歌会についての雑感その②

 歌会についての雑感の2回目。

 互選の話題から
 歌会によっては、互選をしたりしなかったりするが、これは、メンバーで決めればいい。私は、互選は一長一短があるので、どっちでもいいと思う。
 互選のあったほうが、ゲーム性が高まるし、必然的に詠草に序列をつけることになるので、適当な読みをしないというメリットがある。一方、その裏返しに、選をするには、しっかり読まなくてはいけないから、時間がかかるというデメリットがある
 互選というのは、その程度のものなので、票が多いとか少ないとかは実はどうでもいいし,票の多いのがいい歌というわけではない。それは、成員によるから、若輩が多ければ、若輩ウケするのに票が集まり、年寄が多ければ、年寄ウケするのに票が集まるだけのことである。けど、そうはいうものの票が集まるとやっぱり嬉しくなって、ついつい票が集まる歌を作りがちになるから、ここは注意が必要だと思う。

 

 歌会は、自分の提出した歌がどう評価されるかということに、まず第一の関心があるだろうが、そこそこ長く短歌の世界にいると、歌会の他人の鑑賞や批評なんてもうどうでもいいようになってくる。
 とくに批評というのは、歌会の参加者がおこなうのだから、はっきりいえば、参加者の質がよければいい批評になるし、質が悪ければダメな批評になる。つまり、歌会での歌の良し悪しは、参加者の質の良し悪しにかかってくるのだから、歌そのものの質とは別と思ったほうがよい。これは、さっきの互選の話題と同じ。参加者の質によって票の集まる歌は違うのと一緒。けど、そうはいうものの、褒められれば嬉しいし、酷評されるとへこむ。
 けど、だからといって、参加者の質に合わせた歌をつくると、質が高ければいい歌がつくれようが、質が悪ければそれなりの歌しかできなくなる。これも当たり前といえばそうである。
 気を付けなければならないのは、参加者に「この歌は、わからない」と言われること。これは注意が必要で、自分が本当に「分からない」を提出したのか、それとも、そう言った人があまり鑑賞する力のない人で歌をちゃんと読めなくて「分からない」といったのかを見極める必要がある。
 基本的にちゃんと歌を読めない参加者が「分かる」歌というのは、たいした歌ではないのだから、別にその人にわかってもらわなくてもいいという割り切りが必要である。けど、そこまで割り切ってしまうと、何のために歌会に参加しているのか、それこそわからなくなってしまうので、つい、万人に分かってもらおうとするツマラナイ歌を提出しがちになる。この割り切りがうまくできると、どんな歌会に参加しても一定程度のアベレージを保った歌を詠めるようになる。
 けど、実は、こうした話題というのは、歌会についていうと重要なことではない。前回の繰り返しになるが、歌会の大前提は遊興の時間なのであるから、参加者の質などというのは二義的なことなのである。いろんな世代の人や歌歴の人が集まって、集まった人みんながいかに楽しい時間を過ごすかということを考えたほうがいいと思う。
口に出さなくても、今日のこのメンバーの中で、この人の鑑賞や批評は傾聴に値すると思えば、その人の鑑賞や批評を参考にすればいいだけである。

 

 さて、自分の批評なんてどうでもよくなると、では歌会の楽しみは何かというと、他人のいい歌に出会えるかどうかということになる。けれど、これがなかなか出会えない。だから、懲りずに何度も歌会に参加するということなのかもしれない。
 出会うことが絶対にない、となれば、はじめから歌会には参加もしないだろうが、たまに、これはすごい歌に出会った、なんていう経験があるから、わざわざ飛行機に乗って宿とってまで参加するようにもなったりする。
 あと、もう一つの歌会の楽しみは、いい批評に出会えるということ。パッと鑑賞して、いまひとつの歌だなあ、と自分が思っても、誰かが素敵な批評をすることで、その歌がいい歌へと自分のなかで変貌することがある。
 これは、そもそもの自分の批評眼が曇っていたのであり、それを晴らしてくれたということと同時に、いい歌に出会う機会をえた、ということでもある。とても有難いと同時に、自分の批評眼のしょぼさを恥じるということになる。
 歌会の席で何喰わぬ顔をしていながらも、俺もまだまだだなあ、なんて思っている。しかしながら、こういう機会もほとんどない。大体は、どうにも的をはずした鑑賞や批評が結構あって、そういう読みじゃないだろ、と腹の中で思っている。もちろん、それはお互いそうで、歌会は、読み違いが普通にあるものなんだと最近は割り切って鑑賞している。
 前回の冒頭の宮柊二を酷評して泣いちゃった若い女性も、もし歌を続けて中年女性になっていれば、私のようなことを思うようにもなっていらっしゃるんじゃないかしらね。

歌会についての雑感その①

 「歌壇」11月号(2019年)の高野公彦の文章に、その昔、コスモスの東京歌会で、宮柊二が提出した歌を若い女性が酷評して、あとで作者名が判った時、女性はショックのあまり泣き出した、というエピソードが載っていた。
 このエピソード、短歌の世界ではわりとありがちなことだと思うのだけど、歌会とか結社とか短歌の世界のヒエラルキーとかいろんな話題が凝縮されていて、うまく行けば、近代短歌とは何なのかという、かなり深いところまで辿り着けるかもしれない。

 歌会は、基本的に遊興の時間である。歌の腕を上げるためとか、師から教えを乞うとか、そんな側面もなくはないだろうけど、今も昔も歌会というのは、歌の愛好家が集まってやる遊びだと思う。だから、やって楽しいことが第一である。ただし、楽しく遊ぶためには、集まった歌人みんなが了解したうえでの、いろいろな遊びの工夫というかルールというのが必要になる。
 少し前、「歌会こわい」なんてワードを見かけたけど、これは、楽しく遊ぶルールを誰かが逸脱していたか、あるいは、集まった歌人が了解しないルールがあったか、はたまた、その人が顕在していないルールを知らなかったせいと思う。
 歌会は、そんな怖い遊びではない。
 また、歌会を楽しくするための工夫というかルールは、歌会ごとにいろんな些細なことがあるので、それはそこここのメンバーで楽しいやり方を調節すればいいだろうと思う。つまり、ルールは参加者でつくればいいのである。

 歌会が遊興の時間であると主張するいちばんの理由は、無記名形式であるということ。これが完全に歌会とはお遊びである大原則となる。よくもまあ、こんな面白い遊びを考えたものだと歌の世界に漬かっているとつくづく思う。(記名形式の歌会もあるけど、これは例外としておきたい)。
 詠草を見て、誰の歌かわからないのである。つまり、ベテランだろうが、そうじゃなかろうが、年長だろうが若輩だろうが、とにかく、誰の歌かわからない。わからないまま、鑑賞する。そして、良いだの悪いだのを言うことになる。で、あまり偉そうな評をすると、あとあと名前が公表されたら恥ずかしい思いをしたりするので、つい、無難なことを言いがちになるが、別に酷評したってかまわない。遊興なんだから、そんなことにいちいち腹を立てていたらやってられない。
 はじめのエピソードに戻ると、若い女性が泣いちゃったのは、遊興の場だと経験的にわかってなかったからだろうと思う。
 短歌の世界というのは、今でもバカバカしいくらいヒエラルキーが残っている世界なのだけど(そして、このことについては、結社の話題でキチンと取り上げて、なんとか近代短歌とは何かまで辿り着きたいとは思うけど)、歌会は別ものである。上下関係のないフラットの場なのである。つまり、歌会は、短歌の世界では例外。だから、遊興の場なのである。遊びなのだ。
 だから、できるだけ性別や年齢がわからない歌を提出したほうが歌会としては面白い。
 たまに、作者当てをしたがる人がいるけれど、それもつまらないと思う。せっかく作者不詳で提出されているんだから純粋にテキスト解釈で鑑賞したほうが楽しいと私は思う。

穂村弘『水中翼船炎上中』にみる、オノマトペ技法の効用

 人や物の様子を形容したり説明したりするのに使われるオノマトペは、一般に慣用表現として広く意味が共有されている。そうした一般的なオノマトペは、慣用表現である以上、詩歌の修辞としては凡庸で平凡な表現という誹りを免れない。そこで、短歌形式では、そんな慣用表現としてのオノマトペをどうやったら詩歌の修辞として非凡なものにできるか、というのが作歌上の課題となった。なぜなら、短歌を含む詩歌とは、世の中にある慣用表現を、修辞技法の拡張によって、詩的修辞へ昇華させる実践といえるからである。
 そうして、オノマトペ表現の修辞技法としての拡張が、作歌の場面で様々に実践された。短歌でのオノマトペの使用とは、こうした実践上の道のりであったといえよう。
穂村弘『水中翼船炎上中』もまた、オノマトペ技法に注目して読むならば、そうした道のりの途上にある歌集と位置づけることが可能であろう。実際、歌集にはたくさんのオノマトペがある。私が数えたなかでは、三二八首中、実に七六首、割合にして二割をこえる。さながらオノマトペ技法のカタログといった様相である。
 本稿では、歌集中にあるそれらオノマトペ技法を整理しながら、これまでの実践でみられた技法拡張の延長線上にある用法の他に、本歌集で新たに実践されていると思われる用法を取り上げて、それぞれの効用を議論していきたい。

 これまでの技法拡張の延長線上にあるオノマトペ表現としては、次のような用法をあげることができる。

きらきらと自己紹介の女子たちが誕生石に不満を述べる

陽炎の運動場をゆらゆらと薬缶に近づいてゆく誰か

警官におはぎを食べさせようとした母よつやつやクワガタの夜

 

 一首目。「きらきら」は、自己紹介をしている女子たちが、きらきらしていると読める。「女子」「自己紹介」から、新入学やクラス替えのイメージが浮かぶ。けれど、この「きらきら」は、下句の誕生石のイメージにも重なる。つまり、この歌は、「きらきら」を新学期の女子と誕生石の二つのイメージに重ねている、と読める。
 二首目も同様。「ゆらゆら」は、「誰か」の様子を説明しているが、陽炎が「ゆらゆら」しているイメージにも重なる。三首目の「つやつや」も、夜行性である「クワガタ」の背中と「おはぎ」の両方に重ねている。あるいは、若かった母親の肌が「つやつや」していたという読みも可能である。いずれにせよ、「つやつや」に複数のイメージを重ねている。
 こうした用法は、ひとつのオノマトペにいくつかのイメージを重ねて、一首の詩的イメージを膨らませようとする修辞技法といえる。多くの言葉を詰め込めない短歌形式で、慣用表現であるオノマトペの意味の共有性を利用して、イメージを重ねていこうという用法であり、これは、これまでも実践されてきた。
例えば、北原白秋の『桐の花』から有名な一首。

君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 

 「さくさく」。舗石を踏む音に林檎を齧る音のイメージが重ねられている。また、朝空に雪が清らかに降るイメージを重ねることもできよう。「さくさく」から、これらイメージの重層的な効果を得ることができる。このようなオノマトペ技法の延長線上に、先に上げた三首があるといってよいであろう。
 では、次の作品からは、どんな技法がみられるか。

夜の低い位置にぽたぽたぽたぽたとわかものたちが落ちている町

みつあみを習った窓の向こうには星がひゅんひゅん降っていたこと

夜になると熱が上がるとしゅるしゅると囁きあっている大人たち

 

 一首目。「ぽたぽたぽた」。若者はそんな風には落ちない。そんな風に落ちるのは、水滴のような液体である。であるから、この作品は、コンビニの駐車場などの地べたに座っているような若者を水滴のようなものに喩えていると読める。
 二首目。「ひゅんひゅん」。星がそんなミサイルみたいに降ったら大変である。これは、みつあみを初めて習った女の子の心象のようなものを星の降る様に喩え、それがミサイルみたいに降っていたといいたいのだろう。
 これらの作品は、「わかものたち」や「星」や「大人たちの囁き」の様子を形容したり説明したりするのに、それらにふさわしいオノマトペではなく、水滴やミサイルや蒸気といった違うイメージの慣用表現であるオノマトペをぶつけて、詩的効果を生み出しているもの、といえる。
 こうした用法もまた、慣用表現として意味の共有が可能なオノマトペの特性を利用して、二つの違うイメージを重ねようとする、短詩型ならではの技法の拡張といえ、これまでも実践されてきた用法である。
  足もとに芽吹く間際の種ありてどくどくどくと日が暮れていく

                          勝野かおり『Br 臭素
  葉の匂いざあと浴びつつさきほどの「君って」の続き気になっている

                            江戸雪『百合オイル』
  あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中あをぞらだらけ

                              河野裕子『母系』


 それぞれ、「日暮れ」に赤い血流を、「葉の匂い」にシャワーや通り雨を、「あをぞら」に人群れのようなものを重ねることで、重層的なイメージの効果をあげようというものである。
 こうした技法のほかに、本歌集には、オノマトペの音喩的特質に注目し、それを強調する用法もみられる。三首ほどあげておく。

さらさらさらさらさらさらさらさらさらさら牛が粉ミルクになってゆく

五組ではバナナはおやつに入らないことになったぞわんわんわんわ

ああ、死んだ、父は応えて、厳かにポットを鳴らす、うぃーん、ぃーん

 

 こうした用法は、主として音を模した独創的なオノマトペ技法の延長線上にあるものととらえてよいであろうし、また、ライトヴァース以降さかんに実践された音喩反復による詩的効果を狙った、実験的な用法の延長線上にあるともいえよう。
 以上、おおまかではあるが、これまで実践されてきたオノマトペの用法の一端をみてきた。こうした用法は、今後も様々な歌人に実践されることで、様々なバリエーションが生まれ、修辞技法として深化・洗練されていくであろう。

 では、次に、本歌集で新たに実践されていると思われる用法をみていくこととしよう。

夏休みの朝のお皿にさらさらとコーンフレーク零れつづける

晦日の炬燵蒲団へばばばっと切り損ねたるトランプの札

冷凍庫の奥の奥にはかちかちに凍った貯金通帳の束

ひんやりと畳の上の鯨尺踏んで見ている庭の向日葵

パンツとは白ブリーフのことだった水道水をごくごく飲んだ

 

 ここにあげた五首のオノマトペ、すなわち「さらさら」「ばばばっ」「かちかち」「ひんやり」「ごくごく」に、独創性はない。凡庸で平凡な慣用表現としてのオノマトペである。せいぜい、一首目にあるような「お皿にさらさら」といった韻律の処理のための使用にすぎず、修辞技法としてことさら議論することはない。また、これまで見てきたような、イメージの重層とか、違う慣用表現をぶつけようとか、音喩の実験とかというものでもない。用法としては、いたって普通、平凡である。これはいったい、どうしたことであろうか。
 こうした、平凡な用法にこそ私は、『水中翼船炎上中』にある、オノマトペの新しい用法とみる。すなわち、慣用表現であるオノマトペをあえて使用することで、一読、凡庸で平凡な作品に思わせるという用法である。
 集中には、少年時代の回想がテーマとなっている作品が多い。そこでの主体は、少年時代を回想している大人には違いないけれど、あえて稚拙な表現を使用することで、あたかも子どもが詠っているかのようなクロスオーバーが生まれる。そのうえ、もう戻れないあの頃、みたいな、ノスタルジーとか抒情性とかそんなものを醸し出すことも期待できるのだ。
 すなわち、現代短歌のオノマトペの用法として、あえて平凡な慣用表現としての使用は、作為された稚拙さを生み出し、さらに少年時代の回想といったテーマと共鳴し、ノスタルジーや抒情性をも生み出す効用がある、ということがいえよう。
 また、こうしたオノマトペのもうひとつの効用としては、当然ながらリズムが良くなるということがあげられる。リズムが良いというのは、それだけ歌が軽くなるということでもある。重厚な味わいといったものではなく、軽やかで表層的な気分をあらわすのに、平凡なオノマトペはぴったりなのだ。
 平凡な表現こそが新しい、といえるかもしれない。
 さて、こうした平凡ながら新しい用法には、次のようなバリエーションも生まれる。

長靴をなくしてしまった猫ばかりきらっきらっと夜の隙間に

さよならと云ったときにはもう誰もいないみたいでひらひらと振る

冷蔵庫の麦茶を出してからからと砂糖溶かしていた夏の朝

 

 これらは、オノマトペによって形容されるものが省略されている。すなわち、「きらっきらっ」と光るのは猫の目であり、「ひらひら」と振っているのは手であり、「からから」と鳴っているのは、コップにあたっているスプーンである。これらのオノマトペは、平凡な慣用表現であるがゆえに読者に揺らぐことのない共有の意味を持たせられるため、「目が光る」や「手を振る」や「スプーンがコップにあたる」といった説明をせずとも、読者は一読わかるのだ。慣用表現であるからこそ、省略が効くという用法というのは、多くの言葉を詰め込めない短歌形式としては、実に効果的な用法といえよう。
 さらに、オノマトペが慣用表現であることを利用することで、オノマトペそのものを物としてあらわすことができるようになる。すなわち、オノマトペの名詞化である。

お茶の間の炬燵の上の新聞の番組欄のぐるぐるの丸

商店街大売り出しの福引のからんからんと蟹缶当たる

 

 一首目は、新聞のテレビ欄に観たい番組を赤ペンなんかでマルしたものを「ぐるぐるの丸」と名づける。二首目は、福引の大当たりのときに鳴らされる鐘を「からんからん」と名づける。こうした名詞化は、本来は物の様子を説明するために使用されたオノマトペ用法の進化といえるかもしれない。ただし、これらは、幼児語と同じである。すなわち、幼児が、車が走っているのをみて、「ブーブーだ」と言っているのと同じであり、短歌表現の幼児化ともいえ、実は詩的表現の退行である、という主張も成り立つかもしれない。
 ともあれ、歌集中にあるこうした新しいオノマトペの用法が、この先、廃れていくのか、あるいは、深化・洗練されていくのか、今後も現代短歌のオノマトペの表現技法に注目していきたい。

穂村弘『水中翼船炎上中』を読む4


 穂村弘『水中翼船炎上中』には、注目すべき社会詠が散見される。ここを評しておかないと、この歌集を読み解いたことにはならないであろう。
 有名な一首。

電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから

 

 この作品は主題を上句とするか下句とするかで、大きく読みが二つに分かれる。
 上句を主題とするなら、昨今は、電車のなかで、化粧をする女性が話題となっている。あるいは、電車の中で、いちゃつくカップルもいる。こうした公衆の面前にもかかわらず、私的空間として振舞う若者たちなら、いっそのことセックスしたっていいじゃないか、だって、もう戦争だってありうる時代なんだから、という感じ。
 他方、下句に主題を置くと、安保法案も通り、平和国家たる日本も右傾化し戦争が現実的なものとなってきた。そんな時代だからこそ、若者は、電車のなかでセックスするような無秩序なことやってしまえ、という感じか。こちらの方が、より政治的な主張が強く、こういう風に読みたがる歌人が多いようである。なかには、きっぱりとこれは反戦歌だと言っちゃう評者もいたりして、「いや、アンタそれは違うだろう」と私などは思うのであるが。
 もちろん、読者はどう読んでも構わない。私は、上句を主題とするほうで読む。上句の破調の命令形が主題で読めと要求している。他方、下句は、「きっと」なんていう、弱気な副詞が抒情を醸し出しているし、結句の着地の柔らかさからは、戦争のリアルさを私は感じない。上句の破調ほうがずっと言葉に力がある。やっぱり、この作品は、反戦歌じゃあないよ。

口内炎大きくなって増えている繰り返すこれは訓練ではない

リニアモーターカーの飛び込み第一号狙ってその朝までは生きろ

ふたまたに割れたおしっこの片方が戒厳令の夜に煌めく

苦しいよ死にたいという書き込みに生きてとコメントする天使あり

 

一首目。下句は、SFなどで見かける常套句。そこに、上句の戯画的な描写を重ねることで、ウソ世界を象徴する常套句が逆説的にリアルに感じてしまうという、けっこう技巧的な作品。
 二首目。近未来の希望の象徴としてリニアモーターカーを持ってきて、他方、絶望の描写としての飛び込み。けど、その一番乗りを狙って、その朝までは生きろと呼びかける強烈なアイロニー。なかなか複雑な組み立てなのだけど、「その朝」がツクリゴトではない作品のリアル性を担保している。
 三首目。「厳戒令」が発せられた夜という緊迫の対極として「ふたまたに割れたおしっこ」。この両極端を取り合わせることでアイロニーを引き出すという手法。技法的には一首目に似ていて、上句のチープな描写があるからこそ、「戒厳令」がリアルに感じるのだ。
 四首目。インターネットの掲示板やSNSの書き込みに「苦しい」とか「死にたい」とかが書き込まれているのは、ありふれた日常の一コマに過ぎないが、そこに天使が「生きて」とコメントしたということで、強烈なアイロニーになった。「天使」を持って来たところにこの作品の凄みというか怖さがある。
 これで、穂村はひとまず、お終い。

穂村弘『水中翼船炎上中』を読む3

 穂村弘の新歌集『水中翼船炎上中』を引き続き見ていこう。
 この歌集には、母の死を詠った一連「火星探検」がある。集中の白眉といってもいいだろう。いわゆる挽歌といえるのだが、では、現代短歌の挽歌を読み解いていこう。

月光がお菓子を照らすおかあさんつめたいけれどまだやわらかい

 

 一連十二首の三首目の作品である。死者となった母親が、布団に安置されている場面であろうか。そこに子である主体が、亡母の頬なり頸なりを触ったときの感触を詠ったということであろう。「つめたいけれどまだやわらかい」という描写から、母の亡骸を前にした子の心情を鑑賞するのだと思うが、それよりも私は、三句「おかあさん」に注目する。「母」でも「母親」でもなく、「おかあさん」である。
 この「おかあさん」の表現に、私は現代短歌の溢路にでくわした感じがする。挽歌である以上、読者は「作中主体=実作者」と読む。すなわち、ここでの亡母は穂村の実母であり、子は穂村自身と設定される。
 穂村弘を「ピーターパン」と呼び、そして、この歌集を読んで「そうでもなかったんだなあと思っ」た、と座談会で語ったのは、栗木京子だったが(「2018年歌壇展望」『短歌研究』平30.12)、この作品によって、いみじくも穂村の作品世界の限界が露呈したように私には思える。
 すなわち、従来の作品設定、場面設定であれば、穂村はずっと「ピーターパン」のまままでいられた。しかし、実母の死というのは、いわゆる虚構として詠うことができない。母親はシワシワのオバアさんであろうし、その子もいい歳のおじさんで、「ピーターパン」ではありえない。しかし、これまでの穂村のピーターパン的作品世界を維持するのであれば、母の死顔を前にして、「つめたいけれどまだやわらかい」と詠い、母親を「おかあさん」とモノローグするしかないのだ。
 これは、相当にイタい。現実世界の、ただの中年男が「おかあさん」と幼げにモノローグする状況は相当にイタい。けれど、下句の描写から、ここは「おかあさん」でないと一首として整合しない。すなわち、この歌は、ピーターパン的作品世界の構築が許容されている現代短歌と、挽歌に代表される自然主義的近代短歌の衝突が起こっているのである。そして、その衝突でダメージを受けているのは、ピーターパン的世界を維持して、イタい思いをしている現代短歌の側、と私はみる。やはり、挽歌に代表される自然主義的近代短歌の牙城はなかなか手ごわい、と改めて思う。
 では、現代短歌が溢路に陥ることなく、あるいは、ダメージを受けることなく挽歌を詠うには、どうしたらいいか。それは、やはり近代短歌との衝突を回避するしかないだろう。
 回避する方法のひとつとして、子ども時代にタイムスリップするという設定の仕方がある。それならば、近代短歌に触らずに、挽歌を詠うことができる。そんな一首。  

ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検

 

夢の中なら、子どもに戻ることができるし、母親も現実のシワシワのオバアさんではなく、若くてキレイな女性でいられる。もう、死者すらも、夢の中にすぎないということだ。そして、母が若かった頃の子どもならではの多幸感を、炬燵にもぐった感覚にあらわしているのだ。

穂村弘『水中翼船炎上中』を読む2

前回、穂村弘の新歌集『水中翼船炎上中』を取り上げたが、せっかくなので、もうしばらくこの歌集を読み解くことにしよう。
この歌集の構成は、現在から、少年時代の回想へ向かい、青年期へ行き、母の死をむかえ、再び現在に戻るという構成になっている。
少年時代の回想というのは、穂村自身の少年時代と重なるから、昭和四〇年代で、この前亡くなった、さくらももこちびまる子ちゃん」の時代設定とほぼ重なる(穂村が三つ年上である)。この時代に子ども時代を送った同世代には、より共感性が高いだろう。

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕

 

連作「楽しい一日」の巻頭作品。この一連で穂村は第四三回短歌研究賞を受賞している。連作は、一人っ子の「ぼく」を主人公として核家族だった少年時代を、掲出歌にある「食堂車」「富士山」といったようなベタなアイテムを並べてノスタルジックに描いた作品がえんえんと続く。
私は、この連作を初出当時の「短歌研究」誌で読んだが、あまりに作為的でちょっとグロテスクな印象を持ったものだ。今回、歌集におさめられたのを改めて読むと、全体の構成のせいか、そんなに露悪的な感じは受けず、わりとうまく連作構成がなされていると感じた。

ハイドンの羊あたまの肖像を見上げる夏の音楽室に

夏休みの朝のお皿にさらさらとコーンフレーク零れつづける

モウスコシガンバリマショウが降ってくる桜並木の下をゆくとき

 

作品の多くに、当時の子ども時代を彷彿とさせるアイテムが登場する。一首目なら音楽室の肖像画であり、二首目であればコーンフレーク。(なお、この二首目にある「さらさら」という凡百なオノマトペは、「お皿」の韻律を整えるためだけにあることに注意したい)。三首目だったら、上句は通信簿の評価の言葉がノスタルジーを喚起させるアイテムとなろう。なお、三首目の読みとしては、その通信簿の評価の言葉が、空からひらひらと花びらのように降ってくる、という隠喩表現ということでいいだろう。下句からすると、三学期の終業式のようだ。
こうした作歌の手法としては、ノスタルジーの喚起を通して抒情しようとしているわけで、わりと安易である。ただ、そうしたものを並べたところで、凡百の歌人なら、ああ、そんなことがあったね、で終わる。そのノスタルジーの喚起するアイテムを使っていかに詩歌に昇華させるかが一流歌人しての腕前。その、職人芸をここでバラすなら、読者に少し、オヤ? と思わせればいい。実は、それで詩歌になる。一首目は「羊あたま」という造語、二首目は「零れつづける」という結句現在形、三首目は上句の隠喩といった技法だ。

お茶の間の炬燵の上の新聞の番組欄のぐるぐるの丸

 

これも、「炬燵」「新聞の番組欄」といった、ベタなアイテムが使われている。そして、やはり、「ぐるぐるの丸」に見られるような、凡百のオノマトペを使いながらも、造語的で、だけど、すぐにピンとくる共感性の高いところを詠うのが、絶妙である。そして、毎回指摘しているが、上句からずーっと続く写実的な描写による作品のリアリズムは、ここでも健在だ。

穂村弘『水中翼船炎上中』を読む1

 前回までの議論を、とりあえずまとめる。

 穂村弘の作品には、現代的な素材で抒情させようという作品が一定数あり、読者は、その作品でうまく抒情できれば「わかる」し、抒情できなければ「わかならい」ということになるのではないか、いうことであった。

 この主張を当面の仮説として議論を進めていこう。

 さて、五月に穂村弘の十七年ぶりの新歌集『水中翼船炎上中』が発売されたので、せっかくだから、そこからいくつか拾って、仮説の検証をしてみよう。

 

なんとなく次が最後の一枚のティッシュが箱の口から出てる

 

 一読、だからなんなの、と言いたい感じの作品だけど、詳しくみていこう。

 歌の内容としては、ティッシュ箱からティッシュが出ていて、それが最後の一枚に思える、ということ。「最後の一枚」というところに、はかなさというか、切なさというか、そんな気持ちを託した。もちろん、それは、人間の人生の大きなはかなさや切なさ、というものではなく、変わらない日常のなかの、ホンのちょっとしたはかなさや切なさであり、そんなところの心の揺れを歌にするというのは、いかにも近代短歌の短歌的抒情の延長線上にあると私には思う。

 で、それをしっかりと作品化させるため、詠い方にいくつかの工夫がある。まず、初句の「なんとなく」という緩い入り方。こうした詠い方というのは、現代口語短歌のトレンドと受け取っていいだろう。茫洋とした感じが、文語短歌の締まった律感に対峙する口語短歌の詠い方なのだ。また、結句の「出てる」。「出ている」ではなく、イ抜きである。この、舌足らず感も、当然、はかなさとか切なさとかに対応していると押さえておきたい。

 であるから、歌の内容もさることながら、こうした歌の作り方というのは、現代口語短歌の最前線ととらえていいと思う。

 今回の穂村の歌集は、近代短歌の延長線上にある短歌的抒情を口語短歌の最前線といえる詠い方で作品化している、とおおまかにとらえていいと思うし、読者は、そうやって読めば、わりと「わかる」し抒情できるのではないかと思う。

 

極小のみかんの破片がまざってるパイナップルの缶詰の中

 

 上句の極視的なものの描写は、初期の穂村から続いているもので、細かい描写で抒情を感じさせようとする手法である。また、三句目「まざってる」も、イ抜きである。そして、下句では、パイナップルの缶詰といったノスタルジーを喚起させるアイテムを持ち出して、共感性を高めている、と読める。

 

長靴をなくしてしまった猫ばかりきらっきらっと夜の隙間に

 

 この作品は、現代短歌のオノマトペの試行と読むとわかりやすい。上句で童話「長靴をはいたねこ」をイメージさせて、下句で「きらっきらっ」とやる。この取り合わせで抒情させようとするのだ。同様な構成としては、次の作品もそうだろう。

次々に葉っぱ足されてむんむんとふくれあがった夜の急須は

 ここでは「むんむん」のオノマトペをうまく効かせた歌といえる。なお、先の作品もそうだけど、結句に「夜」が入っていることに注意したい。ここで夜を持ってくるのは、安易といえばそうだが、手っ取り早く抒情するために設定を「夜」にした、といえるのだ。

(「かぎろひ」2018年11月号所収)