国語教科書に載っている短歌の紹介も今回で最後です。とうとう残り三首になりました。近代から現代へ、現役の歌人の作品も登場してきています。さあ、誰のどんな作品を中学生に紹介しましょう。

 白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり      高野公彦

 高野公彦の登場です。夜の公園でしょうか。霧にしっとりと濡れている自転車が置かれてある。その自転車が、まるで翼をもっているようだと詠っています。

 この歌は、中学生に紹介するにふさわしい作品だと思います。鑑賞のポイントは「ほそきつばさ」です。これで、夜の公園で霧に濡れた自転車が、ぐっと引き立ちます。「隠喩」の効果といえましょう。では、この「ほそきつばさ」は、何をたとえているかわかりますか。正解は、自転車のハンドルです。

 ただ、私は、ハンドルが翼に見えるのは、どうにも無理のあるたとえのような気がしています。けど、この名歌について、そういう意見を言う人はいないようですので、皆さんはすんなりと鑑賞できているのでしょう。

 国語の授業では、まずは「隠喩」をおさえてから、夜の公園で自転車が霧に濡れている情景について、自由に思ったことを発表する、というような学習をするのでしょう。

 次に紹介するのは、河野裕子の歌です。

 土鳩はどどつぽどどつぽ茨咲く野はねむたくてどどつぽどどつぽ    河野裕子

 この歌は、変化球です。現代短歌には、ちょっと変わった、そして面白い歌もありますよ、と中学生に紹介するのでしょう。教科書に掲載されている十二首の中には、秀歌ばかりではなく、こうした変化球もまじっています。私は、教科書に変化球をまじえるのについて反対はしませんが、大賛成というわけではありません。なぜかというと、この歌は河野の代表作というわけではないからです。河野にはもっともっといい歌があります。ですので、この作品で河野裕子を紹介してしまうのは少し残念な気がするのです。

 さて、最後の歌になります。最後は、栗木京子のこの歌です。

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生           栗木京子

 栗木の代表作であり、現代短歌の名歌でもあります。

 私は、この作品が中学校の教科書に載っていることに、正直驚きました。中学生には、ちょいと早くないかなあ、と思うのです。せめて高校生だったら、この歌の情感をしっかりと味わえるとは思うけど、中学生には無理ではないか…。

 こうした私の意見は、前回の佐佐木幸綱の作品にもいえました。けれど、教科書は、中学生にはやかろうが、そんなことはおかまいなしに触れさせるわけです。ここに、私は、教科書編集者の見識をみるのです。

 ちなみに、この歌では、下の句が「対句」になっています。「君には一日我には一生」のところです。「対句」によって、語調がよくなって、短歌としての形式が整うということを学習するわけですが、そんな学習事項は、もうどうでもいいように思います。

 編集者は、「対句」を学ばせるために、この作品を載せたのではなく、この作品からたちこめる切ない情感をとにかく中学生に触れさせたくて取り上げたに違いないと、私は確信に似た思いを持っています。

 

「かぎろひ」2015年1月号所収