「歌のある生活」25「音楽」の歌その12

 

 かれこれ二年間にわたって、音楽を題材にした短歌についてあれこれとおしゃべりをしてきましたが、そろそろ本題(!)に入りたいと思います。

 音楽を題材にするのであれば、一首から音楽が聴こえるべきである、というのがここでの私の主張です。いうなれば、山を詠うことで、それを読んだ読者のマナウラに山の雄大さが浮かぶように、あるいは、鰻重を詠うことで、読者の口いっぱいにウナギの味が広がるように、音楽を詠うことで、読者の耳奥にその音楽が鳴り響いてこそ、音楽の歌たりうる、と考えるわけです。そんな素敵な短歌をこれから皆さんと鑑賞していきたいと思います。ただ、音楽といっても範囲が広いので、ここは音楽の三要素にならって、リズム、メロディ、ハーモニーに分けて、それぞれの名歌を鑑賞することにしましょう。

 そういうわけで、まずは、リズムの歌から。

 リズムの歌といえば、もう何といっても、この歌に尽きます。

 べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊 

 永井陽子『樟の木のうた』

 助動詞の活用表現が定型にはまっていて、何のことかといえば、それは、プラタナスの並木を行進する鼓笛隊のドラムマーチであった、というわけです。この楽しい歌は、これまでも多くの人が評していて、話題も多岐にわたっているのですが、今回は、とにかくリズムに注目してこの歌を鑑賞しましょう。

 そもそも、短歌は、五七調とか七五調というくらいですから、リズム(律)があります(西洋音楽の概念にムリヤリ当てはめるなら、それは一応二拍子ということになっています)。その、リズム(律)にうまく乗っかるような言葉(韻)を選んで、詩歌としているのが短歌なわけです。なので、短歌はリズムである、というのは、カラスは鳥である、と同じくらい、当たり前の話です。

 しかし、ここで考えてみましょう。その、あらかじめ決まっているリズムのなかに果たして違うリズムを表現することができるか。これは、もう、相当な難題なのです。

 いや、音なら簡単ですよ。ドーンとか、カーンとかの響きを詠えばいいんです。あるいは、太鼓や鈴の連打も詠えるでしょう、デロデロデロとか、シャラシャラシャラとか、オノマトペを駆使すればいいでしょう。

 しかし、ここで言っているのは、リズムなのです。すべてのリズムには何らかのビート(拍)があります。そのビートを短歌に詠うことはできるか。

 例えば、こんな風になら詠えるでしょう。 

 脇腹に規則正しく打つ杭のゆくえも知らぬドラムの響き  俵万智『サラダ記念日』

 天竺の打楽器タブラたたく手は天人の手のごとくはたたく  田宮朋子『星の供花』

 俵の作品は、まさしくドラムのビートを詠っています。「規則正しく打つ杭」の喩がビートをあらわしています。ビートそのものを詠えないので、それを喩で表現したわけです。田宮のタブラも同様です。タブラという太鼓はインド音楽独特のビート感に溢れているわけですが、やっぱりそのビートを詠むことはできないので、そのビートを刻む手の動き(正確には指の動きでしょう)、を天人の手だ、とこれも喩であらわしたわけです。

 しかし、こうした修辞技法とはまったく違う発想で詠ったのが永井陽子でした。(続く)

「かぎろひ」2017年5月号所収

「歌のある生活」24「音楽」の歌その11

 ポピュラー音楽についての二回目です。ポピュラー音楽というのは、クラシック音楽と比べて、音楽そのものを詠うのが難しい。なぜなら、その音楽を知らなくちゃあ読者は共感しようがないからだ。そこで、どうしても社会風俗を主題にして、そのモチーフとして流行歌なり演奏家なりを持ってきがちになるのではないか。というようなことを、短歌作品を鑑賞しながら検証していきましょうというのが、ここからしばらくの話題です。

 ところで、この社会風俗、これをシニカルにうたうのではなく、あくまでも肯定的にうたった作品群としては、何と言っても前回取り上げた俵万智の『サラダ記念日』がそのはじまりといえるでしょう。ですので、この歌集には、当時の流行歌を素材にしている作品がいくつかあります。

 思いきりボリュームあげて聴くサザンどれもこれもが泣いてるような

「路地裏の少年」という曲のため少しまがりし君の十代

ダウンタウンボーイの歌を聴きながらミルク飲む朝 君に会いたし

 一首目、サザンはサザンオールスターズのこと。これは大丈夫でしょう。三十年たってもまだ読み解けます。けど、二首目はどうでしょう。「路地裏の少年」は、浜田省吾のヒット曲。この題名、今となっては、えっと何だっけ、という人も多いのではないでしょうか。三首目のダウンタウンボーイになると、もう、皆さん、忘却の彼方。そういうわけで、時代の空気みたいなものを歌に取り入れよう思って、ポピュラー音楽を素材に持ってきても、流行歌の宿命とでもいいましょうか、たかだか三十年で、もう、その頃の空気感は味わえない、ということになるのです。

 ただし、歌人はそんなことは先刻承知で、その時代の輝きを一首に託している、という意見もなりたつでしょう。

 前回あげた藤原龍一郎はどうでしょう。

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば   『嘆きの花園』

 この歌、私は秀歌だと思います。

 山崎ハコ森田童子が詠われています。この歌の巧いところは、下の名前だけで誰だかわかる個性的な名前の歌手であり、かつ、その名を聞けば、どんな音楽なのかのイメージがつくということです。

 しかし、そうはいっても、この作品の発表から二十年たった今の時代、ハコ、童子と聞いて、皆がみな、ピンとくるわけではないでしょうし、ましてや、彼女らのヒット曲が思い浮かぶというわけでもないでしょう。この作品もそのうち、俵万智ダウンタウンボーイのように、読み解けない人が多くなってしまうことでしょう。

 では、この歌、時代の輝きだけの歌なのか、というと、私はそれだけではないと思います。「今さら」がポイントです。バブル崩壊後の世紀末東京の喪失感や倦怠感を七十年代のハコや童子を持ってくることで(だから「今さら」なわけです)郷愁を漂わせているわけです。ですので、単に流行歌を素材に世紀末東京の空気感を詠っているわけではないのです。この点が秀歌と思う理由です。

 ですから、ハコや童子は取替え可能な歌です。もし、世紀末じゃなくて、二〇一七年現在の首都東京の喪失感や倦怠感を歌いたいなら「今さらJUJUをAikoを聴けば」とか詠っても、まあ、歌の良し悪しは別にして、一首として成立するわけです。

「歌のある生活」23「音楽」の歌その10

 

 音楽を題材にした短歌についておしゃべりしていますが、これまではクラシック音楽ばかりを取り上げてきました。けれど、短歌に詠われている音楽は何もクラシックばかりではなく、邦楽や洋楽の流行歌いわゆるポピュラー音楽も当然ながらありましょう。そこで、今回からしばらくは、そうした音楽を題材にした歌を皆さんと鑑賞することにします。

 ポピュラー音楽を題材にした短歌作品について、はじめに結論めいたことをいうなら「音楽は短歌の題材として詠われているけど、主題たりえていないではないか」と考えます。   

 これまでみてきたクラシック音楽と比べて、ポピュラー音楽というのは、音楽そのものを詠うのが難しい。なぜなら、その音楽なり演奏家なりがわからないと、読者の共感性を得るのが難しいからです。そのため、作品の多くは、社会風俗などが主題となっており、音楽はそうした主題の添え物に過ぎないのではないか、というのが私の主張です。

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

 空前のベストセラー、俵万智『サラダ記念日』の巻頭を飾った一首です。

 ここではイーグルスの「ホテルカリフォルニア」が詠われています。曲名知らなくても誰もが一度は耳にしたことのある有名な洋楽です。作者はボーイフレンドとドライブをしています。「この曲と決めて」といっていますので、もしかしたら初デートなのかもしれません。相手の男の子は、気合いをいれてカーステレオで彼女と聴く曲をセレクトしたわけです(当時はカセットテープ!)が、そのあたりのことも、助手席の彼女はお見通しなわけです。そんな二人だけの車中に流れているのが「ホテルカリフォルニア」。

 この結句は、なかなか考えられています。これ、みんなが知っている曲名じゃないと決まらないし、かといって邦楽じゃあちょいとサマにならない。もちろん韻律にも気を配らなくちゃいけない。そこで「ホテルカリフォルニア」。このあたり作者のセンスが問われるわけですが、うまくハマったといえましょう。

 でも…。これ、動かないかというと、そんなこともないと思うわけです。つまり、イーグルスのこの曲じゃなくちゃいけないわけではない。別に、クイーンでもボブ・デュランでも、洋楽で通俗曲で韻律が整えば、他のアーティストの曲でもいいわけです。

 そうすると、これはイーグルスのヒット曲をうたいたかったわけじゃない。そうじゃなくて、プレバブル期の若者の風俗や恋愛が主題としてあって、そこに海岸沿いのドライブという設定の添え物として、流行歌をうまくのっけた、というわけです。

 では「ホテルカリフォルニア」そのものを詠うとすると、どんな歌になるか。『サラダ記念日』より五年後、一九九二年出版の藤原龍一郎『東京哀傷歌』より。ただし、レコードの表紙写真をうたっています。

 イーグルス・「ホテルカリフォルニア」のジャケットの心霊の群れの一人かわれも

 こうなると、俵の歌よりも、鑑賞の幅がかなり狭まるのがわかるかと思います。

 何といってもジャケット写真がわからないと味わいようがない。けど、そうなると読者はかなり限定される。じゃあ、せめて曲を知っていたら、まだ何となく理解できるかもしれません。けど、曲名もピンとこなかったら、もうワカナライ、お手上げの歌となります。

 流行を詠うのは、なかなか難しいのです。

(「かぎろひ」2017年3月号所収)

カバレフスキーその2

 

 カバレフスキーでわりと有名な曲に、歌劇「コラ・ブルニョン」序曲がある。

 これは、ディスクも豊富。5分程度の小品ですぐ聴ける。

 バースタインの「キャンディード」序曲のソビエト版みたいといえば、ピッタリな感じ。速いテンポで曲想がめまぐるしく入れ替わっていく。てっとりばやく元気になりたければ聴くといい。カバレフスキーのコセコセ感を存分に楽しめる。

 けど、鳴りはキャンディードのほうがいいだろう。それから、キャンディードと同じく、組曲版もあって、これもそこそこ楽しめる。

カバレフスキーのこと

 春である。

 春にあう音楽はなんだろう。

人によっていろいろだろうが、私の場合は、カバレフスキーだ。彼の音楽は、雪解けの春先にぴったり合うと思うのだが、今のところ賛同する人に出会ったことはない。

 数年前、春にカバレフスキーを聴く、という内容の短歌を詠んだことがあるけど、共感性は低いだろうと思って、ストラビンスキーに代えたことがある。

 それはともかくドミトリー・カバレフスキー。20世紀ソビエトの作曲家だ。ショスタコービッチとは大体同年代だけど、カバレフスキーは彼よりもずっと陽性の印象があるかもしれない。

 それは組曲「道化師」によるところが大きいだろう。あの単純明快な音楽が、第二次世界大戦時の1939年の作品というのも意外な感じだ。ストラビンスキーの「春の祭典」よりもずっと後のことだ。

 カバレフスキーは、そんな単純明快な子供向けのわかりやすい音楽の作曲家と思われがちだけど、それだけではない。

 交響曲も4つつくっていて、なかなかの完成度だと思う。

 

 交響曲第1番は、1932年、カバレフスキー28歳のとき。けれど、なかなか堂々として、オーケストレーションもしっかりしている。2楽章で20分程度でおわる。

 第一楽章は、かなり自由なソナタ形式。というか、狂詩曲に近い。私が聴いたところでは、第3主題まである。おおきな展開はせず、再現もない。バーっと鳴らしておわる。旋律は明快ながら、和声がプロコフィエフばりの不協和で実に面白い。わかりやすい旋律ゆえに、革命歌か何かからの引用なのかも知れないが、残念ながら、いかんせん資料がないので、私にはわからない。

 第2楽章が終楽章。ロンド形式。行進曲のAテーマがぐいぐいいく。Bテーマも勇ましい。これが、後半、長調に転調して、ほかのテーマとまじりあってハナバナしく曲をおえる。革命の勝利の進軍なのかもしれないが、私にはわからない。

 とにかく、コンパクトなシンフォニーで聴けばすっきりする。ああ、春だなあと思う。

 

 続いて第2番。こちらは3楽章形式で30分くらい。

 第一楽章は、短めの楽章ながら、きっちりとしたソナタ形式。旋律も明快。2つの主題を提示したあと、すぐに展開部に入る。アレグロでぐいぐいおす。ちゃんとコーダまであって、コンパクトな楽章。カバレフスキー全開、アレグロとフォルテでオケをがんがん鳴らすのであった。

 第二楽章はラルゴ。じわじわと盛り上げていって、ショスタコービッチばりの慟哭となる。

 第3楽章が終楽章。ロンド形式。8分の6拍子と思われる、軽快な行進曲から、だんだんと盛り上がって、最後は恐らくプレストで終わる。と、いってもいかんせんスコアがないし、資料もないから違うかもしれん。

 旋律は軽快なんだけど、オーケストレーションが厚塗りでゴテゴテしていて、そこが実に面白い。そんなに複雑なことはやっていないとは思うけど、とにかく和声がヘンテコで速いテンポで低音が疾走したり、スネアがフォルテで小刻みにリズムを刻んだりするので、おかしな効果をあげている。洗練されたオーケストレーションの対極みたいな感じ。

 

 第1第2交響曲とも、なかなかの作品だと思うし、特に、第2交響曲なんて、そこそこ構成もしっかりしているし、聴き応えもあるはずだけど、なにぶんディスクがないし、実演にも触れたことがない。

 とにかく旋律が骨太でわかりやすいから、単純に聴いて楽しめると思うのだけど、残念である。

 

 そういうわけで、カバレフスキーは、20世紀現代音楽とソビエト社会主義リアリズムのいちばんいい形での融合、みたいな感じで、ここのところずっと聴いている。

 

 私が持っているのは、チェグナヴァリアン指揮アルメニアフィル。これしかない。

 しかし、これが実に鳴りの悪い録音。アルメニアフィルって、こんなに鳴らんかったっけ、って思うくらい。

 もっともっと演奏されて録音されてほしい作品だ。

 現役盤は、これか。 

 

 

リスペクト・ブックス

 

『月とマザーグース』松川洋子(2012年、本阿弥書店

 

 今年めでたく卒寿を迎えた松川洋子の第六歌集。人生の先達に相応しい味わい深い作品のなかに、キャリアを感じさせないお茶目な歌がはさまれていて、びっくりします。老いてなお溢れる彼女の瑞々しい感受性に、私は大いに惹かれています。

 

 菜の花のおしくらまんぢゆう きみたちを来年も見たい絶対見たい

 

 歌だけみれば、歌歴六〇年をゆうにこえる方の歌集にある作品とは誰も思わないでしょう。初期の頃は硬質な文語体が特徴的な松川でしたが、今では口語も自在にあやつります。

 

 ヒトほどにうざる生き物なきゆゑにはまつてみたい動物行動学

 

「うざる」(うざい)、「はまつて」なんて言葉を臆面もなく使うベテラン歌人は彼女だけじゃないかしら。

 

 脊椎を走る冷感 お月様わたしに何が起きたのでせうか

 

 もう、月に問いかけちゃうんですね。そんな短歌界の「永遠の女学生」といえば、この人、松川洋子のことでございます。

 

『NHK短歌』2016年12月号所収

 

「歌のある生活」22「音楽」の歌その9

 前回の続きです。塚本の歌をもう一首とりあげましょう。

 春雪にこごえし鳥らこゑあはす逝ける皇女のためのパヴァーヌ 

                           塚本邦雄『水葬物語』

 フランスの作曲家ラヴェルの小品が詠われています。下句の「逝ける皇女のためのパヴァーヌ」です。ただし、邦題は「逝ける王女のためのパヴァーヌ」が一般的です。「皇女」という邦訳は、塚本のオリジナルな表現です。

 けど、もともと曲名からして詩的ですね。王女って誰のことだろう、誰の死ためのパヴァーヌ(古い宮廷舞曲の一種です)なのだろう、なんていろいろ空想がふくらみますが、一応、架空の王女という設定になっています。つまり「逝ける王女」という詩的な言葉で音楽のイメージをふくらませてね、というわけです。そして、塚本はそれを更に一ひねりして、「逝ける皇女」としたわけです。

 で、歌の鑑賞なのですが、私は、上句に引っかかる。「春雪にこごえし鳥らこゑあはす」様子(あるいは、さえずりの声)と、ラヴェルパヴァーヌが、まったく合わないのです。おたがい邪魔しあっているという感じです。凍えて鳴いている鳥のさえずりが何でゆったりとした舞曲になるのか、あるいは、亡き王女をしのぶ優雅な曲を導くのか、これはどう考えてもヘンなわけです。

 そこで、これはラヴェルの音楽とはまったく関係のないところで一首が構成されている、と考えます。つまり、この歌を読んでラヴェルが聴こえてくるとおかしなことになる、もっといえば、鑑賞の妨げになる。

 だから塚本はあえて「王女」を「皇女」に変えることで、音楽を鳴らすんじゃなくて、純粋にテキストとして解釈してね、としたんじゃないか、というのが私の読みです。

 純粋にテキストの解釈、すなわち、ここでは上句と下句の意味の取り合わせを鑑賞するというのが、この歌の解釈なのだと思います。

 森うごく予兆すらなく冬空へ少女が弾けるショパン〈革命〉 

                         西勝洋一『未完の葡萄』

 これは一首すべてが隠喩のような作品です。「森」は何かの隠喩でしょう。「冬空」「少女」も何かの喩として読めるでしょう。そして、結句に「ショパン〈革命〉」。ここで、ああ、これは革命を求める歌だったのか、と謎解き風な読み方もできなくはありませんが、私には、そうした読みはやや直截と思います。「革命」もまた何かの隠喩として読むほうが、一首に広がりが生まれるでしょう。

 それはともかく、結句の「革命」。ショパンピアノ曲ですが、読者は、どんな曲か知らなくてもいい。音楽じゃなくて、「革命」という題名の意味がこの歌では決定的に重要になるわけです。

 例えば、結句が「革命」ではなく「雨だれ」や「仔犬のワルツ」ならどうでしょう。当然ながら、おかしなことになるわけです。

 あるいは、結句が「ショパン〈革命〉」ではなく、「ショスタコービッチ〈革命〉」でも一首は成立するでしょう(字余りですが)。

 つまり、この歌は「革命」(的なもの)が主題なのだけど、直截に歌っても理屈にしかならないので、森や冬空や少女やショパンなんかを配置して短歌的叙情性を醸し出したというわけです。

 いかがでしょう。読者の私たちは、たとえショパン「革命」というピアノ曲を頭のなかで鳴らすことができなくても、この歌の主題を理解し、短歌的叙情性を十分に味わえるのではないかと思います。

 

「かぎろひ」1月号所収