「歌のある生活」21「音楽」の歌その8

 前々回、前回と「その音楽を知っていてもいいけれど、知らなくても鑑賞できる作品」を皆さんと鑑賞していますが、今回からは、そのなかから「意味」を楽しむ歌を取り上げます。「意味」を楽しむとはどういうことか。理屈はあとにして、まずは作品を鑑賞することにしましょう。渡辺松男の作品です。

 

 ジョン・ケージ「四分三十三秒」のすずしさよ茸すぱすぱと伸ぶ  『泡宇宙の蛙』

 

 ジョン・ケージアメリカの現代作曲家。「四分三十三秒」というのは、そのケージによる実験音楽の題名です。ずいぶんとヘンテコな題名ですが、それはさておき、この実験音楽は、これまでの音楽芸術をひっくり返すような、まさしくパラダイム転換をなす作品であり、そもそも音楽とは何か、音とは何か、を問う哲学的な作品でもありました。

 しかし、渡辺の歌は、そんな深遠なことを知る必要はありません。ずーっと浅いところで「へえ、こんな題名の曲があるんだ、変わってるねー」程度でじゅうぶんに鑑賞ができます。ですので「茸すぱすぱと伸ぶ」という、すっとぼけたのが下句についているのです。(ただし、ケージと茸は深い関係があるのですが、そんなこと知らなくてもこの歌の鑑賞は可能です)。つまり、この歌は「四分三十三秒」というヘンテコな題名があって、それに呼応するかのようなヘンテコな下句をくっつけた面白さを鑑賞するわけです。ヘタにこの音楽は哲学的である、なんていう知識があると、逆にこの歌の鑑賞の妨げになる感じもします。

 これが私のいう「意味」を楽しむ歌というものです。「四分三十三秒」という音楽は知らないけど、そのヘンテコな題名から楽しめる、というわけです。こうした「意味」を楽しむ歌は、塚本邦雄の作品に多くあります。

 

 「火の鳥」 終る頃に入り来て北狄のごとし雪まみれの青年は    『日本人靈歌』

 

 塚本なので、解説がめんどくさいのですが、まず「火の鳥」。これは、手塚治虫のアニメではなくて、ソビエトの作曲家ストラヴィンスキーの近代バレエ。内容は、ロシア民話に拠っている、という程度のことを知っておくと鑑賞の助けになるでしょう。その演目の終わる頃に「北狄のごとし雪まみれの青年」が会場に入ってきたというわけです。ここで「火の鳥」と「北狄」が対応します。ロシア民話と異民族、火と雪、鳥とケモノ偏、というあたりでしょうか。

 あるいは、「火の鳥」をソビエト国家の換喩として読んで(火から共産党の赤を連想できなくもない)、「火の鳥」 終る頃をロシア革命の成就と解釈し、その後に、共産主義思想とは異なる政治思想が雪まみれでやってきたと読むこともできるでしょう(そうやって読んでいる人が他にいるのかは知りませんが)。

 そういうわけで、この歌、「火の鳥」というバレエ音楽について、知識としてある程度のことは知らないと解釈は難しいのですが、ただし、音楽自体は知らなくてもいい。つまり、どんな曲か聴いたことがなくても、作品の鑑賞ができるのです。

 もちろん、「火の鳥」を聴いたことのある人なら、終曲のフィナーレの響きを頭のなかで鳴らしてもいいでしょう。しかし、この作品は「火の鳥」の音楽と作品のシンクロを狙っているわけではない。そうではなく、「火の鳥」の終る頃という意味解釈、すなわち、先ほど述べたロシア革命の終わり、といったような喩的な意味解釈が、非常に重要なわけです。

 

「かぎろひ」11月号所収