いらぬお節介

 

 もう十五年も昔になるけど、一年だけ中学校で国語を教えたことがある。学校の事情で国語教師が足らなくて、若造の社会科教師だった私を、適当にあてがえたということ。当時の国語教科書には、与謝野晶子の『みだれ髪』から、この歌が載っていた。

 なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

 こいつを教師用指導書を頼りに生徒に解説をしたわけだけど、どうかなあ、これが晶子の代表歌かなあ、なんて思い始めるともういけない。やはり晶子といえばこれだろうなんて、いらぬお節介で勝手に授業で紹介していた。

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 これ、男子生徒にはそこそこ受けたけど、隣のクラスのオバサン先生からは、こんな歌を授業で取り上げてはいけません、と後でこってりと怒られた。

 話題変わって。十五年後の今年、永田和宏『近代秀歌』を読む。これぞ岩波新書教養主義バンザイの一冊。本の帯には「日本人ならこれだけは知っておきたい近代の歌一〇〇首」。まさしく、いらぬお節介。そもそも、タイトルがダメ。秀歌と教養は別だろうに。

 たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず

 石川啄木のこの代表歌が、近代の秀歌といえるか。なんて、そこら辺りのことは永田も重々承知していて「文学的な洗練度と、ポピュラリティの獲得という問題は、永遠のジレンマを抱えこんでいる」などと、言い訳をしている。

 ちなみに、この本では、晶子の歌「なにとなく」も「やは肌の」も永田は取り上げている。

 晶子ついでに。中学校の歴史教科書にも与謝野の詩は紹介されている。例の「君死にたまふこと勿れ」だ。こいつで晶子は反戦詩人であると社会科では教えるのだけど、それじゃあんまりなので、私は授業で「水軍の大尉となりてわが四郎み軍に征く猛く戦へ」を紹介していた。これもいらぬお節介なのだけど、これについては、誰からも怒られなかったね。

2013年「短歌人」7月号 所収