読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌①

 私には中学2年生の娘がいます。

 中学2年生というのは、国語の授業で短歌を習う学年です。娘の国語教科書には、はじめて短歌に触れるであろう中学生にふさわしい(と思われる)作品が載っています。これがいろいろと興味を誘います。

 今回から数回にわたって、国語教科書のなかの歌について、いろんな角度からお喋りしたいと思います。

 中学生の短歌の学習ですが、大きく分けて二つの学習事項があります。それは、観賞と表現技法の理解です。生徒は授業で、いくつかの短歌作品に触れながら、この二つを学習していくことになります。

 けれど、はじめて短歌に触れるであろう中学生に、いきなり短歌作品を紹介して、さあ、読解して味わえ、といってもそれは難しい。そこで、最近の教科書は、いきなり短歌を観賞するのではなく、短歌ってこんな感じで読み解くといいですよ、というような内容のエッセイを載せて、そこから短歌について学習させるというやり方をしています。いわば、短歌学習へ生徒をソフトランディングさせようという編集方針なわけです。

 そのエッセイですが、娘の教科書は、馬場あき子による書き下ろしを載せています(娘の教科書は光村図書のもの。これから紹介する短歌も、すべて光村図書に拠ります)。

 さて、ここで皆さんにクイズです。馬場が、はじめて短歌に触れるであろう中学生に、最初に紹介する短歌作品は何でしょうか?

 やはり、何事も最初が肝心です。中学生にも味わえるような平易で、そしてなによりポピュラリティのあるのがいいでしょう。いきなり難解な作品を持ちだして、悪印象を持たれてはいけません。

 正解は、この歌です。

 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはやかに春雨のふる      正岡子規

 まずは、近代短歌の代表歌人として正岡子規を馬場は紹介しています。もちろん、子規の歌なら何でもいいわけではなく、馬場は、いくつもの深い意図を持って、この作品を第一首目に持ってきているのです。

 その意図とは何かというと、まず、短歌というのは三十一音の定型詩ですよ、ということをおさえるわけです。はじめて短歌に触れるときに、破調や、句跨りの歌といった変化球はマズい。ちゃんと定型のお手本になる歌を紹介する。それから、声に出してみて調べがいいというのも、大切な要素でしょう。そうした意図を持って、馬場はこの歌を第一首目に持ってきているのです。

 まだ、あります。観賞するとき、読んでぱーっと情景が思い浮かぶというのが重要です。なぜ、情景かというと、教室の生徒がみんな同じ解釈になるためです。歌の解釈に揺れがないこと。中学生に歌の情景を絵に描かせたら、みんな同じ絵になるような歌といってもいいでしょう。こうした歌が一首目には良い。これが、作者の内面を詠んだ歌となると、読み手側にさまざまな解釈ができてしまう。もちろん、さまざまに解釈することは国語の学習では大切なことには違いがないのだけど、短歌のはじめで、それを学習するのは、まだ早い。まずは、みんなが共通の情景を思い浮かべることのできる歌を取り上げる。

 という意図を持って、馬場はこの歌をセレクトしたのです。そんなことエッセイには書いていませんが、恐らくはそういうことです。

 

「かぎろひ」2014年3月号所収