「音楽」を題材にした歌についてのおしゃべりの二回目です。
「音楽」を題材にして作歌する以上、その作品には「音楽」が鳴っているべきである、というのが、私の主張です。
前回は、近藤芳美の作品をあげました。「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」です。この歌について、前回、あれこれ理屈をこねてみたわけですが、とはいえ、この歌はちゃんと「音楽」が鳴るのです。「或る楽章」の部分で、読者はそれぞれ思う「或る楽章」の音楽を頭の中で響かせるわけです。もちろん、それはベートーヴェンだろうが、シューマンだろうが、何でもいいのです。その響きは読者にゆだねられています。ですので、この作品は、さーっと「音楽」が鳴る一首といえます。私の主張にかなう作品です。
こうした歌をほかにもあげてみましょう。たとえば、こんな作品はどうでしょう。
ヘッドフォンのバッハの曲をたましひの一(ひとつ)窓(まど)とし車中に眠る
高野公彦『水苑』
列車に揺られている。耳にはヘッドフォン。そこから流れているのはバッハの曲。それを聴きながら「たましひの一窓」として眠る、というのです。「たましひの一窓」の隠喩がこの作品の核であり、表現のオリジナリティなわけですが、この隠喩が列車に揺られながらヘッドフォンで音楽を聴いているという状況にぴったり合っています。そしてバッハ。「たましひ」なんていう巨大な言葉に対峙できるのは、音楽の父バッハしかいないでしょう。ですから、「たましひ」と「バッハ」もまた、ぴったり合っています。では、ヘッドフォンから聴こえているバッハの曲は何か。
バッハで「たましひ」といえば、「マタイ受難曲」かなあ、なんて私は想像してしまうのですが、この歌のすぐれているところは、曲名を明示していないことです。このことで、読者の想像がぐーんと広がるのです。
バッハの曲なら一曲くらい読者は知っているだろう、という高野なりの計算がはたらいているともいえるのですが、とにかく、バッハなら何でもいい。この歌を読むと読者の頭の中に、バッハの曲が響くわけです。
このような構成の歌をもう一首あげます。今度は、モーツァルト。
やはらかな血管のやうにうねりくるモーツァルトをねんねんころり
松川洋子『月とマザーグース』
これも、高野のバッハと同様、読むと読者の頭にはモーツァルトが響いてきます。モーツァルトの音楽を、「やわらかな血管のやう」とたとえたのは見事というしかありません。どんな曲でもいいです、頭の中で鳴っているモーツァルトは「やわらかな血管」というにふさわしい音楽じゃあありませんか。これが、ベートーヴェンじゃだめですね。たとえば「運命」冒頭のジャジャジャジャーンは、血管の生命力とは呼応しますが、やわらかくはないですね。まさにモーツァルトがどんぴしゃなのです。なお、結句の「ねんねんころり」は解釈してはいけません。ここは、松川ならではのユニークな言語感覚を楽しむところでしょう。
今回は、バッハとモーツァルトを題材にした作品を紹介しましたが、実は、作曲家を短歌の題材にするとき、バッハとモーツァルト以外で作歌するのは、とっても難しいのです。
さあ、なぜだかわかりますか?
次回は、そのあたりのことについておしゃべりします。
「かぎろひ」2015年11月号所収