歌会についての雑感その④

 歌会の話題も4回目である。
 前回、私が提出した主張は、こうである。


 歌会での読みは、鑑賞よりも批評のほうがいいし、その批評も、印象批評より、形式主義的な批評のほうがいい。

 ということだった。
 どうして、そう主張するのかについては、前回の文章に書いてあるので、読めば分かるはずである。

 

 今回もまた、この主張に沿っておしゃべりをしていく。

 初出を忘れたけど、佐藤通雅の書いたエッセイに次のような話題があった。

 大東亜戦争中、戦地に赴いていた兵士は、上官も含めて皆で「句会」をすることはよくあったそうだが、「歌会」をすることはなかったという。

 このエピソード、俳句と短歌の違いを実に端的に表している、と思う。
 すなわち、俳句を詠む「句会」なら、実作者の心中に踏み込まずとも作品はつくれようが、短歌になるとなかなかそうはならない。短歌は作者の心情を詠い、一方その歌を読んだ人は作者に共感しながらその歌を味わうわけだから、戦地という非日常のなかでウカツに自分の心中を晒け出すのは注意を要する、というわけだ。
 もちろん、戦時中、兵士らは戦地でおびただしい歌を詠んだ。そして、ある兵士は、手帳に書き留め、戦後、あらゆる場で発表したことだろう。あるいは、戦時中であっても戦地から詠草を結社などに送った兵士もいただろう。そんな強烈なリアリズムを放った生々しい戦時詠は今でも残されており、現代に生きる私たちは割と簡単に読むことができる。そうした戦時詠には、厭戦的な気持ちを詠った歌もあるし、内地で生活している家族を思う歌もある。もっといえば反戦歌だってある。
 しかし、戦地での兵士同士の「歌会」となると、反戦歌はもちろん厭戦的な歌を提出することも難しかったろう。あるいは、日本の家族や妻や我が子を思うような歌も提出しにくかったに違いない。そういう事情がすぐに察せされるから、「句会」はやっても「歌会」はやめておこう、ということになったのだろう。

 もうひとつ、今度は別の例を示そう。
 皆さんには、次のような経験はないだろうか。
 自分が歌会に提出した歌について、自分は全くそんな気持ちで詠ったわけではないのに、歌会のある出席者が手前勝手に斟酌して、作者はさぞかし悲しかったと思う、とか、つらい思いをされているとか、さも、作者の気持ちがよくわかるかのような物言いでトクトクと述べられ、歌を提出したこちらとしては何だか、ガッカリというかトホホというか、そんな気持ちになったという、そんな経験を。
 これは、その出席者が短絡的でなんでも都合よく勝手に解釈してしまう人なのか、あるいは、自分の提出した歌が誤解を招くような作品だったのか、よくよく検討すべきこととは思うが、とにかく、自分の思いとは違う解釈をされてしまった、ということと、その違う解釈のまま勝手に共感されて、さも作者はそうに違いないと思われている、という二重の面で、ガッカリというかトホホというかそんな気持ちになる、という経験である。
 こうしたガッカリするというか、トホホになるというか、そういう気持ちになってしまうのは、短歌は<われ>の心情が露わになるせいだといえる。これも、俳句なら、作品解釈の面で読み違いはあっても、そんなにガッカリはしないと思う。

 以上2つの例を挙げてみたけど、これらは共に短歌という形式が、一人称の<われ>の文芸であるがゆえに、どうしても作者の心情が露わになることを避けられない性質によっているものといえよう。戦時中に「歌会」ができなかったのは、そうした短歌特有の事情によるし、普段の「歌会」で、ガッカリした気持ちになるのも、同様である。
 だったら、短歌作品で、自分の内面を露わにしなければいいじゃないのよ、ということになるけど、そうなると、なんで短歌を詠むのか、という歌作の根源的な話になってくる。そもそも、短歌を詠むというのは、例えば、悲しい気持ちになったときに、その悲しさを言葉にしたいから悲しい歌を詠うのであって、悲しい気持ちのときに、嬉しい歌を詠うのがアホくさいという、割と単純なことなのだ。
 あるいは、一人称<われ>を仮構して、中年のおっさんがうら若い少女の心情を詠っても構わないけど、わざわざ詠う意味がない、ということでもある。詠うことで原稿料などの報酬が発生するなら、いくらでも詠い、いくらでも道化に徹せようが、残念ながら短歌にはそんな価値はない。
 つまり、短歌の一人称<われ>の文芸という読みの作法を崩すほどの理由が、今のところは見つからないのだから、だったら当面は、その作法にのっとって詠ったほうが都合がよいということなのだ。
 この「読みの作法にのっとった方が都合がいい」、というのは詠む側だけではなく、読む側もそうで、お互いそういう了解ごとで、詠んだり読んだりしている、というのが短歌の世界の現状なんだと思う。
 無論、フィクションや空想や叶わぬ望みを詠って構わないけれど、それはあくまで<われ>がこしらえたフィクションや空想や叶わぬ望みであるべきである。ここら辺りが、ちょいと誤解を招くところなので、注意してほしい。
 たまに、短歌の世界で、虚構や現実か、なんて議論がなされて、短歌で虚構は許されるのか、なんていうのが話題になるけど、そんなのは、そもそも論点に値しない、というのが私の意見である。
 繰り返しになるが、虚構だろうが、何だろうが好きに詠めばよろしい。そこについては、短歌は自由である。ただし、その虚構の作者は、一人称<われ>でなくてはいけない、というのが短歌の作法である。そして、この一人称<われ>を、桑原憂太郎がうら若き少女に扮して詠っても構わないけど、詠う意味がない、というのは、さっき言った通りだし、その理由もさっき言った通りだ。

 さて、そういう<われ>の心情が露わになるのが短歌であり、だからこそ、戦時中では「歌会」をやらなかったり、今でも勝手に斟酌されて、ガッカリしたりトホホになったりする、ということがあるのだ。
 けど、そんな一人称<われ>の文芸であっても、「歌会」の場で感情移入せずに読めばどうだろう。すなわち、作者の内面には立ち入らずに、短歌作品をあくまでもテクストとして読むということだ。
 冒頭のエピソードを用いるのであれば、兵士が、戦場で厭戦的や反戦的な歌を歌会で提出しようとも、歌会の参加者は、その作品をテクストとして淡々と批評する。
 あるいは、現在の歌会で「わが暮らし楽にならざり」と詠っている作品が提出されたとしても、「あなたの辛い心中を察します」なんて言わず、淡々とテキスト批評をする。(どういう批評ができるのかについては、前回の文章を参照のこと)。
 「作中主体」=「作者」などとゆめゆめ思ってはいけない。そもそも、「歌会」に提出された作品は、作者名が知らされていない以上、そこに作者は存在しないのである。存在しているのは「作中主体」だけだ。一体、作者はどんなことを思ってこの作品を作ったのだろう、なんて考えてはいけない。というか、別に考えてもいいけど、それをベースに批評をするべきではない。あくまでも私たちの目の前には、作者が誰だかわからない詠草があるだけである。この詠草をテクストとして解釈し、形式主義的に批評する。

 もし、そうした読みが主流の「歌会」だったら、どうだろう。自分の心情を露わにすることをはばかることなく詠草を提出できるのではないか。「作中主体」が若い女性の濃厚な性愛の歌が提出されても、誰も、作者の内面には侵入しない。あるいは、腹の中の黒々したグロテスクな内面を晒した「作中主体」の作品でも、誰もそんな内面には関心なく、ただ、テクストとして解釈につとめる。
 私には、なんというか、とても風通しのよい非常に心地良い「歌会」と思うのだけども、いかがだろう。
 参会した誰も楽しく「歌会」の時間を過ごすための一案として、作品の読み方についてあれこれ考えてみたけれど、私には、こうした読み方が、「歌会」のみならず、現代短歌の一首評としても有効なのではないかと思っている。

 歌会の話題は今回でひとまず終わりにします。
 次回、話題を変えます。