短歌の「リアル」⑤~文語短歌編

 前回までは、穂村弘の論考を参照しながら、<リアルの構造>について考えてみた。
 今回からは、また違った視点から<リアルの構造>について考えよう。
 なにも短歌は、「具体的」で「小さな違和感」を詠えばリアリティが担保される、というわけではない。短歌のリアリティとは、そんなシステマチックなことに集約されるというだけではない。
 それに、「具体的」で「小さな違和感」を描写すればリアリティが担保されるというのなら、それは短歌特有というわけではなく、たとえば俳句や短詩でも担保できそうである。あるいは、小説の技法としても使えそうなものだ。なので、この<リアルの構造>は、何も短歌に特化されているというわけではなく、広く表現形態全般にいえそうなものだ。
 そうではなく、短歌特有の<リアルの構造>というものは考えられないだろうか。
 短歌でよく言われるのは、作者の心情を一行の詩として、詠い切ることのできる詩型である、ということだ。それは時には、たった一行の詩に、作者の人物像や実人生までが読者には透けてみえる、という実感があったりもする。
 そうした、作者の人物像や実人生までが透けて見えるかような作品に、読者は、ズシンとしたリアリティを感じるのではないか。つまり、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するリアリティである。
 たとえば、こういう歌は、どうだろう。

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり
                   斎藤茂吉『つゆじも』

 この歌については、大辻隆弘が次のように解説している。

 作者である茂吉は、夕闇が迫る路上に立って、今、はっと我に返る。ああ、私はさきほどまで、海のありかを思いながら歩いていたはずなのに、いつの間にか、こんな夕暮れ迫る道の上にぼんやりと立ちつくしていたことだ……。私たち読者は、そんな風にこの一首のなかに我に返った瞬間の茂吉の気持ちを読み取るだろう。
 夕映えの紅が滲む海のありかを茫獏と想像する憧憬。その想像に心奪われて夕闇迫るまで、路上に立ちつくしていた忘我。そして、そんな自分の姿にはたと気づき自分の心の動きを顧みる自省。私たちはこの一首のなかに、茂吉の憧憬・忘我・自省といった内面性を感じることができる。そんな複雑な内面を抱えながら「今」ここに立っている肉厚で彫りの深い人物像を感じ取ることができるのである。

(大辻隆弘「多元化する『今』」『近代短歌の範型』六花書林

 たった一行の詩が、こうした深い内容をたたえているということに改めて驚くが、そのたった一行の詩を、ここまで分析できる大辻の筆力もすごいものだと思わずにはいられない。
 が、それはともかく、最後の一文に注目しよう。
 大辻は<そんな複雑な内面を抱えながら「今」ここに立っている肉厚で彫りの深い人物像を感じ取ることができるのである>と結んでいる。これは、一首から、作者の人物像や実人生が透けて見える、と私が主張したのと、ほぼ同意ととらえていいだろう。
 大辻の文章をかみしめて、もう一度、この茂吉の一首を鑑賞してみよう。どうだろう。だんだんリアルな歌になってきただろうか。
 さて、この歌で大辻は、<時制>に注目している。
 どういうことか。
 茂吉の歌を、もう一度みてみよう。
 この歌には、実は3つのできごとの記述がある。
 すなわち、

 海のありかを想像していた<わたつみの方を思ひて居た>とき、
 路上に立ちつくしていた<暮れたる途に佇>んでいたとき、
 そんな自分に気が付いた<けり>とき、

 の3つである。
 この3つがそれぞれの過去の事象として並列しているのではなく、それぞれ時間の経過を助動詞や助詞を使って一首にまとめているところが、この歌の大きな特徴なのだ。

 大辻は言う。

 このような精緻な時間の表現は西欧語の時制表現に極めて近いものだ。たとえば「て居たりしが」は「had been~ing,but」という過去完了進行形に、「佇みに」は「have ~ed」という現在完了形に置き換えることができる。この茂吉の歌には、英文法でいう過去完了進行形や現在完了形のような精緻な時制表現が駆使されており、それによって事象の生起が客観的な時間軸の上に整序されて表現されているのである。
 近代短歌が発明したのは、「今」という時間の定点に立脚したこのような精緻な時間の叙述法であった。茂吉を始めとした近代歌人たちは、万葉集由来の助詞や助動詞の機能を駆使しながら。このような客観的な時制を表現する精緻な技術を開発したと言ってもよいだろう。
「今」この瞬間に確かに生きながら、自分が体験してきた過去を同時に思い出す。体験してきた過去を背負いながら、かけがえのない「今」を生きる。近代短歌に登場してくるそんな肉厚で彫りの深い作者像は、このように時間の定点を一点に固定し、それ以前の時間を整序して表現する叙述法が生み出したものだったのである。
(大辻、前掲書)

 大辻の論述から、茂吉の歌の<リアルの構造>が抽出できよう。
 引用文の2つめの段落にある、<「今」という時間の定点に立脚したこのような精緻な時間の叙述法>、これが、どうやらカギのようである。
 茂吉の歌のように、3つの出来事の経過を1行に収めるには、<精緻な時間の叙述法>という技法の発明が必要であった。では、なぜ、そんな技法が必要なのか、というと、<「今」という時間の定点に立脚>するためだ。
 では、なぜ、「今」という時間の定点に立脚することが必要なのか、というと、それは、「今」のこの瞬間を確かに生きているという描写と、過去を思い出している描写、の2つが1行に表されていることで、<肉厚で彫りの深い作者像>が浮かび上がるため、といったところが、大辻の論旨になろう。
 つまり、読者からすると、一首の描写から、
・作者の「今」の瞬間の様子が分かる
・作者の過去の体験が分かる
の2つが読み取れると、どうやら、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するようである。
(次回に続く)