短歌の<私性>とは何か②

 前回からの続きである。

 この作品の分析を通して、短歌形式の<私性>ということについて議論をしているのだった。

 

 日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる

                      永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 この歌は、リアルタイムで中継をする「話し言葉/実況タイプ」ととらえてよいが、では、実況をしているのは誰だろうか。

 まず、日本の中でたのしく暮らしていたり、雪の中に手をさしいれたりしているのは、この作品の主人公だ。これを、短歌の批評用語では「作中主体」あるいは「主体」という。

 本Blogでも、「主体」という用語で、説明してきている。ようは、作品に登場する「わたし」ということになる。

 そうなると、その「主体」の心象や行為を実況しているのは誰だろう。というと、これは、新しい批評用語をださないといけない。けど、短歌の世界で、この実況者に対する用語は、共通認識として流通していないようだ。そこで、本稿では「話者」と名付けよう。

 この実況者は誰かという話題は、短歌の世界ではこれまで注目されていなかったが、小説の世界を連想すれば、古くからの話題といえる。いわゆる「地の文」で表されている「語り手」のことだ。小説世界では、一人称にしろ三人称にしろ、この「語り手」は分析対象あるいは研究対象となっていようが、短歌の世界では、どうも最近までは議論の対象にあがることはなかった。というか、必要とされていなかったのだ。

 なぜかといえば、近代短歌の世界では、「わたし」といえば、作者そのものだったから、いちいち用語を使って議論する必要がそもそもなかったのだ。

 

 例えば、<はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る>

の、わが生活というのは、石川啄木の生活であり、手を見ているのも啄木自身だ。それは、いちいち確認する余地はない。

 <瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>

だったら、藤の花をみているのは、正岡子規なんだから、わざわざ「主体」なんていう用語は必要なかった。

 これが近代短歌の読みの作法だった。

 こうした読みの作法をはっきりと転換させたのが、塚本邦雄に代表される前衛短歌だった。

 

雪の夜の浴室で愛されてゐた黑いたまごがゆくへふめいに

割禮の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ

銃身のやうな女に夜の明けるまで液狀の火藥塡めゐき

乾葡萄のむせるにほひにいらいらと少年は背より抱きしめられぬ

                   塚本邦雄『水葬物語』

 

 一首目。 菱川善夫『塚本邦雄の生誕』(沖積舎 二〇〇六)によれば、「黑いたまご」は女性器の喩、であるという。そして、それが「ゆくへふめいに」なったという結句より、この作品は、人間の深部にひそむ欲望の物語化、であるという。いずれにせよ、この作品が、塚本が浴室で女性器を愛している、その性愛場面を詠った、というようなエロスの歌ではないことは理解できよう。

 二首目も同様に、きらびやかな喩と強い物語性によって一首が構成されている。菱川は「無花果樹」が少年の聖なるペニスの映像を引き出している、ととらえ、旧約聖書のアダムとイブによる知恵の実の物語が喚起されるという。つまり、「無花果樹」は、ペニスの喩であり、また、旧約聖書へ喚起する物語性を備えたものでもある、というのだ。

 三首目、四首目も菱川は同様に読み解く。「液狀の火藥」は精液の喩であるとし、「背より抱きしめられぬ」からはホモセクシュアルへの物語性が導き出される、としている

 こうした、短歌作品の虚構性によって、「作品のわたし=作者」という構図は崩壊し、小説世界のような、作品の登場人物(「主体」)と「話者」による作品、という読みのモードが成立したのである。

 前衛短歌をくぐり抜けた今日では、短歌作品を読む場合、とりあえず、「主体」と「作者」はイコールではない、というのが、読みの作法となっている。

 すなわち、

<会うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月>と俵万智が『チョコレート革命』で詠っているとしても、俵万智本人が不倫しているかどうかについては、さしあたって読みの範疇にはいれない、というのが今日の読みの作法ということになる。

(そして、それは「一首は形式主義的に批評せよ」と主張する筆者にとっては、至極まっとうな作法といえるが、それは、また別の話題である)。

 さて、そういう読みの作法が前衛短歌運動以降、短歌の世界で浸透していくなかで、ようやっと最近「話者」という観点が批評のなかで話題にあがってきた、ということだ。

 冒頭に提出した永井の作品では、日本の中でたのしく暮らしていて、雪に手をさしれようとしている、または、さしいれているのは、この作品の主人公の「主体」ということになり、その状況を、実況しているのは「話者」ということになる。

 同様に、前回提出した堂園の作品、<震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる>で、繰り返しダンスをしたり、繰り返し君と煮豆を食べているのは「主体」であり、その「主体」の行為を実況しているのは「話者」だ。

 同様に前回提出した初谷の作品、<イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く>で、きみと一緒にイルカショーを見ているのは「主体」であり、イルカショーやきみの動作をリアルタイムで実況しているのは「話者」である。

 

 と、ここまで話を進めたところで、次にこの問題を提出しよう。

 じゃあ、「作者」はいったい誰なのだろう?

 と、いえば、この「話者」の実況を<叙述>している人物ということだ。

 小説の「地の文」の「語り手」が「作者」とイコールではないのと同様、短歌作品の「話者」が「作者」とイコールではないのである。

 「作者」はあくまで、作品を<叙述>している人間だ。

 歌は<詠う>ものではない。<叙述>するものなのだ。

 さあ、ここの理解ができれば、話はさらに進めることができるのだが、今回は、かなり沼に潜った感じがするので、この先は次回にしよう。