短歌の「調べ」について①

 今週より話題を変える。
 「調べ」の謎について考えたい。
 「調べ」とは何か、なかでも短歌の「リズム」とは何かについてしばらく、おしゃべりする。
 まずは「調べ」とは何かについて考えてみよう。
短歌には「調べがいい」歌と「調べが悪い」歌がある。
「調べがいい」歌というのは、こんな歌。

 

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
斎藤茂吉『白き山』

 

 これが何で「調べがいい」のだろう。いくつか理由をあげてみよう。
 まず、定型である、ということがいえる。ただし、定型であることは「調べがいい」大きな理由になろうが、定型であっても調べが悪い歌はたくさんある。(ただし、調べが悪い歌というのは、すなわち、名歌ではないので、ここでは取り上げない)
 それに、定型でなくても、調べがいい、という歌も存在する。(これは、これから先の話題にする「リズム」によるので、そのうち取り上げる)。
 とにかく、「定型である」というのは「調べがいい」という大きな理由になろう。
 次に、「韻」が関係している、ということがいえる。ただし、この「韻」だけど、短歌では、漢詩のように、あるいは西洋詩のように頭韻とか脚韻とかが、はっきり定義づけられているわけではないし、厳密な解釈が施されているわけではない。逆に、短歌で漢詩や西洋詩でいうところの頭韻や脚韻がそろいすぎると、幼稚くさくなる。これは、定型で十分調べが良くなっているところに、韻をそろえると、ヤリスギになってしまうのである。
 だから、短歌で「韻」を感じながらも「調べがいい」なんていうのは、かなり曖昧な解釈がなされている。掲出歌でいうと、「もがみがわ」で「が」が共鳴しているとか、「さかしらなみ」の「サ行音」の優位性とか、上句ではA音が多くて最上川がざぶざぶ波の立っている内容と合っていて、下句はU音が多くて、くぐもっている感じが歌の内容にこれまた合っている、なんて解釈だ。これらは、漢詩や西洋詩の概念である「韻」とは別物であるが、「韻」のような母音や子音の並びに注目して「調べがいい」理由として短歌の世界では議論されていよう。
 「定型」、「韻」ときて、もうひとつ「調べがいい」理由として、「リズム」をあげることができる。
 そういうことで、ここからが、本題である。
 ちなみに、先ほどの「韻」と「リズム」を合わせて「韻律」なんて言ったりするが、その「律」のことである。

 では、短歌の「リズム」とは何だろう。
 実は、これが、はっきりしていない。だからこそ、「謎」といえる。
 「リズム」というんだから、2拍子とか3拍子とかのビートがあるはずだと考える。けど、どう考えたって古来日本に西洋のようなビートがあったかというと、そんなことはない。一応、西洋の概念でいえば2拍子らしいものがあったと言われているが、ビートというには程遠く、拍子は伸び縮みしていたに違いない。つまり、日本では民謡なんかで手拍子を頭拍(オンビート)で打つが、あれは謡曲のこぶしの回し具合やブレスの取り方なんかによって早くなったり遅くなったりしていたはずである。
 であるから、古来日本には2拍子があって、それが短歌にも当てはまるだろう、といっても、西洋概念の2拍子ではない。
 しかし、文明開化以降、西洋文化流入し、音楽の世界でも学校教育によってすっかり西洋音楽が浸透した現在、すべての日本人は、音程を平均律でとらえるし、拍子もビートでとらえるようになった。であれば、短歌を読むときのリズムも、現代人はビートとして読むようになった、と考えても、問題はなかろうとはいえる。
 つまり、近代短歌はもとより古典和歌だって、現代人は現代のリズムで読むはずだ。だって、生まれたときから、西洋音楽で教育され生活しているんだから、という理屈である。そういう前提にたって、短歌は2拍子だとか、いや4拍子だとかが、便宜上議論されてきている。
 この便宜上というのがクセモノで、議論するうちに、西洋概念の2拍子だったり日本古来の拍子感覚だったりと解釈されてきたというのが、これまでのリズムの議論といえる。
 で、とりあえず、西洋音楽の4拍子、すなわち現代人のビート感覚を前提に、短歌のリズムを議論しましょうとしたのが、別宮貞徳に代表される「短歌4拍子説」である。これは、現代人のビート感覚とはっきり言っていないけど、2音を1拍と数えた時点で、もう、現代人の感覚で議論を進めている。つまり、2音を1拍と数えようとするリズムの概念が、近代以前すなわち西洋音楽流入以前には存在しなかったのであるから、この学説は近代以降の西洋音楽流入後でないと提出できないのだ。
 それはともかく、この学説は、現代日本人のビート感覚で短歌をとらえようとしているので、現代人である私たちにはピンとくる説で、わりと受け入れられやすい。
 「短歌4拍子説」によると、典型的な短歌とは、次のような4分の4拍子の5小節でできているというのである。

 

♪♪♪♪♪・・・/♪♪♪♪♪♪♪・/♪♪♪♪♪・・・/♪♪♪♪♪♪♪・/♪♪♪♪♪♪♪・/

もがみがわ・・・/さかしらなみの・/たつまでに・・・/ふぶくゆふべと・/なりにけるかも・/

 

 </>で区切ったところが小節線であり、1小節に4分音符が4個分、つまり1句が4分の4拍子。「モガミガワ」の5音は8分音符が5個。つまり、1音に8分音符1個あてる。で、「・・・」は、休符。「モガミガワ・・・」は、♪が5個に8分休符が3個分と解釈する。ただし、必ず休め、というわけではなくて、「モガミガワ~~~」と「ワー」を伸ばしても、かまわない。とにかく、1つの句は、4拍子のビートを打っているという説なのだ。

 つまり、この「短歌4拍子説」のキモは、
・1音(あるいは1休符)を2個で、1拍と数える
・各句の拍数はすべて同じ4拍
 と、いうこと。
 こうやって短歌というのは、ビートを刻むのだというのが「短歌4拍子説」だ。

 さあ、この学説はどうだろう?
 一見、じつに分かりやすく、ストンと納得しやすいのだけど、事態はそんな単純ではない。(そんな単純なら、短歌の「調べ」の謎はとっくに解決している)。
 というわけで、こっから先が、本格的な検討になるのであるが、それは次回。
 来年も、続きます。