「歌のある生活」16「音楽」の歌その3

 前回は、問いを投げたところで終わりました。「音楽」が鳴る歌は、バッハやモーツァルトでは作りやすいけれども、他の作曲家では難しい。それはなぜでしょう、という問いでした。

 さて、なぜでしょう。

 まず、単純な理由として、字数の問題があります。バッハは三音ですので、短歌に突っ込みやすいのです。これがチャイコフスキーならどうでしょう。こいつ、日本人にやたらと人気のある作曲家なのですが、こいつを詠んだ短歌作品は、バッハにくらべたら格段に少ないと思います。で、なぜかといえば、字数が多いから。歌にハマってくれないし調べもものすごく悪くなる。同じ理由でメンデルスゾーンも歌には向かない。それにくらべたら、モーツァルトは字数がいい。六音ですので助詞をつければ、二句や下句にはめやすい。そのうえ、音の響きもいい。同じ六音のベートーヴェンとくらべても、濁音のない分、響きが柔らかい。いきおい歌にしやすいということがいえます。これが第一の理由です。

 二つ目の理由。こっちのほうが、ずっと重要ですが、それは、バッハとかモーツアルトといえば、どんなイメージなのか、読者に察しがつく、ということです。

 どういうことかというと、バッハの曲というのは、バロック調の荘厳で杓子定規な音楽というイメージであるということ。いやー、そんなことはないと思うかもしれませんが、皆さんが思い浮かべるバッハの曲というのは、そうじゃないですか? そういうわけでバッハは共通のイメージを結びやすいのです。

 ですから、こんな歌まであります。

確定申告、バッハのように整然とレシート貼りて提出をせり

                  花山周子『屋上の人屋上の鳥』

 もう、バッハが比喩になってしまいました。「バッハの曲のように」ではなく、「バッハのように」で、じゅうぶん通じてしまうのですね。それくらいバッハは、共通のイメージがあるということなのでしょう。

 同じように、モーツァルトも曲に共通のイメージがある。それは、若々しく、明るく軽快なイメージです。レクイエムや交響曲四〇番冒頭のもの悲しい短調の旋律も印象深いのですが、どういうわけか、モーツァルトといえば、からっとした陽性の響きを誰もが思い浮かべるのです。ですから、こういう歌になります。

梅雨晴れのふとまばゆさを増す空にモーツァルトの靴音がする

                     永井陽子『ふしぎな楽器』

 じめじめした梅雨時期にふとみせる、晴れた空にふさわしい音楽として、アイネ・クライネあたりが靴音とともに鳴るわけです。もう、ぴったりじゃありませんか。

 では、ベートーヴェンはどうなのか。というと、皆さん、イメージそれぞれになってしまう。「運命」のジャジャジャジャーンもあれば、「第九」の大合唱もある。ピアノ曲なら「悲愴」もあれば「月光」もある。もう、曲のイメージがバラバラなわけです。ですから、バッハやモーツァルトのようにはいかない。他の作曲家も同様です。固定されたイメージがないから、歌にはしづらいのです。

 しかし…。固定されたイメージがないのにもかかわらず、音楽家や音楽を題材にしている短歌がまわりにはたくさんあります。それは、私からすると、非常に問題アリの歌です。次回はそんな問題アリの歌を取り上げます。

 

「かぎろひ」2016年1月号所収

「歌のある生活」15「音楽」の歌その2

「音楽」を題材にした歌についてのおしゃべりの二回目です。

「音楽」を題材にして作歌する以上、その作品には「音楽」が鳴っているべきである、というのが、私の主張です。

 前回は、近藤芳美の作品をあげました。「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」です。この歌について、前回、あれこれ理屈をこねてみたわけですが、とはいえ、この歌はちゃんと「音楽」が鳴るのです。「或る楽章」の部分で、読者はそれぞれ思う「或る楽章」の音楽を頭の中で響かせるわけです。もちろん、それはベートーヴェンだろうが、シューマンだろうが、何でもいいのです。その響きは読者にゆだねられています。ですので、この作品は、さーっと「音楽」が鳴る一首といえます。私の主張にかなう作品です。

 こうした歌をほかにもあげてみましょう。たとえば、こんな作品はどうでしょう。

ヘッドフォンのバッハの曲をたましひの一(ひとつ)窓(まど)とし車中に眠る  

                              高野公彦『水苑』

 列車に揺られている。耳にはヘッドフォン。そこから流れているのはバッハの曲。それを聴きながら「たましひの一窓」として眠る、というのです。「たましひの一窓」の隠喩がこの作品の核であり、表現のオリジナリティなわけですが、この隠喩が列車に揺られながらヘッドフォンで音楽を聴いているという状況にぴったり合っています。そしてバッハ。「たましひ」なんていう巨大な言葉に対峙できるのは、音楽の父バッハしかいないでしょう。ですから、「たましひ」と「バッハ」もまた、ぴったり合っています。では、ヘッドフォンから聴こえているバッハの曲は何か。

 バッハで「たましひ」といえば、「マタイ受難曲」かなあ、なんて私は想像してしまうのですが、この歌のすぐれているところは、曲名を明示していないことです。このことで、読者の想像がぐーんと広がるのです。

バッハの曲なら一曲くらい読者は知っているだろう、という高野なりの計算がはたらいているともいえるのですが、とにかく、バッハなら何でもいい。この歌を読むと読者の頭の中に、バッハの曲が響くわけです。

 このような構成の歌をもう一首あげます。今度は、モーツァルト

やはらかな血管のやうにうねりくるモーツァルトをねんねんころり

                      松川洋子『月とマザーグース

 これも、高野のバッハと同様、読むと読者の頭にはモーツァルトが響いてきます。モーツァルトの音楽を、「やわらかな血管のやう」とたとえたのは見事というしかありません。どんな曲でもいいです、頭の中で鳴っているモーツァルトは「やわらかな血管」というにふさわしい音楽じゃあありませんか。これが、ベートーヴェンじゃだめですね。たとえば「運命」冒頭のジャジャジャジャーンは、血管の生命力とは呼応しますが、やわらかくはないですね。まさにモーツァルトがどんぴしゃなのです。なお、結句の「ねんねんころり」は解釈してはいけません。ここは、松川ならではのユニークな言語感覚を楽しむところでしょう。

 今回は、バッハとモーツァルトを題材にした作品を紹介しましたが、実は、作曲家を短歌の題材にするとき、バッハとモーツァルト以外で作歌するのは、とっても難しいのです。

さあ、なぜだかわかりますか?

次回は、そのあたりのことについておしゃべりします。

 

「かぎろひ」2015年11月号所収

「歌のある生活」14ある状況を歌にする

 今回は、いきなりクイズからはじめましょう。次にあげる二首は、どちらも同じ「ある状況」を歌にしています。さて、どのような状況を詠んだものでしょうか。

電車ならまだあるだろう特製のベーコンエッグ食べに来ないか     新名リオ

痛みあれ 右手のひらが持つ熱を真つ直ぐあなたに伝へるために     門脇篤史

 さあ、わかりましたか?

 正解は「壁ドンして一首」でした。

 ええと、まず「壁ドン」を説明します。昨年あたりから、主に少女マンガの世界で流行ったシチュエーションです。男性が女性を壁際まで追い詰め、壁を背にした女性の脇に手をつき「ドン」と音を発生させ、腕で覆われるように顔が接近すること、…なんていうのが一般的な説明のようです。これが、テレビのバラエティ番組などで取り上げられて、シチュエーションとともに「壁ドン」というコトバ自体も流行しました。

 で、この「壁ドン」ですが、これを短歌にしてしまおうという歌会が、インターネットの世界で催されました。題詠ならぬ、壁ドン詠というわけです。中牧正太の運営する「むちゃぶり短歌」というネット配信形式の投稿テーマの一つでした。

 先にあげた二首は、その「むちゃぶり短歌」の投稿作品からのものです。

 この「壁ドン」短歌、私が面白いなあと思ったのは、「ある状況」で一首、という発想です。これは、題詠とはちがいます。今回でいうと、「壁ドン」というコトバを詠むのではなく、「壁ドン」という状況を歌にするのです。ですので、先の新名リオの歌は、「壁ドン」のあと、男子が女子に向かって言っているセリフを歌にした、ということです。また、門脇篤史の歌は、「壁ドン」直後の男子の心情を歌にした、といえるでしょう。

 この「ある状況」を歌にする、という発想は、わたしたちが作歌するうえで実に有効なことと考えます。よく、短歌の入門書などに、短歌は一瞬を切り取るとよい、なんて書いてあったりしますが、この「壁ドン」は、まさしく一瞬を切り取ることで、歌になるシチュエーションなわけです。

それから、この「壁ドン」短歌が秀逸なのは、サブカル的な要素をてらいなく短歌に持ってきている、ということもあります。ただ、これはネットの世界ならでは、ということがいえるでしょう。こうした遊びを含んだ歌会が気軽にできるのは、ネット短歌の大きな利点でありましょう。

 そんな「壁ドン」短歌。おしまいに、女性の側からの歌を紹介します。「壁ドンして一首」ならぬ「壁ドンされて一首」ということです。こういう現代的なテーマで女性の恋心を歌わせると実に巧いのは、嶋田さくらこです。彼女もネット歌人の一人で、ネット投稿による歌誌「うたつかい」の発行人として活躍しています。また、書肆侃侃房より第一歌集「やさしいぴあの」を刊行している気鋭の本格派歌人でもあります。そんな彼女の「壁ドンされて一首」は、これ。

うつむいて上手くかわしたはずなのにつむじにキスをしてくるなんて 嶋田さくらこ

 ちなみに、去年の流行が「壁ドン」なら、今年の流行は「顎クイ」らしいです。どんな状況なのかは、もうどうでもいいことなので説明しません。もちろん「顎クイ」の短歌も紹介しません。

 次回は、また違うおしゃべりをします。

 

「かぎろひ」2015年9月号所収

 

2014.05.30札幌交響楽団定期演奏会記 伊福部昭プログラム

2014.05.30札幌交響楽団定期演奏会

 

伊福部昭演奏会。

 

 私がはじめて伊福部を聞いたのは、高校の時だったと思う。

 多分「交響譚詩」だったろう。わかりやすい曲想で、1楽章はアレグロでぐいぐい押すから、高校生の時分には楽しめていただろう。

 そのうち、「日本狂詩曲」がNHK-FMでかかったので録音した。カセットテープの時代である。そして、当時のレコード(CD)録音は山田一雄と東響のしかなかった。これを繰り返しきいた。

 1995年からのキングレコードの伊福部シリーズには歓喜した。私は就職して、独身だったから、CDにカネをかけることができた。そして、広上淳一と日本フィルの名演奏名録音で楽しんだ。

 今では、伊福部のCDはやたらと現役版がでていて、もうフォローできなくなってしまったが、00年代前半くらいまでの伊福部の管弦楽の現役版は私はすべて持っていたはずである。

 伊福部の音楽の特徴はアレグロオスティナート。これをフォルテで執拗にやれば、疑似的なトランス状態になる。これが、伊福部音楽の最大の魅力だといえよう。伊福部本人も言っていたが、現在、彼の音楽が再評価されているというのは、ロック音楽のようなサウンドが普通になったことも要因とはいえよう。とにかく、大音響で鳴らす気持ちのよさに人々は魅かれているのは間違いない。

 

 さて、札響定期。

 1曲目はその「日本狂詩曲」。1935年に作曲され、先述のとおり、現役版はしばらく60年代に録音されたヤマカズ盤だけだった。北海道では、やっと2002年に札響が初演した。私は、この演奏会に行きたかったが、当時、教員だった私は、見事に学校行事の体育大会とぶつかっていて、あえなくいけなかったという思い出を持つ。このときは、体育大会の順延を願っていたがかなわなかった。

 札響は今回が2度目の演奏。指揮は高関健。

 1楽章。ゆったりとしたテンポ。ヤマカズはもちろん、広上・日フィル盤よりも、ナクソス都響よりも遅かった。けれど、それが、ピタリとはまっている。私は、高関の指揮はメシアンのトゥーランガリラもそうだったが、基本的に信頼している。実は、飯森泰次郎も、伊福部を取り上げたことがあり、それを札幌定期で聞いたことがあるが、このときは残念な演奏だった。気持ちが入りこんでしまって、どんどん荒くなるのだ。鳴らしすぎてしまう。それではだめなのだ。伊福部音楽は、アレグロオスティナートで突っ走ればいいというものではない。

 実は、相当、精緻な管弦楽法を用いているのである。これは、どうしたって、一面ではゴジラシリーズの映画音楽が伊福部の特徴だったりするから、なかなか気がつかないのだけど、「日本狂詩曲」なんて、本当に、細かくオーケストレーションがなされている。高関は、それをちゃんと聴こえるように整理しているのだ。

 それは私には感激であった。1935年の日本人がつくったまさしく現代音楽なのだ。すなわち、西洋音楽の伝統にのっとっていない、和声も旋律もリズムもすべてが新しい、日本発の現代音楽なのだ。

 2楽章の「祭り」も同様に、高関は冷静である。決して、バランスを崩さない。オケをはしらせず、知的にセーブする音楽づくり。これが伊福部の音楽には必要なのだ。そうすることで、若干25歳の伊福部が書き上げた巨大なオーケストレーションがわかるのだ。

 私は、感激した。この「日本狂詩曲」が聞けて私は思い残すことがない気持ちだった。だって、20年来の夢がかなったのであるから。

 

 2曲目はヴァイオリン協奏曲2番。

 これは札響初演。もしかしたら、献呈者の小林氏以外の演奏は、今回が初めてじゃあないかしら。多分、CDも小林と芥川指揮の新交響楽団の1枚だけだと思われる。

 演奏は、独奏者である加藤知子の音色は実に曲にあっていたと思った。

 私は、ヴァイオリン協奏曲の1番(ヴァイオリンの協奏風管弦楽曲)も、キタラで、徳永二男の演奏で聞いたが、あのときは、緊張感を抑え、開放的なおおらかな演奏で、その解釈も悪くないと思った。今回は、かなりヴァイオリンが主張していた。

 ただ、曲でいうとやはり、1番のほうが、メロディも構成も良いと思う。2番は、1番と比較をするなら、やはり演奏回数が少ないのも仕方がないと思う。

 休憩後、「土俗的三連画」。この曲も、私は札響の放送をエアチェックしてカセットに録音して繰り返し聞いていた。その録音が札響の初演だったのは今回はじめて知った。で、今回が札響2回目の演奏だという。

 これは、アレグロオスティナートではなく、伊福部節を堪能する曲。演奏はバランスもよく、楽しめた。

 メインは、シンフォニアタプカーラ。伊福部の代表曲にして、名演も多い。私は、実演を観るのは初めてだったが、たくさんの演奏をCDで何度も聞いているので、「日本狂詩曲」ほど大きな感激はなかった。

 金管楽器にとっては、難曲の部類に入るのだと思う。それでも、1楽章はいいつくりをしていたし、3楽章も理性的な演奏で楽しめた。けれど、やっぱり、フォルテで鳴らしてほしいところが物足りなかったり、ところどころバランスが崩れたりして、ブラボーというほどでもなかった。

 ただ、録音を聴けばまた違った感想になるかもしれない。

 

 これで、また、私の夢がかなった。

 伊福部の曲では、あとは「ピアノと管弦楽の協奏曲風交響曲」「サロメ」「ラウダコンチェルダータ」を実演で聞きたい。

 とくに、「ピアノ」は第2次世界大戦の最中の作曲で、当時の最先端の演奏技法や作曲法が駆使されている、正真正銘の最先端の現代音楽なのだ。それを、極東の山奥の林務官が作っていたというエピソードだけでも痛快なことだ。

 インターネットがなくても、当時の最先端の情報を集めることができたということでもあり、楽譜さえあれば音楽は研究できるということなのだ。

 

 伊福部のスコアは「交響譚詩」「バイオリン協奏曲1番」「日本組曲」を持っている。どれも、出版譜だから、難なく手に入る。

 私はそのほかのスコア、なかでも「日本狂詩曲」と「シンフォニアタプカーラ」のスコアが欲しくてネットで探しているだが、出版されていないようで、まだ手に入っていない。けれど、そのうちどこかで出版されるのではないかと思ってもいる。

 

 演奏したことがあるのは、「ゴジラ」と「日本組曲」。

 「日本組曲」はアナリーゼして、その独特の和声に感嘆した。これが19歳の処女作というのだから、言葉にならない。

 管弦楽版を吹奏楽にアレンジして演奏してみたけど、思ったほどならなかった。これは、もともと、伊福部のオーケストレーションはアマチュアには鳴らないようにつくられているのか、アレンジがおかしかったのか、演奏が下手だったのか、どれかはわからない。

 ただ、ゴジラマーチは演奏者も楽しく吹いていて、鳴りもよくて、気分はよかった。

 

伊福部昭「ラウダ・コンチェルタータ」

 伊福部昭の楽曲で、私は「タプカーラ」も「交響譚詩」も「ヴァイオリンの協奏曲風狂詩曲」も好きだけど、いちばん好きなのは「ラウダ・コンチェルタータ」だ。伊福部版マリンバ協奏曲なのだが、とにかく演奏者のテンションがモロにわかる。マリンバ奏者にとっては、おそらく難曲なのではないかとおもう。

 この曲の録音は、独奏が安倍圭子でヤマカズ指揮の新星日響が初版である。これは、初演のライブ録音でもあった。1979年である。CDはこれ。

 

伊福部昭交響作品集

伊福部昭交響作品集

 

 

伊福部昭交響作品集

 この演奏はすごい。ヤマカズよりも安倍が突っ走る。はじまりはまだオケだけなのでヤマカズにしては実に理性的であるが、序奏部の安倍のマリンバソロは、すでにあやしげなテンションである。続いてアレグロに入り、安倍のマリンバが入ったところから、急激に走る。もう、安倍は最初からトップギアの演奏なのだ。

 聴いている方は、記譜どおりなのかカデンツアなのかさっぱりわからない。とにかく、安倍がエキセントリックに叩いているのである。多分、ステージ上ではヤマカズ並みに跳びはねているんじゃなかろうかと思う演奏である。

 中間部を経て、後半のアレグロも、安倍がぐいぐい押す。だから、タテが合わない。オケがついて行けるわけがないという演奏。

 圧巻がコーダ。マリンバが弦と一緒にオスティナートを刻むのだけど、合うわけがない。途中からタムタムがリズムを刻むがそれとも合わない。ヤマカズはというと、私は勝手に確信しているのだが、拍節では振っちゃあいない。指揮台の上で、管楽器の長大な旋律とともに指揮棒をユラユラさせているに違いがない。そんな状態にもかかわらず、安倍は、後半の1オクターブ上げてのオスティナートで、なおも走る。つまり、本当の独奏となる。弦にも、管にも、打楽器にも合わせず、ひたすら刻む。

 しかし、ここが面白いところなのだけど、終わりは、ぴたっと合うのである。もう、これだけずれていると、指揮者の終止の合図がないと収束しないのだ。だから、ヤマカズがきちんと終わりの指示をだして、フォルティシモで漏らさず終われたのである。トゥッティでタテがあったのは、この終わりだけかもしれない。

 こうして初演の熱狂がひしひしと伝わるディスクなのだが、伊福部が好きな人じゃないと、珍盤扱いされてしまうかもしれない、という演奏だ。

 次に発売されたのは、吹奏楽版。1998年。マリンバ独奏は山口多嘉子。山口のマリンバもなかなか野生的とは思うが、安倍の演奏の後では、実に端正に聴こえてしまうから面白い。セッション録音というせいもあるし、スタンダード盤を作ろうという意図もあったのかもしれない。私は、スコアを持っていないので正確なことはいえないが、この演奏が記譜どおりの演奏なのだと思う。中間部の終わりがカデンツアなのだろう。安倍のと聴き比べれば、安倍がどれだけ楽譜を無視して叩いているかがわかるはずである。

 

シグナルズ・フロム・ヘヴン

シグナルズ・フロム・ヘヴン

 

 

 

 

 この2枚がラウダの現役盤だったが、最近になってCDが発売された。

 ひとつは、岩城と都響の1990年定期ライブ。発売は2014年。もうひとつは、石井真木と新響の1993年ベルリンライブ。発売は2012年。独奏はどちらも安倍圭子。

 

 

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

 

 

 

伊福部昭 傘寿記念シリーズの全て

伊福部昭 傘寿記念シリーズの全て

 

 

 

 私としては、安倍が歳をとり、どんな演奏を聴かせるのかに興味があった。

 まずは1990年の岩城指揮。安倍は、1937年生まれだけど、衰えは感じない。ヤマカズ盤と比べて、ずいぶん理性的な演奏。独奏だけなら、この盤がベストかもしれない。序奏や中間部などはもう少しどっしり演奏して欲しいなあとも思うし、なぜがタムタムのバランスがひどく悪い。それが残念な盤である。

 もう一枚の新響のライブだが、これもなかなかいい。オケの演奏が重々しい。やたら重低音を強調したミキシングになっている。ただ、安倍のマリンバが乗り切れていない。初演のときの荒々しさは消えている。ソロリソロリとした演奏だ。年齢による衰えなのかなんなのかはわからない。いいようにとれば枯れた味わいと言えなくもない。ただ中間部はそこそこいい。初演の録音があるだけに、この変わりようはちょっとした驚きである。

 結局、安倍の3枚は、聴く側の好みになってしまうかなあと思う。

 ただ、この曲は、これからも再評価されるに違いない楽曲だと思う。であるから、もしかしたら、今後、もっともっとすばらしい演奏に出会えるかもしれないという期待があるのだ。

 

伊福部昭「日本狂詩曲」

 高関健と札幌交響楽団による伊福部昭「日本狂詩曲」ほかのCDが発売された。発売といっても、2014年10月のことだから、もう1年近く前の話だ。

 CDは、こちら。

伊福部昭の芸術10 凛―生誕100周年記念・初期傑作集(仮)

 

伊福部昭の芸術10 凛―生誕100周年記念・初期傑作集

 この「日本狂詩曲」、まったくもう、すばらしい。

 

 実は、私はこの演奏をライブで聴いている。2014年5月の札響定期である。プログラム1曲目が「日本狂詩曲」だったが、はじまりのビオラの一音で、やられてしまった。これまで、いろいろな演奏をCDで聴いたけど、この歌い方はなかった。そして、テンポ設定と音色。もう、すべてが高関ブラボーの解釈だった。

 私にとって、高関健の演奏は、ライブでは札幌交響楽団との演奏しか聴いたことはないけれど、彼の学者肌のアナリーゼには信頼をおいている。演奏会でハズれたことがない。とにかく緻密なのだ。そして、その高関の解釈を、札幌交響楽団はしっかり応えていると感じていた。

 今回の伊福部は、それが完璧というくらいの演奏だった。高関の緻密なアナリーゼもオケの演奏も見事だった。

 Ⅰの「夜曲」。高関のテンポは、遅い。多分、ディスクとして録音のあるすべての「日本狂詩曲」のなかでもっとも遅いんじゃないだろうか。けれど、これが、実にしっくりくるのだ。この遅いテンポが正統なのだという説得力がある。そして、ダイナミクス。高関は拍節単位で、ダイナミクスを計算していることが聴いていてよくわかる。そして、それをオーケストラが見事にこたえる。「日本狂詩曲」のⅠの夜曲は、第1テーマで単旋律が切々と歌い上げるから、その歌い方とダイナミクスが曲にとっては重要になるのだ。それは、ビオラ奏者をはじめとする奏者の巧い下手ではなく、いかに構成するかという指揮者の構成力によるところが大きい。高関は見事に「夜曲」のスコアを読みきっていた。繰り返しになるが、冒頭のビオラの歌い方は、これまでにない解釈であり、まさしく、この歌い方が正統だったとわかるのだ。

 Ⅱの「祭り」。ここでも、高関は決して勢いで曲を流すことはない。やはりテンポは遅め。(私は、スコアを残念ながら持っていないのだが、これが指示されているテンポだと思う。他の演奏は、指示よりも速いんじゃないかというのが私の印象だ)。この曲は、楽譜に正確に演奏すれば、最大限の効果があるといっているかのような、端正な演奏。

 ただし、この曲は何といってもバランスをとるのが非常に難しい。たとえ打楽器協奏曲だとしても、打楽器が終始フォルテで鳴っていたら音楽にはならない。やはり、緻密なアナリーゼが必要になるし、そもそも緻密にオーケストレーションが施されているのだ。単調な旋律の繰り返しにみせて、瞬間瞬間、パッ、パッ、と音色がかわる。この音色の変化を巨大な打楽器編成でいかに聴かせるがというのが、この曲のポイントなのだ。

 伊福部の曲は、重低音でアレグロでフォルテでオスティナートで、とにかくゴリゴリの大味な曲という印象をもたれがちだが、そんなことはなく、この「日本狂詩曲」のように緻密なオーケストレーションでかかれている曲もある(そうじゃなく、ものすごく大味にかかれている曲も、もちろんある)。だから、勢いで押してしまう演奏は、スコアに書かれた精密さまで到達しないのだ。

 高関は、後半になってもテンポを上げない。そして、バランスをきちんと計算して打楽器を鳴らす。なんて、心地いい「祭り」だろう。伊福部が書いた音符が、きちんと鳴っている。粗野とか野蛮とかとは反対の、スタイリッシュな演奏。指揮者の意図がはっきりわかる演奏に出会えるというのは、とても嬉しい。

 ライブで聴いたとき、ああ、この曲だけでもう十分、という気持ちだった。

 それが、CDとなって発売されている。

 聴くと、あのときの演奏が、見事に再現されている。録音技術もホールも響きも、すばらしい。

 かつて、「日本狂詩曲」のディスクといえば、山田一雄、東京交響の1962年録音版しかなかった。私は、この曲が流れたFM放送をカセットテープに録音して繰り返し聴いた。この演奏、悪くない。録音もそこそこしっかりしていて、曲の全体像をきちんと伝えている。

 次に出たのが、おなじくヤマカズ指揮、新星日響の1980年録音版だ。これ、私が買ったのは、1993年発売版だが、たぶん再発なのだろう。これは、まさしく狂詩曲にふさわしい狂ったような演奏。バランスもタテセンもバラバラ。超高速の「祭り」。ただ、これはこれで記念碑的な演奏といえた。

伊福部昭交響作品集

 そうして徐々に伊福部の再評価が高まりつつあったが、決定的になったのが、1995年からのキングレコードによる伊福部シリーズだ。広上、日フィルによる「伊福部昭の芸術」シリーズ。この第1弾の1曲目が「日本狂詩曲」だ。ハイレベルな録音技術と演奏。この録音が「日本狂詩曲」のスタンダードとなった。「日本狂詩曲」だけではなく、伊福部音楽を聴くならこのシリーズだ。このシリーズによるセッション録音は、録音も演奏も本当に申し分ない。「タプカーラ」も「サロメ」も「交響譚詩」も「土俗的三連画」も、この広上、日フィルでの録音を越えるものは出てきていないと思う。

譚 ― 伊福部昭の芸術1 初期管弦楽

 このシリーズが、伊福部の死後も続いていて、2014年で12枚目になった。売れるからだろう、すでにセッション録音された楽曲が、わざわざライブ音源でもリリースされている。

 今回の高関、札幌交響楽団も、このシリーズの一枚で、第10弾目ということになる。

 だから、このシリーズの「日本狂詩曲」の2枚目のディスクということになる。

 ぜひとも聞き比べてほしい。広上、日フィルと高関、札響の「日本狂詩曲」。どちらが、いいだろうか。私は、言うまでもなく、札幌のほうがいい。他の「日本狂詩曲」のディスクと比べてもそうだ。沼尻と都響ナクソス版、岩城と都響のライブ版、小泉和裕と新響の卒寿版。私はこれらのディスクを聴いたけど、今回の札幌版にはかなわない。冒頭のビオラからして高関版は違う。

日本管弦楽名曲集

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

 

 今回、こうして「伊福部昭の芸術」シリーズにこの演奏が名を連ねることになって、本当によかったと思う。この演奏が、「日本狂詩曲」のこれからのスタンダードとなった。このディスクが「日本狂詩曲」の決定版である。そして、演奏している札幌交響楽団が、中央のオケに引けをとらない優れたオケであることもわかったことだろう。

「歌のある生活」13「音楽」の歌その1

 音楽をうたった歌に出会うことがあります。

 有名なところではこんな歌です。

 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき         近藤芳美

 この歌、一般的に名歌ということになっています。たとえば、永田和宏はその著「現代秀歌」(岩波新書)で、巻頭歌としてこれをあげ「近藤芳美の代表作のひとつであり、戦後短歌の出発を伝える歌であり、さらに戦後の相聞歌を代表する一首ともなった記念碑的な歌である」と絶賛しています。

 私にはどうにもキザッたらしいという感覚なのですが、永田をはじめ、現在でも多くの人が「良い」というので名歌になっているのでしょう。

 それはともかく、下句です。「或る楽章」です。「或る楽章」というのですから、クラシック音楽なのでしょう。ここでは、軽やかなハイドンとかモーツアルトではなく、ベートーヴェンブラームスのシンフォニーのような重厚な感じが合っているように思います。で、そんな楽章を作者は「思ひき」。つまり「思った」というわけです。

 ここに私は引っかかります。それって「思ふ」ものなのでしょうか。

 音楽は「思う」もの?

 どうでしょうか。

 私は、音楽というのは、普通一般に言う「思う」とは違うものと考えます。感覚的に言うと、頭のなかであれこれと思い浮かべるのではなく、気が付けば、すーっと頭の中を流れてくるもの、といった感じです。

 言い換えると、「思う」とは、言葉を思い出すといったように「言語」の記憶でありましょう。あるいは、風景や情景、幼き日の思い出といったように「視覚」の記憶に対しての想起がしっくりくる。

 一方、音楽というのは、聴くものですから「言語」や「視覚」の想起とは違う。もちろん、音楽も記憶することには違いがありませんので、頭のなかで記憶された音楽は「思い出す」ものでしょう。しかし、「言語」や「視覚」の記憶の想起とは、違ったものではないか、というのがここでの私の疑問です。

 近藤の歌に戻ると、君の姿が霧にとざされてしまったのを見て、われは或る音楽を思った、というのではなく、或る楽章が頭のなかにすーっと流れてきた、といった感じのほうが、よりしっくりくるのではないでしょうか。ですので、結句の「思ひき」は人間の感覚としては違うのではないかというのが、私の意見です。

 しかし、この歌、トリックとまではいきませんが、実は、この「思ひき」にちょっとした仕掛けがあります。

 それは、どういう仕掛けかというと、この「思ひき」によって、読者は、それはいったい何の楽章なのだろうと「思ってしまう」のです。「或る楽章」と匿名にしていることからも、近藤は、それを狙っているのはたしかでしょう。そうして、読者は、どんな楽章なのなかあと、あれこれ想像してしまうのです。さっきの私のように、ベートーヴェンかな、ブラームスかな、といったみたいに、「思ひき」で、まんまと作者の意図にのってしまうというわけです。

 今回から不定期で音楽の話をしていきます。これには、私の短歌に関する問題意識があります。それは「短歌で音楽をいかに表現するか」という問題意識です。次回は、この辺りのことのお喋りからはじめます。

 

「かぎろひ」2015年7月号