短歌の「調べ」について⑤

 前回からの続きである。
 堀田季何は言う。

 

 別宮貞徳等が提唱した短歌四拍子説はあながち間違いではないが、全句四拍子で作歌すると初句切れ・三句切れに誘導されやすく、発音すると五七は七五よりも不自然に感じられる。さらに、現代短歌は昔の歌よりも速めの速度(テンポ)で読まれる傾向にあり(昔の歌も、現代の歌人は昔の歌人よりも早く読む)、初句及び三句の時間は短く、終わりの音を脳内で四拍子にして作歌する人は少ない。
 現代の短歌は混合拍子、三拍子+四拍子+三拍子+四拍子+四拍子であろう。三拍子の初句及び三句の終わりに延長記号(フェルマータ)を付ける人がいるに過ぎない。短歌の定型感覚は、三四三四四の混合拍子に一八の音歩が対応した状態のことである。

カッコ内原文
堀田「前掲」

 

 最後の一文が堀田の「音歩」議論の結論である。
 短歌は、18の「音歩」で構成されている、ということだ。
 で、その「音歩」は「拍にどう乗せてどういうリズムにするかで変わる」というのは、すでに議論した通りである。
 この後、堀田は、春日井建の作品、

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
 
 を例示し、三四三四四の拍子分けして、18音歩にわける。すなわち、

「どう・てい・の/する・どき・ゆび・に/ふさ・もげ・ば/ぶだ・うの・みど・り/した・たる・ばか・り」

 である。

 要は、初句と3句を3拍子にして、「等時拍」で分解しているということだ。
 で、「音歩」の長短の組合せでいうと、初句「どう・てい・の」が、2音2音1音に分解できるから、初句は「短短長」で読め、ということなんだろうと思う。

 しかし、この議論では、なぜ「どう・てい・の」と分解されるのかの論述がない。「ど・うて・いの」じゃだめなのか。そりゃ、普通に読めば、「どう・てい・の」の3分割だろう、自明だろう、というかもしれないが、じゃあ、下句の「葡萄のみどり」はどうか。
 なぜ、「ぶだ・うの・みど・り」に分かれるのか。
これが分からない。私なら、ここは、そうは読まない。
 私ならは、ここは、「ぶだ・うの・みどり・〇」と読む。無論、「4拍子」の「等時拍」でである。すなわち「みどり」のところは、1拍に3音ぶち込むから、3連符となる。そのあとは1拍分の休符となる。当然、4拍である。
 私にとっては、なぜ、「ぶだ・うの・みど・り」が自明なのか、わからない。
 
 また、堀田は、春日井建の次の歌を例示して、次のように言う。

 

<大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき>の四句目は四音歩にしづらく、「おち・し・にち・りん・が」の五音歩を五拍子として句の四拍子と合せ、特殊拍子のポリリズムにした方が自然である。

堀田「前掲」

 

 四句目の「没ちし日輪が」が四音歩にしづらい、と主張するが、なぜ、しづらいのかの根拠は不明である。ここを、五音歩にして五拍子とする、というのも、わからなくはないが、わざわざ拍子感覚にこだわるのも、強引な話である。
 この四句は、韻律にとらわれずに、散文的に読み下したほうが、ずっと自然な感じがするがどうか。

 以上、「葡萄のみどり」と「没ちし日輪が」を俎上に上げてみたが、実のところ、これは、「音歩」の議論によるものではなく、すべて「四拍子説」の議論である。

 これまでさんざん議論した「短歌四拍子説」のキモを、もう一度、思い出してほしい。
 これだ。

・1音(あるいは1休符)を2個で、1拍と数える
・各句の拍数はすべて同じ4拍

 そういうわけで、堀田論考の「音歩」概念は、結局のところ「短歌四拍子説」を補説しているにすぎない、と私は読む。
 つまり、1つめの「1音(あるいは1休符)を2個で、1拍と数える」に「音歩」を当てはめたのだ。そうでなければ、なぜ、「みどり」を「みど・り」に分けるのかの説明がつかない。なぜ3音を1拍と数えてはいけないのかも分からない。すべては、4拍子説の枠内で議論をしているから、としか説明がつかない。
 また、「没ちし日輪が」の部分は、4拍子説で読めば確かに、拍に入らないから、ポリリズムにした方が自然である、という主張は、そもそも短歌を4拍子(堀田説では三四三四四の混合拍子説ということだが)で読む、という前提にたっているからであって、そうなるとポリリズムにした方が自然であるというのは、当然の帰結といえなくもない。
 そもそも四拍子説で読むからそういった小難しい説明が必要になるのであって、「没ちし日輪が」の字余りが、そんな難しい話なのかは微妙な感じもするのだ。

 以上、堀田の「音歩」の議論を検討したが、せっかく「音歩」というリズムの単位が提出されたのだが、私には、どうにも「4拍子説」に縛られてしまって、せっかくの西洋詩由来の「音歩」概念が生かしきれていない、感じがするのだ。