今回からは、音楽の歌のなかでも「メロディ」の歌を鑑賞します。
けれど、ひとくちに「メロディ」の歌といっても、いくつかの種類に分けることができますので、ちょっと整理しながら見ていくことにしましょう。
まずは、一首を読むと、頭の中にメロディが思い浮かぶ、というような作品があります。いうなれば、山を詠えば雄大な山並がマナウラに映り、鰻重を詠えばウナギの味が口いっぱいに広がるように、音楽を詠えばミミオクにメロディが鳴り響く、という作品です。
まんじゅしゃげ散っている道蟻の列どこか遠くでボルガの舟歌
石田比呂志『老猿』
蟻の列を見ていると、石田のミミオクから、ロシア男声合唱の野太いユニゾンが聞こえてきたのでしょう。「ボルガの舟歌」というのは、エイコーラー、エイコーラーの歌詞で有名なロシア民謡です。日本では、往年のダークダックスが歌っていました。蟻の隊列に集団労働の苦労を想ったのでしょうか、その連想で船曳きの労働歌が思い浮かんできたのでしょう。蟻の列から「ボルガの舟歌」への着想は、実に巧い取り合わせと思います。
この石田作品と同様の構成の歌としては、杉﨑恒夫の次の作品があります。
石鹼がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし 杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』
膨れゆく硝子の火玉 ラプソディ・イン・ブルー吹く硝子工 同『食卓の音楽』
杉﨑には、音楽を楽しく詠んだ作品がたくさんあって、読むと読者も明るく楽しい気持ちになりますがこの二首もそうです。
一首目。恐らくはフロ場の洗い場で、これから自分の身体を洗おうという場面なのでしょう。手にとった石鹼がツルンと滑ってタイルに落ち、その勢いで石鹼がツーっと走っていった。銭湯くらいの広い洗い場かもしれません。そのツーっと石鹼が走っていったその時に、杉﨑のミミオクにはモーツァルトの交響曲四〇番の冒頭の旋律が鳴り響いたというわけです。この歌には、「モーツァルト」も「冒頭」も詠われていませんが、クラシック音楽にそこそこ詳しい読者であれば、この石鹼がタイルをツーと滑っていく時にふさわしいBGMは、モーツァルト四〇番冒頭のあのメロディ以外には考えられません。
二首目も同様です。硝子工がぷーっと頬を膨らまして硝子玉を作る様を見て、作者のミミオクにはガーシュインの音楽が鳴り響いたというわけです。「ラプソディ・イン・ブルー」と曲名が詠われていますが、ここは、この曲の冒頭でのソロクラリネットの旋律の部分を詠っていると断言しましょう。というか、もう、あの冒頭のメロディが、硝子工のぷーっと吹く描写に、まったくもってドンピシャなのです。
こうした石田や杉﨑の歌というのは、技法で言えば、メロディを隠喩として使っているということがいえます。すなわち、蟻の列は「ボルガの舟歌」の旋律のようであり、石鹼がタイルを走っていく様は四〇番の冒頭のようであり、硝子工がぷーっと吹く様は「ラプソディ・イン・ブルー」のクラの旋律のようである、と視覚による事象を音楽で喩えているというわけです。これは相当に高度な隠喩技法であり、斬新でもあります。音楽の歌でよくあるのは、音楽を聴きながら、我はこう感じた、という歌なわけですが、これらはそうした凡百の歌とは一線を画した、高度な修辞技法が駆使されている作品なのです。
(「かぎろひ」2017年11月号所収)