「歌のある生活」26「音楽」の歌その13

 

 前回の続きです。永井陽子のこの歌の鑑賞をします。

 べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

 永井は、鼓笛隊の行進のリズムを詠いたかったのでした。大太鼓や小太鼓が打つタンタンタンという二拍子のリズムをどうにかして短歌にしたかったのでしょう。しかし、鼓笛隊がタンタンタン、なんてオノマトペを詠っても、そもそも短歌の韻律感以上のリズム感は生まれようもない。では、前回とりあげた二つの歌にある、「規則正しい杭」のようなリズムとか、「天人の手」のように叩くとか、修辞を駆使しようか。そんなことも考えたのかもしれない。

 しかし、永井は、そうした手法とはまったく違う発想で詠いました。それが、「べくべから~」です。

 これは、もともとある言葉(べく、とか、べから、という助動詞の言葉)をオノマトペとして使う、というのが、これまでにはなかったアイデアでした。そして、その使う言葉に意味がない、というのも、すぐれた発想といえます。つまり、この歌は、鼓笛隊のタンタンタンの二拍子のリズム感をいかに短歌の韻律感のなかで表現するか、というリズムのための一首なので、できるだけ言葉の意味に引っ張られたくない。そこで、出してきたのが、助動詞の活用形なわけでした。

 この点がもうこの歌の天才的に素晴らしいところです。名歌というのは、結構、コロンブスの卵みたいなところがあって、言われてみれば、へーそなんだー、で済まされがちで、新大陸を発見したすごさがなかなか伝わらない感じがするのですが、この一首も、まさしくそれだと思います。

 いや、まだ、あります。この歌は、短歌の定型のリズムは決して崩すことなく、短歌の韻律と、鼓笛隊のマーチのリズムが見事に一首のなかでハイブリッドしている、これまでにはなかったリズムの歌なのです。

 永井が発見したリズムを詠むこの手法は、こんな風に応用されていきます。

 だったよな抱いてだいて抱いてだいてパイン畑のなかの打楽器

 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

 あまでうすあまでうすとぞ打ち鳴らす豊後(ぶんご)の秋のおほ瑠璃(るり)の鐘 

 永井陽子『モーツァルトの電話帳』

 加藤の歌は、「べくべから~」とほぼ同じ構成です。恐らく、加藤には永井の「べくべから~」の一首が想い浮かんでいたことでしょう。ここでは「抱いて」という言葉を、意味よりも音(おん)として使い、そして、それを四度も繰り返すことで打楽器のビート感(ダイテダイテダイテダイテ)を出すのに成功しています。なかなか面白い歌です。

 二首目、「あまでうす」はモーツァルトの名。これを日本の鐘の音のオノマトペとしたのが、とてもチャーミングです。もちろん、モーツァルトと豊後の鐘は何の関連もありません。あえてひらがなで表しているのも、意味ではなく音として使っている意図がわかります。

 永井が発想した「べくべから~」の手法は、短歌の韻律感のなかに、どうやったら違うリズムを詠うことができるのか、という難題の解答を示すものでした。この先、もっとすごい発想の歌が生まれるかもしれませんが、今のところ、この永井の歌を越えるリズムの歌というのは出現していないと私は思います。

 

「かぎろひ」2017年7月号所収