「歌のある生活」20「音楽」の歌その7

 前回の続きです。「音(おん)を楽しむ歌」の二回目です。音楽を題材にした作品のなかで、「その音楽を知っていてもいいけれど、知らなくても鑑賞できる作品」というのがありますよ、という話でした。

 プロコフィエフの音符を咽喉につまらせた感じだらうか三十歳は

                          荻原裕幸『世紀末くん!』

 この歌、私は秀歌だと思います。

 プロコフィエフは、二十世紀を代表するソビエトの作曲家。ただ、代表曲は、となると、ちょっと答えが難しい。「ピーターと狼」あたりが、もっとも有名でしょうか。実は、テレビ番組やCMのBGMでプロコフィエフの音楽はよく流れています。けど、ああ、このBGMはプロコフィエフの曲だ、とわかる人は少ないんじゃないかと思います。

 彼の音楽の特徴は、というと、ゲンダイオンガク特有の、不協和音がガンガン鳴る曲だったり、打楽器がドカンドカン響く曲だったりという感じです。また、ピアノ曲はというと、叙情的というよりは、超絶技巧のオンパレードみたいな感じで、ピアニストはまるで曲芸のように弾くのを競っているかのようです。ですので、音符の数は多い。楽譜を見ると、音符が五線譜にうじゃうじゃ這い回っている感じです。

 そうすると「プロコフィエフの音符を咽喉につまらせた感じ」というのは、ピアノ曲を連想すると、ピンとくる表現といえます。

 あるいは、プロコフィエフの音楽は、転調が特徴的でもあります。普通、こんなところで転調しないだろう、というところで、コロッと調が変わる。そんなところも、ノドにつまる感じは出ています。

 そういうわけで、この歌のノドにつまるという身体感覚からくる表現は、面白いところを持ってきたなあ、と私は思うわけです。

 と、ここまで解説しましたが、恐らくプロコフィエフの曲を知らない人にとっては、まったくピンときていないと思います。やっぱり曲を知らんと、この短歌は鑑賞できないじゃないか、と。

 いや、そんなことはない、というのが私の主張です。この歌は、プロコフィエフを知っているにこしたことはないが、知らなくてもじゅうぶん味わえると思います。

 すなわち、「プロコフィエフ」という「音(おん)」を楽しむのです。

 プロコフィエフという名前は、ちょっと日本人には発音しにくい、日本人の感覚にはない音の名前といえます。このヘンテコリンで言いにくい名前の響きもノドにつまる感じがします。ですので、そういうヘンテコな名前の楽しさ、もし、名前を知らなくても、音符とあるから、外国の音楽家だろうと見当はつく、その名前とノドにつまる感じが、うまく呼応している、というあたりで、この歌の鑑賞はできると思います。

 と、ここまで理解を進めたうえで、あとは読者各自が三十歳の感慨を味わえばいいのではないか、というのが、私のこの歌の解釈であります。

 繰り返しになりますが、プロコフィエフというヘンテコな音(おん)の作曲家を題材に持ってきたところに、この作品の良さがあるのだと考えます。

 今回は、この一首で終わってしまいました。今回で「音(おん)を楽しむ歌」はおしまいにします。次回からは、「意味を楽しむ歌」を見ていきます。

 

「かぎろひ」9月号所収

「歌のある生活」19「音楽」の歌その6

 今回からは、音楽を題材にした歌のなかで、「その音楽を知っていてもいいけれど、知らなくても鑑賞できる歌」と、いう作品群をみていきます。

 これらは、二つの種類に分かれます。

「音(おん)を楽しむ歌」と、「意味を楽しむ歌」の二種類です。

 と、いってもさっぱりピンとこないと思いますので、実際の作品をみていくことにしましょう。まずは、「音(おん)を楽しむ歌」からです。

 バッハに登場してもらいます。

 

 雨に弾く一途なこころ連弾のバッハ爆発寸前の恋

                    福島泰樹『エチカ・一九六九年以降』

 私のいう「音を楽しむ歌」というのが、なんとなくわかるでしょうか。この歌は「バッハ」という音の響きを単純に楽しむ歌といえます。別に、バッハがドイツバロック時代の作曲家である、なんてことを知っている必要はないし、ましてや、バッハの連弾曲を知っている必要もない。学校の音楽室に必ず飾られているであろう、彼の肖像画あたりがイメージできるとより楽しいかもしれませんが、別にイメージできなくてもいい。この歌は、「爆発寸前の恋」に、韻がいいというので、バッハを持ってきたに過ぎないわけです。また、「連弾」は爆弾のダンの字ですので、「連弾のバッハ」の「連弾」と「爆発」は、いわゆる縁語といえるでしょう。ですので、サラッと詠っているようで、なかなか技巧的ともいえます。で、縁語でつながっているということと、韻がいいというので「バッハ」と「爆発」をつなげたわけです。

 もう一首、真中朋久の歌を紹介します。

 

 口笛はいつしかワルシャワ労働歌階下の主婦が水を使ひつつ   『エウラキロン』

 これは、なかなか面白い歌です。

 まず、ワルシャワ労働歌。これ、ある時代の労働運動に関係していた人なら、わりとなじみのある歌なのでしょう。平成の世で聴けば、あの頃の郷愁をさそうというような。しかし、誰もが、ワルシャワ労働歌ときいて、郷愁をさそうわけではありませんね。今では、ピンとこない人の方が大多数でしょう。恐らく作者は、ある程度の郷愁があり、歌に詠むことで、ある程度の効果を期待したとは思われますが、すべての読者にそれを期待させるなんてのは、土台ムリな話です。

 そういうわけで、この労働歌、今日の日本で知らなくて当たり前です。また、いま言ったように、ワルシャワ労働歌というのが、日本のある時期、労働運動の歌として流行した、という背景を理解する必要もありません。私達は、この歌が、どういうものかを知らなくてもいいのです。

 じゃあ、どう鑑賞するか。と、いうと、「ワルシャワロードーカ」という音の響きが面白いなあ、と鑑賞すればいいのです。あるいは、「口笛はいつしかワルシャワ労働歌階下(かいか)の主婦が」までの、文節単位での後韻を中心としたA音のしつこさを楽しむ歌なのです。あるいは、ワルシャワのシャワという音が水を使うシャワシャワの擬音と呼応しているので、「ワルシャワ」と「水」が縁語になっているととらえてもいいでしょう。あるいは、「ワルシャワ」から「シャワー」を連想し、「シャワー」から「水」を連想するというのもアリだと思います。

 つまり、この歌は、いろんな角度から音(おん)を楽しむことのできる歌といえるのです。

 

『かぎろひ』2016年7月号 所収

「歌のある生活」18「音楽」の歌その5

 前回、小池光を悪く言いましたので、今回は、こんな素敵な作品を紹介しましょう。

 

 サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージォ」七分の間(ま)の虹きえるまで

                          小池光『時のめぐりに』

 

 アメリカの作曲家バーバーの代表作「弦楽のためのアダージォ」の切ない響きと、雨上がりの空にかかる虹の色彩が頭のなかでシンクロして、なんとも美しい作品となっています。

 けど、どうでしょう。やはり「弦楽のためのアダージォ」を知らない人にとっては、この作品の美しさを十全に感じることはできないのではないでしょうか。私は、この曲を知っていますので、頭の中で弦楽の響きと虹の輝きがシンクロします。なんて素敵な歌なんだろうと、深く鑑賞することができます。しかし、バーバーのこの曲を知らない人にとっては、そもそも頭のなかで鳴らすことはできないわけで、虹とのシンクロも起きることはないわけです。そのように考えると、この作品は読者を限定してしまうものとなります。つまり、バーバーのこの曲を知らなければ、この歌は味わいようがない、ということになってしまうのではないでしょうか。

 次の歌もそうです。

 

 厳寒にはく息おもうショスタコービッチ「パービ・ヤール」は夜すすりなく

                           小高賢『太郎坂』

 

 もう、バーバーの名曲どころではありません。ショスタコービッチ交響曲のなかでもとびきりマイナーな曲が題材となっています。この曲、コアなクラシックファンじゃないと、聴いたことがないでしょう。だいたい、曲のタイトルだって知らない人が大多数でしょう。

 ここまでマイナーな曲になると、もうショスタコービッチからの連想で、ソビエトの風土だから厳寒、とか、ソビエトの体制批判だから夜すすりなく、とか、音楽から離れて解釈するしかなくなるわけです。

なお、細かいことを言えば、「パービ・ヤール」は誤植です。ロシア語の発音からして「パ」と表記することはできません。カタカナ表記するなら「バ」が一般的です。すなわち「バービ・ヤール」です。

 今回は、音楽を題材にした二つの作品を取り上げましたが、実際のところ、短歌作品の題材になっている多くは、このような構成の作品といえます。すなわち、短歌作品に取り上げられた曲を知らないと、その作品の味わいが半減する、もしくは、味わうことができない、というものです。音楽が読者の頭の中で鳴らなければ、鑑賞のしようがない、というわけです。こうした作品群、私はやっぱり問題アリだなあ、と思います。

 しかし…。音楽を題材にしたすべての短歌作品で、その題材にした音楽が鳴っていなくてはいけないかというと、実はそんなこともないのです。音楽が鳴っていてもいいけど、鳴らなくても鑑賞ができる歌、というのもあるのです。

 つまり、今回取り上げた二つの作品のように「弦楽のためのアダージォ」や「バービ・ヤール」を知らないと味わえない、のではなく、知っているにこしたことはないが、知らなくても味わうことができる歌というのがあるのです。

 私は、こうした歌は、歌として成立していると考えます。次回からは、題材の曲を知らなくても、短歌作品として成立している作品群、というものをみていきましょう。

 

「かぎろひ」2016年5月号所収

 

歌のある生活17 音楽の歌その4

 

 今回は、音楽を題材にした短歌作品のなかで、私が問題アリと思う歌を取り上げます。

 

 中国の不死の男が街娼を愛する話 夏の楽譜に   「本郷短歌」第四号 服部恵典

 一読、何のこっちゃ、という感想の人が大半じゃないでしょうか。

 これはバルトークバレエ音楽中国の不思議な役人」を題材にしています。このバレエの筋書きを一言でいえば、「中国の不死の男が街娼を愛する話」なわけです。ですから、このバレエ音楽について知らないと、この歌の味わいは半減してしまうと思います。ただし、これは知識の範疇、つまり、この曲を知識として知っているかどうか、ということになります。ですので、問題アリの歌のなかでも、まだ軽微なほうでしょう。

では、次はどうでしょう。

 

シューベルト最晩年の波際をひたひたとゆくピアニストの手は 

紺野裕子『マドリガーレ』

 

 これは、謎解きのような作品です。

 まず、いくつかあるシューベルトの最晩年のピアノ曲を知識として知らないといけない。そして、それらの曲のなかで、波際をイメージさせる曲を思い浮かべなくてはならないのです。そうなると、クラシック音楽にそこそこ詳しい人じゃないと、この歌への共感はできなくなります。これ、「即興曲D899」の第三楽章かなと思うのですが、違うかもしれません。はじめ右手が波のように和音を分散し、その伴奏の上に、死を間際にした、この世のものとは思えない(と、多くの人が賞賛する)名旋律が奏でられます。自分の愛する曲を詩情ゆたかに詠おうとすれば、こうやって詠うしかないよなあ、と歌人として気持ちはわからなくはないのですが、読者からすると、この曲を導きだせるかどうかで、歌の味わいは大きく損なわれてしまうでしょう。

 最後に、大いに問題アリをあげます。

 

 街宣車フィンランディア」を鳴らし去るカラヤン指揮のベルリン響(フィル)か

 小池光「滴滴集」

 

 紺野のシューベルトには、まだ作者の曲への愛情が感じられますが、小池の歌はいけません。これ、フィンランド人が読んだら、不快になるのではないでしょうか。

フィンランディアは、フィンランドの作曲家シベリウスの代表曲です。作曲当時、フィンランド帝政ロシアの圧政を受けていました。シベリウスは祖国民を鼓舞するため、愛国歌として、この曲をつくったのでした。

と、まず読者には、そういうことが知識として知らなくてはなりません。ただし、それは軽微です。私が大いに問題だと思うのは、フィンランディアとわが国の右翼の街宣車を結び付けているところです。これじゃあ、まるでフィンランド第二の国歌と呼ばれるこの曲が、日本の右翼の街宣と同様のものということにもなります。無論、作者は、そんなことは言いません。「カラヤン指揮のベルリン響(フィル)か」とつぶやくだけです。このおさめ方も、何と言うか、クラシック音楽といえばカラヤン、みたいなスノッブ感が醸し出されていて、私には嫌な感じです。

なお、この「ベルリン響(フィル)」の「響」の当て方は誤りです。なぜなら、ベルリンフィルといえば、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団をさし、ベルリン響といえば、ベルリン交響楽団をさすからです。この二つのオーケストラは別の団体です。ですからフィルに「響」の漢字を当てることはできないのです。

 

「かぎろひ」2016年3月号所収

 

芥川也寸志の音楽

 芥川也寸志は、作家芥川龍之介の三男坊。

 といっても也寸志が2歳のときに、龍之介は自殺したから、父親のことは覚えていないだろう。

 のちに也寸志は、父親の「蜘蛛の糸」を舞踊組曲として作曲して、それは現在録音されてCDになって聴くことができるけれど、私は、あまりいいとは思わなかった。芥川也寸志の音楽は、何と言っても、20代の初期の頃がいい。

 

 代表作は、「交響管弦楽のための音楽」。1950年の作。

 彼が24歳のときの作品。2楽章形式の10分程度の作品であるが、第2楽章の乱暴なアレグロが素敵だ。

 私が初めに聞いたのは、高校時代のときだったが、なんだハチャトリアンじゃねえか、と思った。金管の咆哮、ぐいぐいおしてくるアレグロのリズム。まさしく、ハチャトリアンからロシア臭を抜いたような音楽である。

 よく聴くと、随所にカバレフスキーの響きもある。芥川は、当時のソビエト音楽に影響を受けていて、のちに自らもソビエトに行ったから、聴けばその影響はすぐにうかがえる。そもそも、3歳の時に家にあったレコードプレーヤーでストラビンスキーの「火の鳥」を聴いたのが、最初の音楽体験だったというから、ソビエト音楽が出発なのだ。

 1楽章は、スネアのブラシ奏法が印象的なアンダンティーノ。この1楽章の音楽より、芥川を「都会的」といったりしたのを読んだことがあるが、当時であればいざ知らず、平成の今日では、そうした形容は当てはまらないだろう。それよりも、この「交響管弦楽のための音楽」は、土俗的といったほうがしっくりくる。それは、ソビエト音楽の土着的影響にくわえて、師である伊福部音楽の影響だ。

 

 このほかにも、「交響三章」や「弦楽のためのトリプティーク」といった芥川の初期代表作には、やはり伊福部ゆずりの土俗性が感じられる。これは、メロディーラインもそうだけど、アレグロのオスティナートによるものであろう。

 かように芥川の音楽の特徴は、耳に残る線の太いメロディーライン、気持ちの高揚する野蛮なアレグロオスティナート、ということがいえるだろう。

 20世紀の現代音楽のなかで、芥川のメロディの主張の強さといったらない。

 そして、アレグロ楽章では、じつに音符の数が多い。「交響三章」の第1楽章の第1主題を聴くとそれが顕著である。そして、それをスケールで流すのではなく、メロディーラインとしておさえるので、押しの強いメロディとなるのである。この押しの強さでいえば、ソビエトを代表する作曲家ショスタコービッチのメロディも想起できる。

 また、線の太さでいれば、アレグロ楽章だけではなく、レントの楽章でもそうで、芥川の初期の曲で、ふわっととか、もわもわといった旋律線というものはない。

 

 初期の管弦楽はとても若々しい青春の音楽だ。

そのうち、芥川も現代音楽に影響を受けて、作風を違えていくのだけど、そうなると、私にはつまらなくなる。

 中期にはエローラ交響曲とか大作もあるが、私には、しっくりこない。

 それよりも、映画やドラマの音楽のほうがいい。

 そこには、芥川のやはり線の太い旋律が息づいている。

 この分野での代表作は「赤穂浪士のテーマ」だ。ボレロちっくな、ぬたぬたとした音楽は、多くの人の指摘どおり、早坂文雄の「羅生門ボレロ」を連想させる。

 ほかにも、「八ツ墓村」「鬼畜」「八甲田山」の映画音楽あたりが、わかりやすくて楽しい。どれもCDになっているから、手軽に聴くことができる。

 とくに「八ツ墓村」のワルツはお薦めの小品である。

 

 芥川はフォルテで金管を鳴らすことに躊躇がなかったから、吹奏楽作品も普通に書いた。マーチもいくつか作曲しているだが、残念なことにこれが私には、まったくいただけない作品なのだ。

 とにかく、ものすごくクドイのである。マーチでこのシツコサといったら他にはない。芥川のぬたぬたとした旋律は、アレグロやボレロちっくなテンポには、はまるのだけど、マーチとなると、まったくいただけない。聞いているだけで、クドイと感じてしまうのだから、演奏している側からすれば、まったく疲れてしまう作品だろう。

 ライナーノートには、芥川夫人が主人は楽しそうに作曲していたとあるが、作品はまったく楽しくない。

 奇曲の部類にはいるのではないか。

 

 そういうわけで、私のおすすめは、初期管弦楽。

 なかでも青春音楽として「交響三章」をおすすめしたいのだが、残念ながら良盤がない。現役では、ナクソス盤しかないと思うが、名盤とはいえない。

 もうひとつの代表作「交響管弦楽のための音楽」は、いい盤がたくさんある。ここでは録音も演奏も良好な「蜘蛛の糸 芥川也寸志の芸術1」(本名徹次/日フィル)1999年盤を推薦盤とする。

「歌のある生活」16「音楽」の歌その3

 前回は、問いを投げたところで終わりました。「音楽」が鳴る歌は、バッハやモーツァルトでは作りやすいけれども、他の作曲家では難しい。それはなぜでしょう、という問いでした。

 さて、なぜでしょう。

 まず、単純な理由として、字数の問題があります。バッハは三音ですので、短歌に突っ込みやすいのです。これがチャイコフスキーならどうでしょう。こいつ、日本人にやたらと人気のある作曲家なのですが、こいつを詠んだ短歌作品は、バッハにくらべたら格段に少ないと思います。で、なぜかといえば、字数が多いから。歌にハマってくれないし調べもものすごく悪くなる。同じ理由でメンデルスゾーンも歌には向かない。それにくらべたら、モーツァルトは字数がいい。六音ですので助詞をつければ、二句や下句にはめやすい。そのうえ、音の響きもいい。同じ六音のベートーヴェンとくらべても、濁音のない分、響きが柔らかい。いきおい歌にしやすいということがいえます。これが第一の理由です。

 二つ目の理由。こっちのほうが、ずっと重要ですが、それは、バッハとかモーツアルトといえば、どんなイメージなのか、読者に察しがつく、ということです。

 どういうことかというと、バッハの曲というのは、バロック調の荘厳で杓子定規な音楽というイメージであるということ。いやー、そんなことはないと思うかもしれませんが、皆さんが思い浮かべるバッハの曲というのは、そうじゃないですか? そういうわけでバッハは共通のイメージを結びやすいのです。

 ですから、こんな歌まであります。

確定申告、バッハのように整然とレシート貼りて提出をせり

                  花山周子『屋上の人屋上の鳥』

 もう、バッハが比喩になってしまいました。「バッハの曲のように」ではなく、「バッハのように」で、じゅうぶん通じてしまうのですね。それくらいバッハは、共通のイメージがあるということなのでしょう。

 同じように、モーツァルトも曲に共通のイメージがある。それは、若々しく、明るく軽快なイメージです。レクイエムや交響曲四〇番冒頭のもの悲しい短調の旋律も印象深いのですが、どういうわけか、モーツァルトといえば、からっとした陽性の響きを誰もが思い浮かべるのです。ですから、こういう歌になります。

梅雨晴れのふとまばゆさを増す空にモーツァルトの靴音がする

                     永井陽子『ふしぎな楽器』

 じめじめした梅雨時期にふとみせる、晴れた空にふさわしい音楽として、アイネ・クライネあたりが靴音とともに鳴るわけです。もう、ぴったりじゃありませんか。

 では、ベートーヴェンはどうなのか。というと、皆さん、イメージそれぞれになってしまう。「運命」のジャジャジャジャーンもあれば、「第九」の大合唱もある。ピアノ曲なら「悲愴」もあれば「月光」もある。もう、曲のイメージがバラバラなわけです。ですから、バッハやモーツァルトのようにはいかない。他の作曲家も同様です。固定されたイメージがないから、歌にはしづらいのです。

 しかし…。固定されたイメージがないのにもかかわらず、音楽家や音楽を題材にしている短歌がまわりにはたくさんあります。それは、私からすると、非常に問題アリの歌です。次回はそんな問題アリの歌を取り上げます。

 

「かぎろひ」2016年1月号所収

「歌のある生活」15「音楽」の歌その2

「音楽」を題材にした歌についてのおしゃべりの二回目です。

「音楽」を題材にして作歌する以上、その作品には「音楽」が鳴っているべきである、というのが、私の主張です。

 前回は、近藤芳美の作品をあげました。「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」です。この歌について、前回、あれこれ理屈をこねてみたわけですが、とはいえ、この歌はちゃんと「音楽」が鳴るのです。「或る楽章」の部分で、読者はそれぞれ思う「或る楽章」の音楽を頭の中で響かせるわけです。もちろん、それはベートーヴェンだろうが、シューマンだろうが、何でもいいのです。その響きは読者にゆだねられています。ですので、この作品は、さーっと「音楽」が鳴る一首といえます。私の主張にかなう作品です。

 こうした歌をほかにもあげてみましょう。たとえば、こんな作品はどうでしょう。

ヘッドフォンのバッハの曲をたましひの一(ひとつ)窓(まど)とし車中に眠る  

                              高野公彦『水苑』

 列車に揺られている。耳にはヘッドフォン。そこから流れているのはバッハの曲。それを聴きながら「たましひの一窓」として眠る、というのです。「たましひの一窓」の隠喩がこの作品の核であり、表現のオリジナリティなわけですが、この隠喩が列車に揺られながらヘッドフォンで音楽を聴いているという状況にぴったり合っています。そしてバッハ。「たましひ」なんていう巨大な言葉に対峙できるのは、音楽の父バッハしかいないでしょう。ですから、「たましひ」と「バッハ」もまた、ぴったり合っています。では、ヘッドフォンから聴こえているバッハの曲は何か。

 バッハで「たましひ」といえば、「マタイ受難曲」かなあ、なんて私は想像してしまうのですが、この歌のすぐれているところは、曲名を明示していないことです。このことで、読者の想像がぐーんと広がるのです。

バッハの曲なら一曲くらい読者は知っているだろう、という高野なりの計算がはたらいているともいえるのですが、とにかく、バッハなら何でもいい。この歌を読むと読者の頭の中に、バッハの曲が響くわけです。

 このような構成の歌をもう一首あげます。今度は、モーツァルト

やはらかな血管のやうにうねりくるモーツァルトをねんねんころり

                      松川洋子『月とマザーグース

 これも、高野のバッハと同様、読むと読者の頭にはモーツァルトが響いてきます。モーツァルトの音楽を、「やわらかな血管のやう」とたとえたのは見事というしかありません。どんな曲でもいいです、頭の中で鳴っているモーツァルトは「やわらかな血管」というにふさわしい音楽じゃあありませんか。これが、ベートーヴェンじゃだめですね。たとえば「運命」冒頭のジャジャジャジャーンは、血管の生命力とは呼応しますが、やわらかくはないですね。まさにモーツァルトがどんぴしゃなのです。なお、結句の「ねんねんころり」は解釈してはいけません。ここは、松川ならではのユニークな言語感覚を楽しむところでしょう。

 今回は、バッハとモーツァルトを題材にした作品を紹介しましたが、実は、作曲家を短歌の題材にするとき、バッハとモーツァルト以外で作歌するのは、とっても難しいのです。

さあ、なぜだかわかりますか?

次回は、そのあたりのことについておしゃべりします。

 

「かぎろひ」2015年11月号所収