短歌の<私性>と<リアル>①

 さて、「私性」についてのお喋りであるが、今回からは、また違った視点から議論していきたい。

 今回からは、読者側ではなく、もっぱら作品を作る側、つまり作者側からの視点で「私性」を議論してみよう。

 

 なぜ、口語で歌を作る歌人は、文語ではなく、口語で歌を作るのだろうか。

 と、いっても別に口語歌人にインタビューしたわけではないから、憶測であれこれ考えるしかないのだが、口語は文語に比べて圧倒的に詠いにくいことは間違いがない。

 とにかく韻律に乗ってくれない。あの文語の朗々とした詠いぶりをみよ。言葉が伸びやかに韻律に乗る。というか、5音7音に乗ればそれでもう歌となっている。

 それに比べて、口語のだらしなさといったらどうだろう。何とか5音7音の定型にはめたと思ったら、逆にはまりすぎて、安っぽい交通標語みたくなってしまう。そこで、仕方なく、句跨りや字余りで、わざわざ韻律を屈折させてねじれさせたりする。文語の伸びやかさと対極だ。

 それでも、口語で歌を詠うのはなぜだろう。というと、やはり文語ではしっくりこないんだろう。韻律をさっぴいても、口語じゃないと、ダメなんだろうと思う。

 このしっくりこない感じというのは、要は、<わたしの歌>としてしっくりこないんだろうと思う。文語は、借り物の言葉というか、<わたしの想い>を表現する様式と認められないんだろうと思う。<わたしの想い>を<わたしの言葉>で<わたしの歌>にするのは、文語じゃなくて、口語なのだろう。そうじゃないと、なんで、わざわざ口語で詠うのか説明がつかない。

 

 じゃあ、その口語で一体何を詠いたいのだろう。

 歌を詠うというのは、<わたしの想い>を短歌形式にのせたい、というのがプリミティブな作歌の動機だろう。

 そうでないと、こんな情報量の少ない、形式を選択するのが分からない。

 散文や現代詩と比べて、短歌形式は圧倒的に言いたいことが限られている。

 多分、何かを存分に伝えたいことがある人は、散文の世界に行っていよう。そこで、エッセイで存分に語り、あるいは、小説世界で、自分のアタマの中でこしらえた世界のあれこれを語ることだろう。

 短歌で存分に語ることは物理的に無理だ。小さいことを、ちょっとした心の揺れ、そんな日常で感じる揺れを詠うのが、短歌にはちょうどよい。

 で、そんな日常というのは、当然ながら作者本人の日常ということになる。そうした、日常にある題材で<わたしの想い>を詠うのが短歌にはちょうどいい。

 

 と、ここまで話を進めたところで、実際に、作品をみていこう。

 現代口語短歌で<わたしの想い>をストレートに詠う、というなら、こうした作品がある。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                          今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                           脇川飛鳥

 

 短歌作品といわれなければ、ただのモノローグ、とでもいわれてしまいそうな作品である。

 口語短歌文体で<わたしの想い>を詠う、もっとも原初的な形といえるかもしれない。

 本来であれば、こうした心の中のつぶやき、すなわち、モノローグから、いかにして短歌にしていくか、というのが、歌を詠む、というものだったはずだ。つまり、この<わたしの想い>を、短歌にしていくのが歌作だったろう。5音7音にはめて、韻律に乗せる作業、と、もう一方で統辞や修辞を施して、ただのモノローグを詩的芸術へと高めていくという作業、という2つの作業をやっていくのが歌作、すなわち歌を詠む、というものだったろう。

 しかし、この2つの作品は、そうした作業をすることなく、原初的な<わたしの想い>のまま、短歌として提出している。

 

 穂村弘は、こうした定型から外れた作品を「思いに対して余りにも等身大の文体」として、「棒立ち」と名付けた(「棒立ちの歌」『短歌の友人』河出書房新社)。

 自分の感情をそのままモノローグするのであれば、定型への意識は遠くなり、破調が当たり前となる。そのうえ、これまで短歌が積み上げてきた、短詩型でいかに修辞や統辞を施して詩歌としての芸術性を高めるか、といったベクトルも捨て去ることになる。これを穂村は、「短歌的武装解除」と呼んだ(前掲書)。つまり、ありのままの<わたしの想い>を言葉にしたら短歌になったという風をとるこれらの作品は、これまで短歌が積み上げてきた技法、すなわち、句またがり、対句、反復、体言止め、比喩など、を捨て去ったのだ。

 

 これらの作品を、「短歌以前」として一蹴することは可能であろう。しかし、逆に、こうしたストレートに<わたしの想い>をそのまま歌にしたことで、読者に強烈なインパクトを与えている、ということもいえよう。

 ただ、読者としては、これらの作品にインパクトはあるのは認めるものの、作品の完成度という点でみると、ちょっとなあ・・・、というのが大方の感想ではないかと思う。

 

 では、こうした作品について、作者側の視点で考えてみよう。

 なぜ作者は、こうした原初的な<わたしの想い>を、短歌的な作業を施さずに、完成した作品として提出したのだろう。

 

 つまり、こうした、心のつぶやきというのは、そのままでは作品の完成度しては決して高くないことは、作者も分かっているはずである。普通だったら、この<わたしの想い>を、韻律に乗せて、それから、統辞や修辞を施して、短歌らしくして作品として完成させていく、というのが歌を詠むという作業となる。しかし、そうした、作業をせずに、<わたしの想い>をそのまま作品として提出してしまっているのはなぜか。

 もしかしたら、こうやって提出したほうが、読者にインパクトを与えるに違いない、と作者は思ったのかもしれない。けど、そんなのは歌作の主理由たりえない、というのが、残念ながら、文芸ジャンルとしての短歌形式だ。

 もし、読者にインパクトを与えたいというのが動機だったとしたら、それは、もっと違う文芸でやったほうが、その望みはかなえられよう。

 そうではなく、短歌形式が積み上げていた、5音7音の美しい調べとか、統辞や修辞を施した短歌技法を捨て去ってまで、あえて原初的なままで作品として提出しているのは、なぜなのか。

 これを、次回、考えてみたい。