前回の続きです。塚本の歌をもう一首とりあげましょう。
春雪にこごえし鳥らこゑあはす逝ける皇女のためのパヴァーヌ
塚本邦雄『水葬物語』
フランスの作曲家ラヴェルの小品が詠われています。下句の「逝ける皇女のためのパヴァーヌ」です。ただし、邦題は「逝ける王女のためのパヴァーヌ」が一般的です。「皇女」という邦訳は、塚本のオリジナルな表現です。
けど、もともと曲名からして詩的ですね。王女って誰のことだろう、誰の死ためのパヴァーヌ(古い宮廷舞曲の一種です)なのだろう、なんていろいろ空想がふくらみますが、一応、架空の王女という設定になっています。つまり「逝ける王女」という詩的な言葉で音楽のイメージをふくらませてね、というわけです。そして、塚本はそれを更に一ひねりして、「逝ける皇女」としたわけです。
で、歌の鑑賞なのですが、私は、上句に引っかかる。「春雪にこごえし鳥らこゑあはす」様子(あるいは、さえずりの声)と、ラヴェルのパヴァーヌが、まったく合わないのです。おたがい邪魔しあっているという感じです。凍えて鳴いている鳥のさえずりが何でゆったりとした舞曲になるのか、あるいは、亡き王女をしのぶ優雅な曲を導くのか、これはどう考えてもヘンなわけです。
そこで、これはラヴェルの音楽とはまったく関係のないところで一首が構成されている、と考えます。つまり、この歌を読んでラヴェルが聴こえてくるとおかしなことになる、もっといえば、鑑賞の妨げになる。
だから塚本はあえて「王女」を「皇女」に変えることで、音楽を鳴らすんじゃなくて、純粋にテキストとして解釈してね、としたんじゃないか、というのが私の読みです。
純粋にテキストの解釈、すなわち、ここでは上句と下句の意味の取り合わせを鑑賞するというのが、この歌の解釈なのだと思います。
森うごく予兆すらなく冬空へ少女が弾けるショパン〈革命〉
西勝洋一『未完の葡萄』
これは一首すべてが隠喩のような作品です。「森」は何かの隠喩でしょう。「冬空」「少女」も何かの喩として読めるでしょう。そして、結句に「ショパン〈革命〉」。ここで、ああ、これは革命を求める歌だったのか、と謎解き風な読み方もできなくはありませんが、私には、そうした読みはやや直截と思います。「革命」もまた何かの隠喩として読むほうが、一首に広がりが生まれるでしょう。
それはともかく、結句の「革命」。ショパンのピアノ曲ですが、読者は、どんな曲か知らなくてもいい。音楽じゃなくて、「革命」という題名の意味がこの歌では決定的に重要になるわけです。
例えば、結句が「革命」ではなく「雨だれ」や「仔犬のワルツ」ならどうでしょう。当然ながら、おかしなことになるわけです。
あるいは、結句が「ショパン〈革命〉」ではなく、「ショスタコービッチ〈革命〉」でも一首は成立するでしょう(字余りですが)。
つまり、この歌は「革命」(的なもの)が主題なのだけど、直截に歌っても理屈にしかならないので、森や冬空や少女やショパンなんかを配置して短歌的叙情性を醸し出したというわけです。
いかがでしょう。読者の私たちは、たとえショパン「革命」というピアノ曲を頭のなかで鳴らすことができなくても、この歌の主題を理解し、短歌的叙情性を十分に味わえるのではないかと思います。
「かぎろひ」1月号所収