短歌の<私性>とは何か④

 前回からの続きである。

「主体」「話者」「作者」の3者の批評用語で、短歌の読み直しをしていたのだった。

 この3者を出すことで、これまでの現代短歌が、また違った様相を示すようになる。

 

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて 

                       穂村弘『シンジケート』

 

 穂村の初期の代表歌といえるだろう。この作品は下句の<降りますランプ>に注目が集まってしまっていたが、今回は、上句の<ふたりは眠る>のところを注目しよう。

 この作品は、「話者」の存在を持ち出さないと読めない。

 たとえば、この作品を、次のように変えると、分かりやすいだろう。

 

 終バスにあなたと眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて  改作

 

<ふたりは眠る>を<あなたと眠る>に変えてみた。

 この改作であれば、「話者」の存在がなくても、これまでの「作者」と「主体」の2者でこの作品(改作)の説明ができた。つまり、「主体」は<あなた>と終バスの<降りますランプに取り囲まれて>眠っている。その状況を「作者」は叙述しているのである、といった感じだ。

 しかし、原作のように、<終バスにふたりは眠る>だとそうはいかない。ふたりが眠っている、ことを認識している第三者の存在、すなわち「話者」の存在が必要になってくる。「話者」の視点を「作者」が叙述している、ということにしないと、この作品は説明ができない。

 つまり、この「話者」の存在を認めることで、はじめてこの作品は鑑賞できるのだと思う。

 

 けど、この作品は、1990年の『シンジケート』に入っているものだから、もう30年も前の作品だ(初出は不明)。そして、現在でも穂村の初期の代表歌といわれているのだけど、この「話者」の視点については、これまで突っ込んだ議論はされていなかったんじゃないか、と思う。

 で、それはどうしてなのか、というと、短歌の世界ではこれまで「話者」という概念は存在しなかったからではないか。少なくとも、自明の存在だったとは思えない。存在しなかったのだから、議論されなかったのだと思う。

 

 さて、これまでの4回にわたった「私性」の議論を、ここで一度まとめよう。

 短歌の「私性」とは何か。という問いを立てて、これまで議論してきたけれど、乱暴にいって「近代短歌」の「私性」というのは、「作者」そのものであった。

 たとえば、子規の作品の<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>なら、藤の花をみているのは、子規本人であった。そこには、「主体」なんていう概念は存在しなかった。存在していないのだから、議論しようがない。つまり、「近代短歌」の「私性」というのは「作者」ということで、すべては了解されてきて、批評されてきていた。

 しかし、時代が進むにつれて、どうもこれだけでは、短歌の「私性」が説明できないということになった。そのエポックは、戦後の前衛短歌運動だ。

 塚本の作品にでてくる「われ」(その頃はまだ「主体」という概念は存在していない)を「作者」とすると、どうにも説明できないという事態になった。どうにも説明できなかったので、はじめの頃、塚本は相手にされなかった。けど、時代が進むにつれ、何とか説明しようとあれこれ作品批評が生まれ、塚本自身、評論の場でも短歌の世界を更新しようと試みた。現在、この当時の「私性」を分かりやすく述べたと認められているのが、以前にも引用した、岡井隆の有名なテーゼだ。

 

短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 このテーゼによって、前衛短歌で拡大された「私性」というのものが、いったい何だったのか、私たちは理解することができるようになった。

 すなわち「作者」ではない、作品の「われ」の存在が可視化されたのだ。その後、80年代後半のニューウェーブでの議論のなかで、「主体」という言葉が使われるようになり、この作品の「われ」というのが、すなわち「主体」という批評用語として定着していった。

 こうして、短歌の「私性」が「作者」だけから、「作者」と「主体」の2つになった。

 しかし、さらに時代を進めて、現代口語短歌となると、「作者」と「主体」の2つでも説明がつかない短歌が出現するようになり、そこで、3つ目の「私性」である、「話者」が、ここ最近、批評用語としてしばしば持ち出されてきたのではないか、というのが私の見立てである。

 この、「作者」と「主体」の2者だけでは説明ができない作品、というのは、今回掲出した穂村の<終バスにふたりは~>がそうだし、これまで議論してきた、いわゆる「話し言葉/実況タイプ」の歌がそうだ。

 これらの歌は、一読、おかしな日本語を使っており、それは結句の「現在形」終止が端的なのだが、そうしたおかしな日本語も「話者」の存在を出すことで説明が可能ということは、これまで議論した通りだ。

 また、なぜ、現代口語短歌は、そんな「話者」の存在が必要となる作品になっているのか、という問いについては、おそらく<リアリティ>を出すためにそうした叙述になっているのだろう、ということを仮説として提出している。

 

 そういうわけで、短歌の「私性」とは何か、という問いについて現時点で回答するならば、

「主体」「話者」「作者」の3者によるものであり、この3者はそれぞれ別物である、ということになるだろう。

 

 さて、ここから先は蛇足になるが、これまでの短歌批評は、「作者」批評や「主体」批評が中心であった。

「作者」批評というのは、一首とりあげて、この歌はどういう意図で作られているのか、とか、作者の心情はどのように歌に表れているか、といった批評だ。

「主体」批評というのは、歌の内容についての批評であり、主人公の行為や心情について批評するというものだ。

 こうした「作者」中心型、「主体」中心型、あるいは2つ合わせたミックス型、というのがこれまでの批評の中心だった。

 それはそうで、「話者」という概念は、ついこの前まで短歌の世界には存在していなかったのだから。

 けれど、そろそろそうした「作者」型や「主体」型ではなく、「話者」型で批評するべきだというのが私の主張で、それは、これまで私が、ずっと言い続けてきた批評、すなわち「一首評は形式主義的批評であるべき」ということと一致しよう。

 つまり、一首評については、「作者」のプロフィールや心情は取り上げない、「主体」の行為や心情の是非についても批評しない、もっぱら「話者」の語り方についてあれこれ批評する、そうした形式主義的な批評のほうが、短歌の批評は生産的であろうと考えるのだ。

 だって、短歌も詩歌文芸なんだから、統辞や修辞を批評せずしてどうするの?、と思うのだ。