歌会についての雑感その③

 歌会の話題の3回目。
 今回の話題は、歌会に限ったことではないけれど、作品と作者の距離をいかにとるかという話。
 これは短歌の世界では実に難しい。

 例えば、誰でも知ってる石川啄木の歌に「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」があるが、この歌は、誰もが啄木の実生活を詠っていると思うだろう。で、「ぢっと手を見る」あたりで深く共感して、ああいい歌だなと感嘆したりするわけだ。
 これが、近代短歌が誕生してから現在まで行われている、ごくごく普通の短歌の読み方であり、別に今さら否定されるものでもない。
 だから、こんな感じで詠われた歌が無記名形式の歌会の席で提出されたとしても、読者としては、作者は誰なのかもちろんわからないけれど、恐らくは、ついつい作者の厳しい境遇に共感しながら鑑賞するということになりがちだ。
 けど、やはり、こうした読み方は作品と作者は近いわけで、そうした作品と作者を近づけるのは、とりあえず、無記名形式の歌会ではやめた方がいいだろうというのが、今回の私の意見である。
 別の言い方をすれば、提出された作品から、作者の顔を思い浮かべないほうがいい。

 

 じゃあ、歌会では、どうやって読むのがよいのかというと、作品をテクストとして、ひたすら解釈することに努めるのである。先ほどの啄木の歌ならば、初句二句につながるリフレインの効果とか、2句3句のない「ナオ・ワガ・クラシ」のブツブツしたなかにある律感のよさとか、4句で切っておいてからの結句でガバッと見得を切る豪胆さとか、とにかく、そんな詩歌のテクスト分析をやっていくのだ。それも、印象批評ではなく形式主義的批評を意識的にできればなおよい。
 それが歌会の読み方、もっと広く言うと、現代短歌の一首評の主流になるべきだ、というのが私の意見なのだけど、これだけでは、なかなか賛同を得られないだろうなあと思うし、そんな読み方は、短歌としては面白くも何ともない、という声もきこえてきそうである。

 

 そもそも歌は、共感の文芸なんだから、作者の境遇に寄り添って、作者の歌に込めた想いを汲んで鑑賞する、というのが近代から現代にいたるまでの短歌鑑賞の王道である。けれど、鑑賞はそれでいいけど、やはり批評は分けたほうがいいだろうと思うし、歌会は、できるだけ批評するようにしたほうが、意味があると思う。
 なぜ、そんなことを言うのかというと、やはり、歌会というのは、無記名形式の遊興であるということにいきつく。
 
 そもそも近代短歌というのは、これまでの言い方でいうと作品と作者が近いどころか、もう同一であるというのが前提で一首を鑑賞した。短歌は一人称の文芸であり、作品の<われ>は、イコール作者である、という前提である。やや乱暴ながら近代短歌は私小説の詩歌版である、と考えると理解が早いかもしれない。今では自然主義文学なんてのはすっかり文学史に埋没してしまったけど、その理想をいまだに標榜し、発展させたのが近代短歌という文芸ジャンルである、と言ってもあながち的外れではない、というのが私の見立てである。
 さて、そんな近代短歌であるから、一首で詠われている<われ>に、作者の顔を重ねるのは無理のない読みであった。つまり、冒頭の啄木の歌は、啄木の境遇や心境を詠っているという前提で鑑賞しても何も問題はなかった、というわけである。
 けど、この短歌の王道の読みというのは、歌と作者がセットになっていてはじめて成立する読みである、ということは確認しておいたほうがいいだろう。比喩的な言い方をすると、短歌とは、歌と作者があってはじめて<短歌作品>になるのである。
 例えば、「みだれ髪」で詠われた近代女性像は与謝野晶子本人の生き様であるという前提あり、歌に登場する男女の愛憎模様は、鉄幹と晶子のそれである、というのが前提だ。あるいは、白秋にしろ、牧水にしろ、そこで詠われている<われ>の在り様は、すなわち白秋や牧水の生き様であったと疑わず読む。そして、そうした読みは現在でも同様で、俵万智の「サラダ記念日」の<われ>の恋愛の在り様は俵万智の生き様であり、「チョコレート革命」にある不倫女性の在り様は、彼女の生き様を晒していると疑わず読む。と、いうか、べつに疑ってもいいけど、とにかく、そうやって作品と作者を同一視して読むというのが近代短歌の読みの作法であったのだ。

 

 さて、ここまで話を進めれば、歌会の無記名形式で、近代短歌の読みの作法が有効かどうかの議論に進めるだろう。
 与謝野晶子の「みだれ髪」は、与謝野晶子という作者のクレジットがあって、はじめて、<短歌作品>として完成する。であるから、歌の解釈と同等に、晶子がどんな人物だったのかを研究することも、大いに、その<短歌作品>を批評するうえで大切なことということになる。いわゆる歌人論といわれるジャンルだ。
 では、もし、晶子というクレジットがなかったらどうだろう。
 もう、時代性や詠われた背景が見えないから、かなり、歌の解釈は茫洋してくるだろう。もしかしたら、性別すらも分からなくなるかもしれない。例えば、「みだれ髪」にある名歌、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」には、詠われた当時の晶子の恋心による高揚した感情が読み取れる、というのが歌人研究からの定説となっている。そして、この歌は、明治期の女性が詠ったから、そして、激しいナルシズムを晒すことを厭わない晶子が詠ったから名歌なのであって、もし、現代の歌人が詠んだなら、「清水」「祇園「桜」「月夜」と舞台設定があまりにベタで、そのうえ結句があまりに凡庸であると酷評されるかもしれない。まして、若い女性の恋の高揚感なんてこの歌から分かりっこないだろう。こうしたことが、歌と作者があってはじめて<短歌作品>となる、ということだ。
 そうやって考えると、歌会の無記名形式の鑑賞というのは、ひどく不自由だということが分かるかと思う。つまり、普通一般の読みの作法では、評価の定まった名歌でさえ、もしかすると酷評されるかもしれないのである。
 そう考えると、果たして、普通一般の読みの作法で無記名形式の一首を読むのは、かなりキワドイということになるだろう。ならば、そうした普通一般の読みの作法は、いったん脇において、作品に作者を思い浮かべないほうが、無記名形式の歌会では、いい読みができるんじゃないかと思うのだ。
 歌会での作者当てが興ざめなのと同様に、読み手が作者像をあれこれ思い浮かべるのもまた、いろんな世代が参集する歌会では、とりあえず止めておいたほうがいい。
 じゃあ、どうやって作品を読むか、というと、律感がどうとかレトリックがどうとか、といったような批評をするといいんじゃないかと思うのである。さらに言えば、「○○が効いている」とか、「○○は動かない」とかいう、短歌特有の言い回しで批評する印象批評よりも、よりテクスト分析として、韻律や修辞に注目したゴリゴリの形式主義的な批評のほうが、短歌の読みは面白くなるんじゃないかというのが、現時点での私の意見である。