「歌のある生活」16「音楽」の歌その3

 前回は、問いを投げたところで終わりました。「音楽」が鳴る歌は、バッハやモーツァルトでは作りやすいけれども、他の作曲家では難しい。それはなぜでしょう、という問いでした。

 さて、なぜでしょう。

 まず、単純な理由として、字数の問題があります。バッハは三音ですので、短歌に突っ込みやすいのです。これがチャイコフスキーならどうでしょう。こいつ、日本人にやたらと人気のある作曲家なのですが、こいつを詠んだ短歌作品は、バッハにくらべたら格段に少ないと思います。で、なぜかといえば、字数が多いから。歌にハマってくれないし調べもものすごく悪くなる。同じ理由でメンデルスゾーンも歌には向かない。それにくらべたら、モーツァルトは字数がいい。六音ですので助詞をつければ、二句や下句にはめやすい。そのうえ、音の響きもいい。同じ六音のベートーヴェンとくらべても、濁音のない分、響きが柔らかい。いきおい歌にしやすいということがいえます。これが第一の理由です。

 二つ目の理由。こっちのほうが、ずっと重要ですが、それは、バッハとかモーツアルトといえば、どんなイメージなのか、読者に察しがつく、ということです。

 どういうことかというと、バッハの曲というのは、バロック調の荘厳で杓子定規な音楽というイメージであるということ。いやー、そんなことはないと思うかもしれませんが、皆さんが思い浮かべるバッハの曲というのは、そうじゃないですか? そういうわけでバッハは共通のイメージを結びやすいのです。

 ですから、こんな歌まであります。

確定申告、バッハのように整然とレシート貼りて提出をせり

                  花山周子『屋上の人屋上の鳥』

 もう、バッハが比喩になってしまいました。「バッハの曲のように」ではなく、「バッハのように」で、じゅうぶん通じてしまうのですね。それくらいバッハは、共通のイメージがあるということなのでしょう。

 同じように、モーツァルトも曲に共通のイメージがある。それは、若々しく、明るく軽快なイメージです。レクイエムや交響曲四〇番冒頭のもの悲しい短調の旋律も印象深いのですが、どういうわけか、モーツァルトといえば、からっとした陽性の響きを誰もが思い浮かべるのです。ですから、こういう歌になります。

梅雨晴れのふとまばゆさを増す空にモーツァルトの靴音がする

                     永井陽子『ふしぎな楽器』

 じめじめした梅雨時期にふとみせる、晴れた空にふさわしい音楽として、アイネ・クライネあたりが靴音とともに鳴るわけです。もう、ぴったりじゃありませんか。

 では、ベートーヴェンはどうなのか。というと、皆さん、イメージそれぞれになってしまう。「運命」のジャジャジャジャーンもあれば、「第九」の大合唱もある。ピアノ曲なら「悲愴」もあれば「月光」もある。もう、曲のイメージがバラバラなわけです。ですから、バッハやモーツァルトのようにはいかない。他の作曲家も同様です。固定されたイメージがないから、歌にはしづらいのです。

 しかし…。固定されたイメージがないのにもかかわらず、音楽家や音楽を題材にしている短歌がまわりにはたくさんあります。それは、私からすると、非常に問題アリの歌です。次回はそんな問題アリの歌を取り上げます。

 

「かぎろひ」2016年1月号所収