短歌の<私性>とは何か③

 前回までに、3つの批評用語がでてきた。「主体」「話者」「作者」の3つだ。これは、今日の短歌批評では別人である。

「主体」は作品の中の<わたし>。小説でいえば「主人公」。

「話者」は作品の中の語り手。小説でいえば「地の文」を語っている人。

「作者」は作品を<叙述>する人。小説も同様。

 

 「近代短歌」はこの3者はイコールだったが、現代口語短歌はこの3者が別人なので、この点を理解しないと現代口語短歌の批評ができない、ということになる。

 と、ここまで進んだところで、次の問題は、これだ。

 

 では、作者は、作品をどこで<叙述>しているか。

 これを考えてみよう。

 前回まで永井の作品をえんえんと分析してきたから、今度は、違う作品にしよう。

 分析して楽しい気持ちになるような瑞々しい相聞がいい。

 

 イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

              初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 そういうわけで、この作品。

 これまでの議論を踏まえて、この作品を分析するなら、この作品は口語短歌の、リアルタイムで中継する、「話し言葉/実況タイプ」だ。

 「主体」は、イルカが飛ぶのを見て、続いて、落ちるのをみる。そんなイルカショーを君と見ているときに、君が何も言っていないのに、主体のほうを「ん?」て振り向いた、という場面だ。これを、「話者」が実況しているということになる。

 では「作者」は何をしているか。と、いうと、作者は、この作品を<叙述>している。では、どこで<叙述>しているか、というと、それはPCの前でキイを叩いてるんだろう。いまどき、書斎で万年筆を握って原稿用紙の前、ということではないだろう。

 少なくとも、イルカショーの席で君の隣に座っていないことは、明白である。

 いいだろうか。イルカショーの現場に「作者」はいない。いるのは「主体」だ。

ちなみに「話者」は、というと、「主体」とほぼ同じ位置にいると思われる。

 提出した作品は「話し言葉/実況タイプ」の作品だから、「主体」のすぐ近くに「話者」はいるし、「主体」が動けば、「話者」が追いかける、ということになる。そうしないと実況ができない。

 では、この「主体」「話者」「作者」の3者の関係、これ、「近代短歌」だったら、くっきりと分けることができるだろうか。

 正岡子規ならどうだろう。

<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>

 藤の花を見ているのは「主体」。その藤の花について語っているのは「話者」。それを叙述しているのは「作者」。ということになるのだが、どうも、「主体」の「話者」の区別が、イルカの歌ほどはっきりしない。藤の花を見て写生しているのは、「話者」だけど、その藤の花を見ている視線は、「主体」と「話者」で一致しているといえるかもしれない。

 あるいは、「話者」と「作者」の区別がつかない、という意見も成立しそうである。<叙述>しているのは「作者」に違いないが、その叙述内容は、「話者」の写生と寸分違わない、といえそうだ。

 なぜ、イルカの歌と比べて、藤の花の歌は、「主体」「話者」「作者」の区別がはっきりしないのか。

 と、いえば、時間の経過が見えないせいだろう。つまり、イルカの歌には、イルカがとんだりおちたり、君が振り向いたりと、時間の経過がわかる。時間にすれば十数秒かもしれないが、一首に時間がながれている。まさしく、実況ができる。

 けど、子規の藤の花の歌は、時間の経過はさしあたってない。だから、実況ができないので、三者の区別がつきにくいのだろうと思う。

 このことは、小説世界をイメージするとわかる。小説世界は、ストーリーを展開させていく以上、時間の経過について叙述するのが当たり前だから、「主人公」「語り手」「作者」の区別はつくだろう。

 しかしながら、小説の世界にも、情景描写のようなストーリーが前に進まない場面がある。こういう部分では3者の区別が曖昧になろう。というか、そでの「主人公」の動作は叙述していないだろう。そうした叙述と、藤の花のような写生の作品とは似ているだろう。

 

 ところで、時間の経過といえば、以前に、次の2作品を比較したことがあった。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり

                  斎藤茂吉『つゆじも』

 永井の作品は、典型的な実況型だ。「主体」はたばこの灰で字を書こうとしたり、おもいつかなかったり、こすりつけようとしたりしている。その「主体」の心の動きを、「話者」はその場面場面について実況している。そして、「作者」は自宅のPCの前で、打ち込んでいる、ということになる。

 一方、茂吉の作品もまた、「主体」は、海の向こうを思ったり、暮れた道に佇んでいたりしている。その様子を「話者」が語り、その語りを「作者」が叙述している、ということになる。

 やはり、時間の経過が感じられる作品は、3者の区別はつきやすいように思われる。

 つまり、こうした時間の経過型は3者の区別は容易だが、一瞬の切り取り型になると、3者の区別はつきにくい、といえるのではないか。

 とりあえず、そうした仮説を提出して、次回、また話を進めていこう。