短歌の<私性>と<リアル>②

 前回とりあげた作品はこれだ。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                        今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                        脇川飛鳥

 

 これら作品について、次のような論点を提出した。

 すなわち、

 なぜ、作者は、こうしたモノローグである<わたしの想い>を、あえて原初的なままで作品として提出しているのか。

 と、いう点だ。

 

 短歌作品である以上、いかに韻律を整えるかは重要である。定型を目指すことは当然として、定型におさまらなくとも、定型意識というか、定型におさめられるようにする努力の痕跡が作品にあることが定型詩には必要だ。短歌と一行詩の違いは、当然ながら、定型意識と、そこから必然的に沸き立つ韻律感である。これが感じられれば、短歌として完成度は高まるし、韻律に乏しい歌は、どうしたって評価はされない。

 もう一つ、短歌作品である以上、いかに統辞や修辞を施すかという点も重要だ。短詩型であればこそ、その少ない言葉に張り付いているコノテーションから詩情を感じ取り、言葉と言葉をつなげる統辞の妙や多種多様な修辞技法から、歌の情感を味わい尽くすというのが、短詩型文芸である短歌鑑賞の醍醐味であろう。

 と、短歌作品の歌作についての重要点を2点あげたが、提出した今橋と脇川の短歌作品からは、残念ながら、韻詩文芸である短歌が短歌として拠って立つ必然性が感じられない。

 と、いうより、あえてこの2つを捨て去っているかのようである。韻律も修辞も意識せず、ただ<わたしの想い>をそのまま書き連ねたような体裁をとっている。定型と格闘した痕跡はない。というより、あえてそこの痕跡を消しているかのようだ。

 つまり、あえて定型への格闘の痕跡をこのさず、また、あえて統辞や修辞を施さず、そのまま即詠のような体裁をとっているのだ。

 では、なぜ、そうした原初的というか短歌の原型のようなものをあえて完成品として提出しているのだろうか。

 

 この問題を考えるときに、<リアリティ>というキーワードで考えてみたい。

 歌人にとって<リアリティ>とは何だろう。つまり、リアルな<わたしの想い>を表現するには、どうやって歌を詠ったらいいのだろう。

 おそらく、パッと心に浮かぶ<わたしの想い>というのは、普段使っている日常の言葉だろう。掲出歌でいえば、<わたしをみつけてくれてありがとう>とか<嫁に行きたくてたまらん>とかといったものだけど、普通は、そうした普段使う言葉で<わたしの想い>を言葉にするだろう。日常的に文語を使った言語生活をしていない以上、文語体ということにはならないだろう。そして、そうした日常の言葉、すなわち口語というのは、どう考えたって定型にはなっていないはずである。自由な散文型の<わたしの想い>のはずだ。

 つまり、リアルな<わたしの想い>を言葉にするのなら、それは口語で自由に呟かれているものになる。であるならば、そもそもそれは、定型あろうはずがないし、統辞や修辞といった詩的な修飾も施されているわけがない。

 そして、そうした<わたしの想い>をそのまま作品とした、という体裁ととっているのが、今橋や脇川の作品、といえるのではないか。

 

 であるから、提出した問題、すなわち、作者は、こうしたモノローグである<わたしの想い>を、なぜ、あえて原初的なままで作品として提出しているのか、の答えとしては、

 

 <わたしの想い>をリアルに表現しようとしたら、必然的に短歌的な韻律や修辞を捨て去ることになった、と、いうような体裁の作品にしたため

 

 ということになるだろう。

 

 では、このような作品は、短歌作品としてどのように評価できるであろう。つまり、短歌作品として良いか良くないか。

 と、いうと、私は否定的である。

 やはり、こうした作品は短歌というには私は手放しでみとめられない。

 韻詩文芸である以上、定型意識のないものは韻詩とはいえないのではないか、というのが、私の意見である。

 じゃあ、短歌に定型がある以上、リアルな<わたしの想い>というのを、短歌で詠うことは無理なのだろうか。

 と、いうと、最近はそんなこともないだろうとは思っている。

 そういうわけで、最近の作品をみてみよう。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                        田口綾子『かざぐるま』

 

 この作品も、今橋や脇川と同様に、一首まるまるモノローグで作られている。すなわち<わたしの想い>のつぶやきをそのまま歌にした、という体裁をとっている。

 けれども、この韻律の深化はどうだろう。しっかり定型におさめようとする痕跡がはっきりと認められよう。ぴったり定型の音数を句またがりでつなげて、結句七音できちんとおさめている。下句の句またがりの屈折した調べが歌と共鳴しており、修辞への配慮も感じられよう。「棒立ち短歌」からの決別といえると思う。

 リアルな<わたしの想い>をこのように表現することができるところまで、現代口語短歌は成熟してきていることを、ここで確認したうえで、次に進むことにしたい。