<抒情>のしくみ⑦

 今回も、道券はな「嵌めてください」50首(第66回角川短歌賞受賞作品)のなかから、いくつか取り上げて、現代口語短歌の<抒情>の最前線を、みていくことにしよう。

 

 改札にPiTaPaをあてるこちらからくちづけをするような硬さで

 暑苦しい乳房(ちぶさ)を脱げばさえざえと硬貨のようないのちが残る

 スポンジに洗剤を足す満ち潮があなたの過去を濡らすあいだに

 皮膚いちまい隔てて触れるあなたには濁流がただとどろいている

 空調に耳をすませばあなたとは闇からそっと伸びてくる腕

 目を嵌めてください他人(ひと)のまなざしを受けて川面のようにかがやく

 

 1首目。2句切れの倒置。自動改札機にPiTaPaを当てた感触を独特の比喩で表している。さほど難しい事柄を詠っていない作品というのは、実は、韻律面に仕掛けが施されているものだが(例えば、パッとわかるのはK音とT音の優位性、そこから破裂音特有の律感の分析へと続けると面白い感じがする)、今回ははぶく。

 今回は、修辞、なかでも比喩表現を中心に、テクスト分析の手法を用いて作品を読み解くと、これまでの短歌の作品分析とは違った様相になるのではないか、という期待のもと、すすめる。

 さて、作品に戻ると、そのピタパを当てた感触と比喩表現が読者の共感を得られれば、歌としては成功したということになろう。こちらからくちづけをする状況とピタパを当てる状況は、比喩としてはピッタリしていて、分かりやすすぎるきらいがあるので、結句に「硬さ」という、穏便な<コロケーションのずらし>を持ってきたともいえる。ピタパを移動改札機に当てるのは「硬い」だろうから、ずらしていはいないが、こちらからくちづけをするのは「硬い」というのは穏便なずらしといえよう。普通にとらえれば、唇の感触が「硬い」ということになるのだが、なぜ、こちらから唇を当てると硬いのか、そこは、読み手がイメージを広げるしかない、ということになっている。唇の感覚が「硬い」のであって、<主体>の気持ちが「硬い」とは、このテクストからは読み取れないので、そう読まないほうがいいと思う。

 とにかく「つちづけをするような硬さで」の直喩をしっかり味わって<抒情>できれば、この作品は成功したといえよう。

 2首目。「乳房を脱ぐ」が隠喩であり、<コロケーションのずらし>。女性性を押し出した喩であり、近年であればジェンダーの論点から、批判的に受け取られるかもしれない。ただし、テクスト分析では、そうした社会学的視点は一切、分析指標に入れないのが作法となっている。基本的には、テクストだけを分析する。タブーを詠おうとも、差別を詠おうとも、そうした背景には、社会的文化的歴史的の要因からきているので、テクスト分析にはなじまない。別の視点での分析手法ということになる。

 それはともかく、「乳房を脱ぐ」。これは「乳房」の<コノテーション>に信頼した表現ということになるだろう。ありていに言えば、凡庸で常套的なエロスといったところか。他の人ならもっとウマく、このコノテーションを掬えるかもしれない。

 そんなありきたりなエロスをやめたら、「硬貨のようないのちが残」ったという。この比喩は飛躍しすぎていて、突き詰めても分からない。おそらくは硬貨の質感や大きさのイメージを期待しているのかなとも思うが、こういう比喩は、分かったような解釈をしないほうがいい。一方で、分からないといって否定もしないほうがいい。飛躍しすぎてテクストとして解釈不能である、としたうえで、各々が、その解釈できないテクストを味わうというのがいいと思う。分かったふうもしなくていいし、分からないからといって否定もしなくてよい。

 ただし、一首全体が、解釈不能であれば、それは支離滅裂のただのふざけた日本語のつながりに過ぎないので、これは、否定するしかない。けど、テクストの一部分である比喩が解釈不能というのは、短歌作品としては許容できると思う。なぜならば、他の部分が解釈の余地があるのであれば、その部分との整合性を確認することは可能と思われるからだ。また、韻詩であるから、韻律からの分析もできるので、一部分が解釈不能であるからといって、テクストを否定する立場はとらないほうがいいと思う。

 ちなみに、テクスト分析では、テクストに誤りがある、とか、瑕疵があるとかといった想定はしない。そんなことを言い出したら分析できないので、分析対象に誤りがあるという立場はとならい。

 そういうわけで、2首目は、上句の身体性の隠喩に共感をしつつ、下句の飛躍した比喩については、各々がイメージを広げて味わうしかないようである。3句目の「ひえびえと」のオノマトペも分析すると面白い感じもするが、ここでははぶく。

 3首目。2句切れの倒置。「満ち潮があなたの過去を濡らしている間に主体はスポンジを濡らす」ということ。「満ち潮が過去を濡らす」というのが隠喩であり<コロケーションのずらし>である。過去は濡れない。過去はせいぜい、しまっておくものくらいだ。そして、「満ち潮」。これが、分からない。こういうのを、分かったように、二人との「満ち足りた心情」の隠喩ととらえ、「過去のカサカサの風化したような出来事を、蘇らせてみる」なんていうような、テクストから読み取れないことを想像力豊かに解釈しないほうがいい。解釈してもいいけど、それは分析ではなく鑑賞の範囲である。そして、その鑑賞が他の人の賛同を得るかどうかは分からないし、そんな議論をすると、どんどんテクストから離れていくので、やっぱりやめたほうがいい。

 ここは、「満ち潮」のコノテーションで、「あなたの過去」のイメージをつかむというところまでで、あとは、読者の受け取り方に委ねられているのであろう。うまく、イメージをつかむことができれば、良い作品ということであり、つかめなければそうじゃない作品、ということになるのだと思う。

「スポンジに洗剤を足す」の入りで、作品全体が水のイメージで統一されており、満ち潮、過去を濡らすと連なっている。なので、初句のスポンジからの入りは、良い構成と思う。イメージが連鎖する倒置法は、きわめて高度な技法といえよう。

 4首目。上句の「皮膚いちまい隔てて触れる」をどう評価するか。皮膚と皮膚を重ねることを、「触れる」というだろうか。私は、ここは<コロケーションのずらし>が成功した部分とみる。「皮膚が触れる」というのは、日本語として新鮮な感じがする。「指に触れる」とか「肌に触れる」とかが、の日本語の<コロケーション>だと思う。なので、「皮膚に触れる」という表現は、詩歌としてはうまい喩法と思う。しかしながら、「皮膚いちまい隔てて」の表現は危うい。「皮膚を隔てて触れる」が正しいと思うが、この「いちまい」の表現を許容するかどうか。

 それはともかく、人には皮膚を隔てて触れている、という発見は、面白いといえる。そして、実際触れてみたら、「濁流がただとどろいてい」た。これは、隠喩。何の隠喩かは読者に委ねられている、という手法。これも、「濁流」を分かったような解釈で読み解こうとしない方がいい。あくまでも「濁流」から受ける<コノテーション>の範囲で、テクストから離れないで解釈するほうがいいと思う。「濁流」をあなたの内面のほとばしる感情と受け取りたいところであるが、そこまで受け取るには短歌は短すぎるし、この作品には、そこまでの説得力はないというのが、私の立場だ。だから、この喩が成功しているかどうかは、評価が分かれるのではないか、と思う。なお、この「濁流」の語句の選択については、韻律上の処理の面からの分析も必要であろう。

 5首目。空調に耳をすましていたら、あなたの腕が私に伸びてきた。という、状況を詩歌に昇華させた一首。2つの事柄を一首にまとめているのは、掲出歌でいうと、3首目と同様。ただし、こちらは倒置ではないので、よりすっと言葉が流れている。あまり流れ過ぎるのも詩歌としてはよくないので、結句を省略プラス体言止めにして、流れをすっととめている。ここの省略は、「そっと伸びてくる腕だ」とか「そっと伸びてくる腕だった」とか、の「だ」や「だった」の省略ということだろう。なので、「腕」が「あなた」そのもの、ということだ。提喩といえば、そうかもしれない。「そっと伸びてくる腕」という省略法でうまく<抒情>できたら、この作品は成功ということになる。

 6首目。50首連作の最後の作品。タイトルにした一首。こちらも、2句目の句割れの倒置。「他人のまなざしを受けて川面のように輝く目を嵌めてください」ということ。主体が、あなたに、目を嵌めてください、とお願いしている、という状況。この作品に限ったことではないが、これは50首連作なので、50首全体の構成から、「目を嵌める」という隠喩表現をみたほうがいいのだけど、今回は、作品をテクスト分析する試みなので、この一首だけをみて分析している。

 どのような目か、というと、川面のように輝く目、という比喩になっており、この喩は、イメージしやすいだろう。ただし、そのような輝きは、他人の眼差しを受けることで輝くのだという。ここが、ややこしい。まなざしを受けることで輝く目という、このややこしさを受け入れることができれば、高く評価できる作品といえるのではないか。

 また、「目を嵌める」は隠喩だが、<コロケーション>としては、ずれてはいないだろう。人形であれば「目を嵌める」とは言えるであろう。であるから、<主体>は人形のような受け身の状態であなたと対峙している、という状況として作品を構成した、ということはいえるであろう。

 

 ということで、ここまで。

 

<抒情>のしくみ⑥

 前回、<オノマトペ>についてお喋りをしてしまったために、何か寄り道をした感じになってしまったが、もともとは<抒情>がテーマであった。

 <抒情>の仕組みについて考えていたのだった。<抒情>の仕組み、そのメカニズムを考えようとしていた。

 前回までは、そのメカニズムを解明するひとつとして、<コノテーション>をとりあげた。詩歌のなかには、<抒情>する「言葉」があるのではないか、という仮説をたてて、その理由として<コノテーション>という修辞法があって、これが<抒情>させる用法なのではないか、ということを議論した。

 今回は、もうひとつの<抒情>の仕組みとして<コロケーション>の用法を取り上げたい。

 <コロケーション>とは何か。

 これは、平たくいえば、「言葉」と「言葉」のつながり方の慣習みたいなものである。

 と、説明したところで、これでは何を言っているかさっぱりピンとこないので、実例を示す。

 わかりやすい例としては、「将棋を指す」では、「将棋」と「指す」は<コロケーション>といえる。「将棋をする」といっても誤りではないが、普通の日本語なら、「将棋」は「指す」ものだ。同様に、「囲碁を打つ」は「囲碁をする」でも誤りではないが、普通、「囲碁」は「打つ」だ。では「相撲」は? というと、「相撲をする」ではなくて、「相撲をとる」というのが普通の日本語のつなげ方となる。ただし、「相撲をする」でも誤りではないので、「相撲をとる」が絶対正しい、と言うわけではなく、そういう慣習に日本語はなっている、ということだ。これが<コロケーション>、すなわち、「言葉」と「言葉」のつながり方の慣習みたいなもの、だ。

 こうした<コロケーション>は、ほかにもいろいろある。「傘」は?というと、「傘を使う」でも誤りではないが、「傘」といえば「さす」ものだろう。これが<コロケーション>。「ピアノ」は、「演奏する」ではなく「弾く」もの。「いびき」は「する」ものではなく「かく」もの。

 今のところは、「モノ」と「動作」の組み合わせの例をあげているが、他の組み合わせの<コロケーション>もある。が、今しばらくは、「モノ」と「動作」の組み合わせで議論を進めていこう。

 さて、こうした<コロケーション>であるが、これを意図的に「ずらし」て表現することもできる。

 例えば、「鳥がさえずる」ことを「鳥が歌う」と表現することは可能だ。「森が静か」な状態のことを「森は眠る」と言うこともできる。「風が吹く」を「風が誘う」とか、「短歌を鑑賞する」を「短歌を味わう」とか、いくつもある。これは、<擬人法>と呼ばれるものだ。「モノ」を「人」に見立てる表現といえるが、これまでの議論を踏まえるならば、「モノ」の「人の動作」のように「ずらし」て表現している、<コロケーションのずらし>ととらえることもできる。

 これを言い換えると、<コロケーションのずらし>というのは、<擬人法>のような、比喩法のひとつ、ということだ。そして、なんで、そうした比喩を使うのか、といえば、そうすることで、何らかの詩的効果が得られるから、ということになる。じゃあ、その何らかの詩的効果というのは何か、というと、それが<抒情>ではないか、というのが、ここからの話題だ。

 すなわち、<抒情>の仕組みとして、<コロケーションのずらし>という修辞用法が有効ではないか、というのがしばらくの話題となる。

 <コロケーションのずらし>という修辞用法が分かってきたところで、では、実際に作品を分析していくことにしよう。

 対象とするのは、今年度の第66回「角川短歌賞」受賞作品、道券はな「嵌めてください」50首作品より(角川「短歌」2020年11月号)。この50首には、現代口語短歌の修辞法、なかでも喩法がふんだんに使われている。

 

路地裏に探しあぐねる饒舌に匂うばかりの金木犀

キャプションに添えられている英訳は切り立つ崖のようにすずしく

足音というには繊(ほそ)い音を立て踵にひたと触れてくる影

 

 1首目。これは2句切れの倒置。「饒舌に匂うばかりの金木犀を、路地裏に探しあぐねる」ということ。「饒舌に匂う」が<コロケーションのずらし>。「饒舌」と「匂う」をつなげるのは、日本語としておかしい。「饒舌」は「匂う」ものではない。けれど、詩歌であれば、喩として成立する。あとは、「饒舌に匂っ」ている金木犀というものを読者がイメージできるかどうか。金木犀特有のむんむんむせ返るような匂いを「饒舌」のようだ、と喩えたわけだが、このようなイメージというのは、「饒舌」と「匂う」という、「言葉」からしかイメージができない。つまり、実景を写実的に詠むことで、読者にイメージを持たせようとするのとは、歌の作り方が違っている。

 どっちの作り方がいいかどうかはここで議論をする余裕はないが、前者の作り方のほうが、短歌でしかできない表現とはいえないだろうか。だって、「饒舌に匂っている金木犀」なんて、写真や映像では表現できない。これは「言葉」を扱って、修辞を駆使してイメージを楽しむ詩歌ならではの表現だと思う。

 それはともかく、読者からみて、「饒舌に匂う」がうまくイメージできれば、<抒情>も可能と思うがどうか。

 なお、この作品は、ほかにも、本Blogの<リアリティ>でさんざん議論した、「あぐねる」の現在形終止についてや、「路地裏」「金木犀」の<コノテーション>、韻律面からの技法からとか、いろいろ分析できるけど、関係ないので今回はやらない。というか、いろいろと分析ができてこそ詩歌というにふさわしいだろう。現代口語短歌もここまで、テクスト分析に耐えうる程に成熟している証左といえまいか。

 2首目。英訳がまるで崖のように涼しげに主体には見えた、ということ。「英訳は…すずしく」が<コロケーションのずらし>。「英訳」が「すずし」げに、主体には見えたと言っているのだが、「英訳」に涼しいも暑いもない。その<コロケーションのずらし>に「切り立つ崖のように」という直喩が挟まる。また、結句の「すずしく」は「すずしく見えた」の省略法、いわゆる「言いさし」の技法を使われている。というように、下句で3つの修辞法が使われているので、かなり複雑な構成となっている。そして、こうした詩的修辞によって<抒情>を導き出そうとしている、ということだ。こちらも「言葉」によって読者にイメージを持たせようとしている、詩歌ならではの表現だと思う。

 3首目。こちらは、先の2首よりも、かなり圧縮された状況を詠っているので、解凍が必要かもしれない。ほそい足音を立てながら誰かが主体に近づいてきていて、その誰かの影が主体の踵に触れたその瞬間…、という状況を詠っている。そうした状況を、主語を明確にせず、足音や影の状況だけを詠っているので、読み解くには難儀するということになる。

 そして、この作品、どうも上句と下句で文章がつながらない。ねじれている。ただ、そうしたねじれた文章は、これはこれで詩歌の技法なのだけど、<コロケーションのずらし>とは関係がないので、ここでは議論しない。

 この作品で、<コロケーションのずらし>があるのは、「触れてくる影」のところ。ただ、ほかにも下句では、フンダンに詩的修辞が施されている。

 まず、「触れてくる影」。ここは、結句体言止めに加えて、「影が主体の踵に触れてくる」の倒置と省略。次に、「ひたと触れてくる」の部分は、日本語として危うい現在形終止。ここは、「触れてきた」が多分正しい。「触れてくる」では、まだ、触れてはいない状態。触れていないのに、「ひたと」という副詞で修飾しているのは、日本語としておかしいだろう。そして、「影」が「触れてくる」という<コロケーションのずらし>。「影」は「触れ」たりしない。「影」は「さす」のが日本語の<コロケーション>だろう。なので、ここの「触れてくる影」は、<擬人法>としての<コロケーションのずらし>といえよう。

 そういうわけで、この「触れてくる影」の<コロケーションのずらし>プラス、先ほどの倒置や省略、さらに体言止め、さらに「影」の<コノテーション>などなど、すべてが混然一体となっている「触れてくる影」で<抒情>できれば、こうした詩的修辞はうまくいった、ということになるだろう。

 

 と、まずは3首ほど見てきたが、現代口語短歌は、一読するすると読めて淡泊な感じがするかもしれないが、こうやってテクストとしてしっかり分析しようとすると、結構、濃厚な味つけが施されていることがよくわかると思う。

 

 

<抒情>のしくみ⑤

 これまで議論してきた<コノテーション>の修辞法に関わって、短歌特有の<オノマトペ>の用法について、少しお喋りをしていきたい。

 <オノマトペ>というのは、「雨がざあざあ降る」、とか、「太陽がギラギラ輝く」といった、いわゆる擬音語・擬態語の総称で、そもそもは副詞として、主に動詞を修飾していた。「雨がざあざあ降る」なら雨の降る様を修飾し、「太陽がギラギラ輝く」なら、太陽の輝く様を修飾している。一方で、数は少ないながらも、形容詞(形容動詞)や動詞としての<オノマトペ>がある。「太陽がギラギラしている」とすれば動詞だし、「ギラギラな太陽」となると、太陽を修飾するので、形容詞(形容動詞)となる。

 そんな<オノマトペ>だが、短歌では、<オノマトペ>は動詞や名詞を修飾するためだけではなく、新しい修辞法としての役割を持ってきているのではないか、というのが今回の話題である。新しい修辞法というのが、すなわち<コノテーション>としての用法だ。

 <コノテーション>というのは何だったかといえば、言葉に貼り付いているイメージだ。「夕陽」なら、寂寥感とか懐かしさとか、そんな字義以外のイメージが<コノテーション>とよばれるものだ。

 これを<オノマトペ>にあてはめるとどうなるか。

 例えば、「ざあざあ降る」の「ざあざあ」は、もちろん雨が激しく降る音からくる<オノマトペ>だが、もう、いまでは「ざあざあ降る」だけで、誰もが、雨をイメージするだろう。もしかしたら「ざあざあ」だけでも、雨のイメージを持たせられるのではないか。

 同じく、「どきどき」はどうだろう。もう、これだけで、胸や心臓の高鳴りをイメージできないか。「どきどき」という言葉には、心臓の高鳴り、つまり、それは動悸が激しいといったような実際的な心音の字義的な意味だけではなく、「緊張している様」とか「不安な様」とかそうしたイメージが貼り付いている、といえるのではないか。

 これが私のいう<オノマトペ>の新しい修辞法、すなわち<コノテーション>としての用法だ。

 実際に作品をみていこう。

 穂村弘『水中翼船炎上中』から3首あげたい。

 

長靴をなくしてしまった猫ばかりきらっきらっと夜の隙間に

さよならと云ったときにはもう誰もいないみたいでひらひらと振る

冷蔵庫の麦茶を出してからからと砂糖溶かしていた夏の朝

 

 1首目。「きらっきらっ」が<オノマトペ>。これだけで、何かが、点滅しているイメージを読者は持つことができる。ここでは、3句目に「猫」とあるので、猫の目が、夜のネオンに反射して「きらっきらっ」と点滅している、ということが分かる。

 2首目。「ひらひら」が<オノマトペ>。何か平たいものが、風になびいていたりしているようなイメージを持つことができよう。「さよなら」と言って、ひらひらと振るのものといえば、「手」ということになる。つまり、「ひらひら」で、手を振っていることが分かる。

 3首目。「からから」が<オノマトペ>。「からから」だけでは、ちょっとイメージが拡散していようか。喉の乾いた様も「からから」だし、朗らかに笑っている様も「からから」だ。ここでは、どうやら、麦茶に砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜている、そのスプーンがコップにあたる音が「からから」と鳴っている、と分かる。つまり、「からから」で、そのようなイメージを読者に想起させようとしているのである。

 さて、こうした<オノマトペ>の用法を、私は<コノテーション>としてとらえているが、これを<省略法>ととらえることもできよう。すなわち、「きらっきらっ」なら、「猫の目がきらっきらっと光っている」様を、「猫の目が光っている」という部分を省略して、「きらっきらっ」ですべて表しているという解釈だ。

 なので、ここの表現は、<コノテーション>でもあり<省略法>でもある、ということができる。要はカテゴライズの問題ということだ。喩えていえば、「バナナ」は「南国の果物」でもあり「黄色い食べ物」でもある、ということである。ついでにいえば、<コノテーション>という修辞法は、私は広義の比喩表現ととらえているので、こちらも喩えていえば、「バナナ」は「果物」のカテゴリーでは「南国の果物」に分類される、ということだ。

 

 それはともかく、<オノマトペ>の<コノテーション>用法が分かったところで、その応用をみていこう。

 引き続き、穂村弘『水中翼船炎上中』から。

 

夜の低い位置にぽたぽたぽたぽたとわかものたちが落ちている町

みつあみを習った窓の向こうには星がひゅんひゅん降っていたこと

夜になると熱が上がるとしゅるしゅると囁きあっている大人たち

 

 1首目。「ぽたぽたぽた」。この<オノマトペ>からは、水滴が落ちている様をイメージできるであろう。しかしながら、ここで落ちているのは「わかものたち」である。これは、コンビニの駐車場や繁華街の路上に「わかものたち」が座り込んでいる様を、まるで、空から雨の水滴がおたぽたと落ちてきているようだ、と喩えているのだ。そうした水滴が空から落ちている様を「ぽたぽたぽた」という<オノマトペ>で表現し、それを、比喩として扱っているという複雑な構成となっている。<コノテーション>の応用というにふさわしいといえよう。

 2首目。「ひゅんひゅん」。この<オノマトペ>からは、ミサイルが飛んでいるようなイメージだろうか。それを流れ星が流れている比喩として扱っている。そうすることで、詩的効果があらわれるということである。「みつあみを習った」少女の心象が、まるで、流れ星がミサイルみたく降っているようだ、という感じか。

 3首目。「しゅるしゅる」。この<オノマトペ>のイメージは、拡散しているかもしれない。私は、ストーブに載せているやかんから蒸気が吹いている様をイメージするが、読み手によっていろんなイメージをもつことのできる<オノマトペ>だと思う。ここは、大人の囁きが「ひそひそ」ではなく「しゅるしゅる」としたことで、詩的効果を狙っていると分析できよう。熱が上がって寝ているときには、大人の囁き声が、まるでやかんから蒸気が吹いているようだ、ということだ。けれど、「しゅるしゅる」のとらえかたで、違う読みや鑑賞になることだろう。

  穂村弘の作品だけではなく、ほかの作品も見てみよう。

 

足もとに芽吹く間際の種ありてどくどくどくと日が暮れていく

                    勝野かおり『Br 臭素

葉の匂いざあと浴びつつさきほどの「君って」の続き気になっている

                      江戸雪『百合オイル』

あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中あをぞらだらけ

                        河野裕子『母系』

 

 1首目。「どくどくどく」。心臓の鼓動とか、血管に血が流れているイメージか。日が暮れるといえば「ぎんぎんぎらぎら夕陽が沈む」が有名な<オノマトペ>表現だけど、ここでは、夕陽の赤のイメージを血流へと移行させたのであろう。まるで、心臓の鼓動のように日が暮れていく、という比喩表現ということになるのだろう。

 2首目。「ざあと」。雨やシャワーを浴びているイメージか。葉の匂いを吸い込んだ様を、雨やシャワーを浴びたイメージに喩えたのである。

 3首目。「ぞろぞろ」。人の群れとか、動物や虫の群れのイメージか。あおぞらが体に入ってくるという比喩に、それを人の群れのようだとさらに比喩をかぶせている、と読める。

 

 さて、<オノマトペ>用法の最後に、<オノマトペ>の言葉に貼り付いているイメージを利用して、そのイメージを他の言葉に重ねている用法をみてみよう。

 やはり、穂村弘『水中翼船炎上中』をひく。

 

きらきらと自己紹介の女子たちが誕生石に不満を述べる

陽炎の運動場をゆらゆらと薬缶に近づいてゆく誰か

警官におはぎを食べさせようとした母よつやつやクワガタの夜

 

 1首目。「きらきら」。これは、「自己紹介の女子たち」にかかっている。すなわち、自己紹介している女子たちがきらきらしている、というわけだ。けれど、下句をみれば、「誕生石」のイメージにも「きらきら」が重ねられているのが分かるはずだ。「きらきら」それ自体を「光り輝いている様」ととらえて、「誕生石」と<縁語>と括ることも可能かもしれない。いずれにせよ、「きらきら」が「自己紹介の女子たち」を形容しているだけではなく、別の言葉ともかかわっている、ということはいえるであろう。

 2首目。「ゆらゆら」。これは、「ゆらゆらと近づく」という、動詞を修飾する副詞の扱いであるが、同時に、陽炎がゆらゆらしている様としてのイメージを重ねている。

 3首目。「つやつや」。これは、クワガタの表面がつやつやしている、ということに加えて、「おはぎ」がつやつやしていると読めなくもない。あるいは、母が警官におはぎを食べさせようとした、その思い出がつやつやの記憶となっている、と読めなくもない。いずれにせよ、「つやつや」が、クワガタだけではなく、ほかの言葉のイメージにも重なるように読める構成になっていることがわかる。

 このような<オノマトペ>の用法として、いちばん有名な作品は北原白秋のこの作品じゃあないかと思う。

 

君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

                         北原白秋『桐の花』

 

 「さくさく」。これは、敷石を踏む音の<オノマトペ>だが、「林檎」をさくさくと食べるイメージにも重なる。こうした用法は、短詩型ならではのイメージの重層であり、<オノマトペ>を<縁語>的にとらえることで、作品に統一感を与える役割を担っているということもできよう。

 

 

<抒情>のしくみ④

 今回も、<コノテーション>という抒情を生み出す技法について実際の作品から検討してみよう。

 

 今回は、北原白秋を。

 なんで、ここで白秋を取り上げるのか。と、いうと、とある必要があってついこの前、白秋全集を読み直したので、そのついでにという、筆者の都合による。

 

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕    『桐の花』

ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日

あまりりす息もふかげに燃ゆるときふと唇はさしあてしかな

石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼      『雲母集』

鞠もちて遊ぶ子供を鞠もたぬ子供見惚るる山ざくら花      『雀の卵』

 

 1首目。白秋の代表歌。白秋の初期作品については、なにかと韻律の愉しさ論じられ、この歌も、まさしく白秋の音楽的な愉しさの歌には違いない。しかしながら、<コノテーション>の作用でこの作品を分析するならば、結句の「夕」が、この歌の抒情性を担保しているといえよう。また、三句目の「あかあかと」で、朱を暗示させて「夕」で情景を際立たせているともいえる。韻律の愉しさとともに春の夕べのしみじみとした情感を味わいたい。

 2首目。「ヒヤシンス」の花の様子から抒情性をつかみたいところであるが、こちらも、恐らくは、「ヒヤシンス」の語の響きのほうがこの歌では優位になっていよう。S音の摩擦音が心地よく響いている。このやや冷えた響きと心がふるえたということとが、見事にシンクロしている、といえよう。また、話題にしている、<コノテーション>の作用でいうと、「ヒヤシンス」の言葉に貼り付いてるイメージもまた、この歌の冷涼な情感に合っているだろう。おそらく、ヒヤシンスを詠って、最初に有名になった歌。

 3首目。お次は「アマリリス」。赤い色の<コノテーション>。そこから、「燃える」、「唇」といった同色のイメージ。また、「息」と「唇」は縁語ということで、統一感のある構成。ついているといえばそうだけど、イメージの共有のほうが強いと思うがどうか。この歌も「アマリリス」を最初に歌って有名になった歌といえないか。

 4首目。結句の「夕焼小焼」の俗謡性も、「七人」や「河豚」などの具体で、なんとか一首として後世に残った感じだ。

 5首目。こちらも、代表歌。これは、結句の「山ざくら花」の<コノテーション>で抒情を出すという典型的な手法といえる。

と、いった感じか。

 

 では、続いて、ぐっと現代口語短歌を。

 宇都宮敦『ピクニック』より数首。

 こちらもまた、<コノテーション>の作用を信頼して、抒情している作品を取り上げてみよう。

 

袖口でみがいたリンゴを渡したら裾でみがいたリンゴをくれた

理科室のつくえはたしかに黒かった そうだよ ふかく日がさしこんだ

牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは

幼いころの君がかいた鏡文字のひらがなに灯がともったら さあ

 

 1首目。「リンゴ」の<コノテーション>による抒情。青春、純粋、清涼感、といったようなイメージか。これは、歌の感じとウマくはまっていると思う。上句と下句の対句的な用法ながら、下句でのスピード感がすばらしい。青春を詠うスタンダードな一首、みたいで、この歌は、かなりいい歌だと思う。

 2首目。これは、「理科室」の<コノテーション>で抒情を誘う、実験的な一首と読む。「理科室」には、どんなイメージが貼り付いているか。というと、それはそれぞれだと思うが、ここでは、広く学校生活の1コマ、といったような象徴として、「理科室」を持ってきたのだと思う。青春性の象徴といってもいいだろう。例えば、これが「教室」なら、平凡にすぎるし、「更衣室」なら生々しい別の<コノテーション>になるし、「図書室」「美術室」「木工室」なら、広い共感性は生まれないだろう。「理科室」は、誰もが授業で等しく利用した教室なので、共通の<コノテーション>を誘うことができそうである。そう考えると、「理科室」の言葉の選択は、絶妙といえる。

 2句目からは「机」に焦点化して、「黒かった」という色彩に持っていく手法。下句で、日が差し込んでいるとあるから、黒い机に光が反射するイメージで、抒情させようということだ。「理科室」であっても、実験器具や人体模型を詠うのではなく、黒い机を詠ったのが、現代的というか、斬新なところだと思う。

 そして、この作品が実験的というのは、誰もが「理科室」で抒情できないだろうということである。おそらく、作者は、自分の読者を同世代がその下の世代に向けて、作品を提供している。上の世代にわかってもらおう、あるいは、皆に広く共感してもらうつもりはないのではないか。分かる読者に分かってもらえばいい。おそらく皆に共感してもらうと思うのだったら「理科室」の言葉の選択ではなく、「教室」とか「黒板」とか平凡な<コノテーション>を喚起する言葉の選択になったと思う。

 そんな、分かる人に分かってもらえはいい、という感じは3首目にもみられる。こちらは、<コノテーション>の話題とはずれるけど、上句の牛乳パックが逆からあいていて可笑しいと思うのは、誰もがそういうわけでじゃあないだろう。けれど、思春期特有の、いわゆる「箸が転んでもおかしい年頃」の現代的例示として、分かる人に分かってもらえばいい、の一例として挙げた、ということは言えるのではないかと思う。

 4首目は「バドミントン」の<コノテーション>。カップルが楽しむスポーツや遊びで、ほかでもない「バドミントン」を選択したことによる、抒情性を味わいたい。健全性とか清潔感とか、そんな感じか。他の人なら、もっと違うイメージを持つかもしれない。それが、真夜中にやっているというとことで、ちょっとした意外性というか、独特の幻想性を生み出している。この歌も、良い歌と思う人と、何がいいのかよく分からない、という人に分かれるような、実験的な一首ではないか。

 5首目は「鏡文字」の<コノテーション>。こうした抒情性が、作者の持ち味なんだろうと思う。

 

 さて、<コノテーション>について、一旦、ここでまとめておこう。

 テーマは「抒情のしくみ」であった。短歌には、抒情的な歌というのが存在する。その抒情の謎を、解き明かそうということで、<コノテーション>という詩的修辞を取り上げた。

 <コノテーション>というのは、ある言葉に貼り付いているイメージだ。例えば、「夕陽」という言葉だったら、もの悲しい、とか、寂しい、とかといったイメージ、あるいは、ノスタルジックな感情を呼び起こしたりもする。

 だから、歌に、「夕陽」を詠み込むとおのずと読者は、そうした感情が呼び起こされ、勝手に抒情してくれる、ということになる。

 今回の白秋の歌でいうと、順に「夕」「ヒヤシンス」「あまりりす」「夕焼小焼」「山ざくら花」という言葉に字義以外のイメージが貼り付いている。その貼り付いたイメージというのが、すなわち<コノテーション>と呼ばれるもので、<コノテーション>をうまく利用することで、一首が抒情的になる、というわけである。

 短歌と言うのは短い詩型だから、一首のなかであれこれ言うことはできない。そこで、「言葉」に貼り付いているイメージを利用して、読者に、例えば、寂しさとか懐かしさなんていう感情を喚起させて抒情させよう、とするわけだ。状況を夕方に設定する、とか、ヒヤシンスを詠む、とかして、「うら寂しいしみじみとした気持ち」とか、「心のうちの秘めやかな感情」とか、といった<コノテーション>を利用して抒情させている、というわけである。

 ただし、「夕陽」なんてのは、白秋の時代から、短歌にはもう何度も何度も詠われて、それこそマンネリズムというか、表現でいうとあまりに平凡なので、詠う側としても、安易に詠ってしまうとそれこそ平凡な歌になってしまうことは否めない。そこで、表現者としては、新しい抒情というか、今まで短歌に使われていない言葉を詠うことで、新しい<コノテーション>を提出しようとする。今回は、宇都宮の作品として、「理科室」や「バドミントン」を取り上げたが、私としては、実験的な作品としてとらえている。ほかにもたくさんあるだろうし、特にそれらは、現代口語短歌の歌人に顕著であろう。

 一方、そうした、凡百の<コノテーション>を逆手にとって、抒情しようとする笹公人のような前回取り上げた作品というのもある。こちらも、実験的といえるかもしれない。

 いずれにせよ、自分の作品で、これまでとは違う新たな抒情を模索するのは、常に新しい表現を求める表現者としての性分であろうから、短歌でいえば、これまで短歌作品で使われなかったような「言葉」で、これまでにない<コノテーション>の創出をはかっていくというのは、現代短歌の歌人の性分といえるだろう。

 というところで、今回はここまで。

<抒情>のしくみ③

 前回は、コノテーションの分かり易い例として、「夕焼け」「ゆうぐれ」といった「言葉」を取り上げた。

 今回は、いくつかの歌を鑑賞しながら、コノテーションの作用を実際に確認していこう。

 前回取り上げた、笹公人の『抒情の奇妙な冒険』から。

 

しのびよる闇に背を向けかき混ぜたメンコの極彩色こそ未来

おしくらまんじゅう押されて泣いた赤鬼がさよならしてる冬の路地裏

野球盤の消える魔球の球尽きて星野の部屋に夕闇せまる

スライムをブラウスに入れたことなども若葉の頃の記憶に溶けて

懐かしのヒーローアニメ主題歌の「♪だけど」の後が沁みる夜更けぞ

ドラクエのコスプレ姿の旧友を無視して過ぎる冬の十字路

聖子ちゃんカットの群れはまぼろしか 炎暑の竹下通りを過ぎる

 

 1首目。「しのびよる闇」は、夕闇とする実景の叙述としてだけではなく、何かの隠喩としての意味を持たせている。「闇」に、字義以外の意味が貼り付いているので、ここはコノテーションの用法。闇とメンコの極彩色の色彩の対比、また、結句にある、この歌のテーマである「未来」からガキの頃と現在の主体の対比もある。一首のなかに、いろんなことが詰め込まれている。よりわかりやすいのは「メンコ」というアイテムで、ノスタルジーというか、昭和30年代がらギリ50年代の日本の高度成長期の心象風景を表しているといえる。ちなみに、作者の笹は昭和50年生まれだから、この歌で歌われる情景は、まさしく氏のアタマのなかで作り上げた、作り物の心象風景である。だから、そうした作り物の風景にリアリティを出すために、「メンコの極彩色」なんていう具体を詠っているともいえる。と、こちらは、<コノテーション>ではなく<リアリティ>の範疇の話題。

 2首目。こちらも、「三丁目の夕日」的なノスタルジーを演出する舞台としての「冬の路地裏」。おしくらまんじゅうするのは、冬に決まっているんだから、「冬」はついているのだけど、ここは律感を優先したというところか。それはともかく、「路地裏」はうまい舞台を持ってきたと思う。「路地裏」に貼り付いている言葉のイメージ、すなわち<コノテーション>は、結構、共感性も高く、抒情的といえる。やはり「裏」という言葉が抒情を誘うのだろう。表よりも裏。陽が昇るよりも、陽が沈む。恋人が居る、よりも居ない。幸せよりも不幸。と、単純に、ポジ、よりも、ネガ、のほうが、抒情を出しやすい。なので、そうしたネガティブな言葉には、より抒情的な<コノテーション>は貼り付いている、といえよう。作者側からすると、そうしたネガティブな言葉を叙述すれば、読者は勝手に抒情してくれる、と計算して歌を作っている、という言い方もできよう。そうした計算を露悪的というか、「これは、作られた抒情ですよ」と手の内を見せながら作品として提示しているのが、笹の作歌手法だ。

  3首目。こちらは結句の「夕闇せまる」が、できすぎた「夕闇」の<コノテーション>による抒情の手法。また、先の話題でいうと、「消える魔球」の<消える>や<尽きて>あたりの、ネガティブな言葉、すなわち「生まれる」ではなく「消える」、「充ちる」ではなく「尽きる」といった言葉は、短歌としては抒情しやすい、ということを分かって詠っている。

  4首目。「スライム」や「ブラウス」に貼り付いている<コノテーション>で、少年のころの甘酸っぱい記憶なんてのを共感してもらおうという手法。一応、念のためにいっておくが、これは笹の実体験というわけでは決してない。「スライムを女子のブラウスのなかに入れちゃったこともあったよね」というシチュエーションなら、読者は「そうそう、そういうこともありえるよね」と勝手に抒情するだろうという、想定で、「スライム」や「ブラウス」なんて「道具」を笹が並べて歌にしたということだ。また、そういうシチュエーションなら、初夏の瑞々しい時期がイメージに合うだろうということで「若葉の頃」にした。そして、それでもノスタルジーを出してみたかったので、「記憶」と詠い、遠い日の青春の一コマなんていう、ありきたりな主題(無論、歌の主題はありきたりでいいけれど)をもってきた、というわけである。ただ、「スライム」の緑色と「若葉」の色彩の共通性、あるいは、「スライム」のドロドロ感と、記憶が「溶ける」という意味の重層あたりは、いわゆる<縁語>という多分に短歌的なレトリックを駆使しているから、そんなに抒情ありきで作っているわけでなく、そこそこ手練た歌作をいっていいだろう。けど、それらは<コノテーション>とは別のレトリックの話題なので、ここでは、提示するだけにしておく。

  5首目。「あしたのジョー」の主題歌の歌詞の「だけど」の後が心に沁みる、というのがこの歌の言いたいこと。けど、それを直截に詠うと歌にならないから「懐かしのヒーローアニメ」なんて、遠回しな言い方をして詩情を出そうという魂胆。それはともかく、結句の「夜更け」の<コノテーション>が抒情を誘う。べつに、「夜明け」でも「夜入り」でも「夜中」でも、心には沁みようが、やはり「夜更け」と詠ったほうがより抒情的でしょうな。

  6首目。こちらは「冬の十字路」の<コノテーション>で抒情しようということ。春や夏よりも秋や冬のほうが抒情しやすいだろう。そして、ここは、声をかけずに過ぎるので「十字路」ということになろう。「路地裏」なら声をかけずに過ぎさることは無理だろう。なお、私はよくわからないが、「ドラクエ」の昔の画面なんてのは、よく十字路でキャラクターが出会ったりしているようなので、ドラクエに詳しい人なら、この十字路の言葉の選択はピンとくるものなのかもしれない。

  7首目。聖子ちゃんは、言わずと知れた松田聖子。だから、西暦でいうと1980年代。この一時期に松田聖子の髪型が流行ったけど、あの髪型を懐かしんで、竹下通りを過ぎているという歌。流行したのだから、「群れ」という言葉の選択も絶妙だ。で、設定としては「炎暑」にしている。ここは、当然ながら、春や秋や冬じゃなく、夏じゃないとダメ。しかも、「初夏」や「真夏」や「猛暑」や「残暑」や「酷暑」じゃなくて、「炎暑」じゃないとダメ。ここは、実は動かない。なぜだかお分かりであろうか。すなわち、「炎暑」の炎で空気ゆらゆらしている感じや、真夏の暑さで見られる蜃気楼のイメージと、「まぼろし」が対応しているからである。これが、短歌の<縁語>というレトリック。なので、聖子ちゃんカットという俗なものを詠っただけでない、詩的技法も駆使されていて、鑑賞に耐えられるだけの作品である、ということができよう。そういうわけで、「炎暑」という言葉からイメージできる、炎のゆらゆらした感じ、とか、蜃気楼で景色がゆらゆらしているイメージが<コノテーション>ということになる。ただし、蜃気楼のゆらゆらは、炎暑の実景に近いから、字義だけではなく広義の<コノテーション>ととらえるとより正確かもしれない。なお、結句の「過ぎる」も、ちょっとした抒情性を生み出す動き。「歩く」とか「通る」とか「向かう」とかよりも「過ぎる」のほうがいい。「向かう」はポジだが、「過ぎる」はネガだ。過ぎ去ったもの、という過去のイメージが付加されていよう。こうした言葉をさりげなく選択できるかどうかが、歌人としての感性といえるのではないか。

 

 と、ここまで<コノテーション>のはたらき、について、かなり分かり易い笹の作品をとりあげて確認してきた。

 なんとなく、<コノテーション>の技法というものがつかめてきたと思う。

 では次に、さりげない<コノテーション>の用法をみていきたい。

 とりあげるのは、藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川文化振興財団)。こちらの歌群のほうが、より短歌らしい。といったら、笹に失礼か。いや、笹への賛辞か。

 とにかく、藪内の作品をいくつか。

 

傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出でゆく

川の面に雪は降りつつ或る雪はたまゆら水のうへをながるる

 

 まず2首。こちらは、「降る雪」に貼り付いているイメージを信頼して歌にしている。「降る雪」の<コノテーション>。どうであろう。白い色からは、静謐や清純、すぐに消えていく様からは、儚さやさみしさ、もちろん、美しさや冷たさもあるだろう。イルミネーションに照らされれば華やぎも感じられようが、藪内の雪は、しんしんと静かに空から降ってくる「雪」の<コノテーション>で抒情を生み出している。

 1首目。これまでに、いろいろな場で取り上げられている藪内の代表作。上句の的確な描写とともに、うつむくしぐさから生まれる有り余る抒情性。近代短歌の本流ともいえる詠いぶりながら、「うつむいて」と口語を挿入する現代性もある。そして、そうしたなかでの「雪」の<コノテーション>がこの歌を抒情させているといえないだろうか。やはり、「雨」ではダメだろう。ここは「雪」でしょうな。

 2首目。こちらは「雪」そのものを詠った作品。ただし、雪を観察して一首詠んだ近代短歌的な写実的な歌、というよりは、これまでさんざん古典和歌から詠われてきた「雪」の <コノテーション>を上書きして、抒情性を際立たせるという職人的手法による歌という感じが私にはする。つまり、写生写実の短歌というよりも、レトリックで言葉を弄んで詩情を表現するという、職人的あるいは多分に人工的な短歌である。

 

電車から駅へとわたる一瞬にうすきひかりとして雨は降る

うつくしく雨は上辺を濡らすのに傘の内臓なんだ我らは

眼の良きほどに遠くなる輪と思ひつつ視力検査の四月、雨の日

 

 続いて、「雨」。「雨」の言葉から、私たちは、どんな詩情をイメージするだろうか。「春雨」でも「秋雨」でも「驟雨」でも「雷雨」でも「長雨」でも「夕立ち」でも「豪雨」でもない、ただの「雨」。この「雨」というたった一文字に、いったいどんな<コノテーション>があるのだろう。

 1首目、下句の繊細な視覚による表現。また、句またがりによるちょっとしたアクセントも素敵。ここの「雨」は<うすきひかり>と修飾することで、神聖さとか自然の神秘性、生命の源のような大きなイメージまで想起できるのではないか。ここは、さっきみた「雪」ではだめだろう。しずかに天から降る命の源としての「雨」だろう。

 2首目。三句「のに」で下句へつなげる。「内臓」というやや大胆な言葉を「なんだ」のやや乱暴な口語で受けているのが新鮮。やはりここでも、「雨」から受ける生命性がイメージできよう。やはりここは、「雪」ではだめだ。

 3首目、視力の良いことを「ほどに遠くなる輪」と詠うのが、一首の発見といえる。結句は、「雨の日」にかかる<コノテーション>を信頼して抒情を引き出している。

 

 藪内の歌は、雨、花、星といった抽象的な詩的素材を歌の材料として、それらの素材に張り付いている伝統的な短歌的抒情を上手にさばいて一首作り上げている、といった感じの歌が多い。よくある歌の素材をきっちり作品にまとめていく職人肌の作風だ。こうした歌作は、簡単そうでとても難しい。うっかりすると、どこにでもありがちな作品になってしまう。

 職人的というと、こういう作品もあった。

 

桃ひとつ卓の上に割かむとす肉体といふ水牢あはれ

 

 この歌もやはり、「桃」から受けるコノテーションから「肉体」の語を持ち出して、作られたエロスをたたえた一首と読める。

最後に、少し毛色の違う作品を。

 

片翅に「死ね」片翅に「死ぬ」と書きはなつた蝶がどこまでも飛ぶ

 

 こちらは、「死ね」や「死ぬ」という強い言葉に引っ張られて読んでしまうが、「蝶」に注目したい。ここを、たとえば「蜻蛉」や「テントウムシ」や「鳥」や「帽子」や「紙飛行機」といった、別の飛んでいくものと比べてみたらよい。どうだろう。歌の様相がガラリと変わることがわかるはずだ。つまりは、「蝶」に貼り付いているイメージから受ける抒情性によって一首の様相が決まってくるということなのだ。

 

 

<抒情>のしくみ②

 前回、「コノテーション」をいうキーワードを提出した。

 ここで議論しているのは、あくまでも「言葉」のイメージある。つまり、「夕陽」という「言葉」から、私たちは勝手に「ノスタルジー」といったようなイメージが喚起される、ということを議論している。

 無論、実際の沈みゆくまっかっかな夕陽そのものをみて、ヒトの心象にノスタルジーが喚起される、ということもあるとは思うけど、「コノテーション」というのは、詩歌の修辞用語なので、あくまでも「言葉」に貼り付いているイメージという前提で、議論を進めたほうが誤解がなくていいと思う。

 そして、そのイメージというのも、別に、あらかじめ決まっているものではないはずだ。「夕陽」から「ノスタルジー」というイメージが喚起される、というのは実際の夕陽にそういう作用がないとはいわないが、多分に文化的時代的なものだろうと思う。つまり、共通の文化を持つ一定程度のヒトの集まりで長い時間をかけるなかで、「夕陽」から「ノスタルジー」というイメージが喚起される、という共通認識が生まれていったのだろうと思う。だから、文化や時代が違うと、当然、ある「言葉」の「コノテーション」も異なる、ということになる。

 例えば、文化の違いというなら、動植物にはりついている「コノテーション」は国によって違うだろう。日本人が感じる「蛍」のイメージは、おそらく、欧米人のそれとは大きく違っていると思うし、「蜻蛉」や「蛙」や、とにかく、詩歌の題材として詠われている動植物というのは文化的なイメージに拠っているから、違う文化の人とは同じイメージを認識できないだろう。

 時代の違いもあるだろう。平安時代の「衣」や「文」なども、現代のそれらの「コノテーション」とは明らかに異なっていよう。

 ほかにも、同じ日本で現代に暮らしていても、世代や性別や社会的地位によって、「言葉」のイメージは異なるだろう。「コンビニ」という「言葉」ひとつとっても、ある世代は身近なものだったりするが、ある世代には歌の題材としてふさわしくないと思っている場合もある。あるいは、社会的地位によって、生活には無くてはならなものだったり、チープのイメージだったり、労働の搾取の象徴だったり、はたまた、性別によっては、危険なイメージを持つことだってあるかもしれない。

 そういういろんなイメージが喚起される「言葉」から、できるだけ共通の「イメージ」を認識できるような「言葉」を、詩歌では「コノテーション」として選択している、ということがいえる。

 であるから、詩歌を嗜んでいる人でも、古典和歌が分からないのは、古典文法が難しいということもあるが、当時の「言葉」の「コノテーション」が分からない、だから、その詩歌を味わうことができない、ということがあるからだと思う。また、現代短歌で、世代間格差がみられるというのも、案外、この「コノテーション」の違いだったりするのかもしれない。例えば、若い世代では「イオンモール」が共通の「コノテーション」として作用しているが、若くない世代にとっては、「イオンモール」を詠って何で<抒情>できるのか、さっぱり分からない、という感じだろう。

 そうした世代や性別や社会的地位にかかわらず、共通なイメージを持ってくれる代表格が「夕陽」といった言葉だ。「夕陽」という言葉を見ると、誰もがみんな「ノスタルジー」といったイメージを喚起してくれるに違いない、という前提のもと、詩歌を作っているといえよう。

 そして、それは、実際の夕陽そのものに「ノスタルジー」を喚起するような要素、例えば、暖色系の色合いの空模様、とか、沈んでいく様子、とかに、うら寂しさなんていう感情がうまれて、「ノスタルジー」が喚起される、ということはないとはいわないが、先に言っているように、やはり文化的な要因の方が大きいと思う。

 文化的な要因というのは、「夕陽」の「コノテーション」でいうなら、童謡の「赤とんぼ」や「夕焼け小焼け」を全国のどこの学校でも斉唱したという音楽教育の成果が、日本人の原体験として日本全国あらゆる世代の共通のイメージ喚起に果たしている、という仮説は成り立ちそうだし、その原体験を上書きするように、日本人が日本で生活していくなかで、テレビ映像や小説世界などで繰り返し共通イメージがはかられているのだろうと思う。

 

 夕陽の「コノテーション」を利用して<抒情>させている作品を2つ。

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

                     穂村弘『ドライ ドライ アイス』

ゆうぐれの商店街を過ぎてゆく子供・自転車・豆腐屋の音

                     笹公人『抒情の奇妙な冒険』

 

 1首目。上句はずいぶんと具体的であるが、このような具体の描写が一首にリアリティを与えるという、短歌特有の技法。そのローラーに座ったら世界中が夕焼けのようだ、と主体が感じた、ということ。結句に夕焼けを持ってくることで、グランドに夕焼けが映えるイメージが鮮明に浮かび、なんとも抒情できるではないか。これが<世界中が朝焼け>だったり、<快晴>だったり<曇天>だったり<夕立>だったりしたら、一首、歌にならない。ここは<夕焼け>以外にはない。<夕焼け>という言葉に貼り付いている、私たちが感じるイメージで、私たちは勝手に抒情するということになる。

 2首目。こちらは、より露骨である。どうだ、<ゆうぐれ>だ、しかも、<商店街>だ、そこに、子供や自転車や豆腐屋のラッパの音まで聞こえてくる、さあ、抒情しろ、と読者に迫っているかのようである。ここまで露骨だど、逆に歌としてはウザくて、<抒情>できるわけがないじゃないか、と思うかもしれない。

 しかしながら、そのあたり、作者は了解済みなのだろう。こうやって<抒情>のアイテムをあえて露悪的に叙述しているのだ。だから、計算づくの<抒情>ということになる。この笹の歌集は、タイトルからしてそうであるように、<抒情>のカタログ、というか、どういう舞台設定、道具立て、役者の配置、言い回しをしたら、<抒情>できるのかという、テキストのような歌集である。であるので、当然ながら話題にしている、「コノテーション」もうまく利用していよう。

 笹の作品は、以前にあげた、小池光の「砂糖パン」の連作と比較するとわかりやすい。小池の連作にも、チープな<抒情>するためのアイテムがあった。自転車、川べり、幼子と男親、といったものだ。あの連作で唯一、オリジナリティがあるとすれば<砂糖パン>というワードということになろうか。ただし、小池は、読者を<抒情>させるためにそうしたアイテムを提出したというわけではないだろう。そういう点でいうと、笹の作品は、やはり計算した<抒情>という感じであろう。

 

 と、いうわけで、だらだらと喋ったので、そろそろ一旦まとめよう。

 短歌は、字数が少ないから、あれもこれも詰め込むことはできない詩型だ。そういう制約の中で、言いたいことをちゃんと言って、しかも、短詩として読者に何事かを伝えるには、それなりの工夫が必要となる。それは、読者に<抒情>してもらうときも同様だ。

 短歌では、言葉を尽くして読者に<抒情>してもらうなんてことはできない。そこで、歌作の修辞技法のひとつとして「コノテーション」がある。この技法を利用することで、短い詩型である短歌のような字数に制限のある詩歌でも、存分に読者を<抒情>させることができるのである。

 というところで、今回はここまで。

<抒情>のしくみ①

 

 去年の年末から、毎週更新してきた本Blogであるが、短歌文芸のわりと大きなテーマについてあれこれおしゃべりしてきたつもりである。大きなテーマというのは、<韻律>、<リアリティ>、<私性>といったテーマである。

 こうしたテーマについて、私は、一首単位でネチネチと、もっぱら形式主義的手法を用いて議論した。そうした議論の多くは、仮説の域にすぎないものが多かったけど、うまく分析ができたものもあったかと思う。私なりに、これまでの短歌の世界では俎上に乗っていない論点も提出できたし、その中からは、いくつかの収穫もあったと思っている。

 ところで、そんな短歌のテーマのなかで、もう一つ、まだ議論していない大きな大きなテーマがある。

 それが<抒情>だ。

 短歌の<抒情>とは何か。

 今回から年末にかけては、短歌の<抒情>のメカニズムを、主に現代短歌の分析を通して解き明かしてみたいと思う。

 

 私が<抒情>を感じる現代短歌とは、例えば、この作品だ。

 

 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで

 仙波龍英『わたしは可愛い三月兎

 

 私が、この作品に出会ったのは、2010年だから、短歌をはじめて数年といったところか。はじめて読んだときは、かっこいい歌だなあ、という印象だったと思う。

 まず、東京を詠っているのがかっこいい。次に、「夕照」や「展く」といった私の知らなかった言葉が使われている。「展く」はなんて読むのかも分からなかったけど、なんとなく意味はわかった。それから、「しづかに」の旧かな。それに、渋谷を「この谷」と呼ぶ表現。これも、今にして思うと字数あわせのような気もするが、当時はそんなこと分かるはずもない。PARCOのアルファベット表記。墓碑となすなんていう表現。とにかく、いろんなところが、かっこいい、と思った。

 

 ところで、この作品について、藤原龍一郎は次のような解説文をよせている。

 

 渋谷にPARCOpart3が開店したのは、一九八一年九月のことだった。すでに、井の頭通りから三基のパルコへ向かう通りは、スペイン坂と名付けられていた。道玄坂宮益坂といった、明治時代以前からの坂の名前とは異なり、商業資本主義が流行をつくりだした、宣伝コピーとしての名付けであった。文字通り渋谷は谷であり、谷には四方八方に坂がある。その坂上にそびえたつ三基のPARCOは「消費こそ美徳」という時代の流行の先端のシンボルとして、この谷に君臨していた。後にバブルと呼ばれるその経済的繁栄に浮かれた「おいしい生活」は、永遠に続くと誰もが思っていたはずだ。(中略)

 その空前の繁栄のさなかで、仙波龍英は、煌めき聳え立つ三基のPARCOを、墓碑として認識していた。「真の詩人の魂は、過去を予言し、未来を思い出す。」とは、孤高の俳人高柳重信の言葉である。仙波龍英のこの歌は、まさにその「真の詩人の魂」の所産であり、二十世紀末から二十一世紀はじめにかけての、歌枕「渋谷」の運命を予言し、思い出していたのであろう。

藤原龍一郎「現代の歌枕27」「短歌研究」2010年9月号)

 

 解説文を解説するのもおかしな話だが、この文章は「現代の歌枕」という、「短歌研究」誌のリレーエッセイのひとつで、この回は藤原が担当となって、「渋谷」を詠んだ歌について仙波の作品を取り上げたのだった。だから、話題はおのずと「渋谷」についての内容となる。

 時代は、バブル前夜。そして、パルコの3つのビルは、その日本が狂乱へと向かっている最中の<「消費こそ美徳」という時代の流行の先端のシンボル>であった、ということが重要だ。その経済的繁栄の象徴であるパルコを「墓碑」と見立てたということが、仙波の歌人としての才能の余りあるところ、といえよう。すなわち、21世紀に生きる我々からすれば、バブルは崩壊し、その後、我が国は失われた20年に陥ったことを知っている。しかし、仙波は、それをバブル前夜にすでに予言していた、というわけだ。

 私は、この藤原の解説文を読んで、この歌はただかっこいいだけではない、ということがよーく分かったのだった。

 

 と、作品の解説としては、こんな具合でいいだろう。たっぷりと鑑賞できたと思う。

 では、次に、本題であるこの作品の<抒情>性について議論していきたい。

 先に言ったように、私は、この歌には<抒情>を感じる。

 じゃあ、その<抒情>は、どこにあるのかを探ってみよう。

 夕陽が渋谷に照っている。谷に陽がふりそそぐのだから、<展く>という表現も絶妙だ。読者のイメージは、谷の下から、つまりは、地上から夕陽を見上げる感じだろうか。あるいは、上空から見下ろしている視点でもいいだろう。とにかく、その夕陽が、パルコの3つのビルを照らしている。ビルを<基>と数えるのも絶妙だ。夕陽に照らされている3つのビルを主体は墓碑に喩えたわけである。その喩の意味するところは、先の藤原の解説文の通り<「渋谷」の運命を予言し、思い出していた>ということに尽きよう。

 そうやって、歌の内容をイメージすると、どうだろう。どうにも、じわじわと<抒情>してくるではないか。

 …と、ここで、終わらすと、この歌は<抒情>する歌であることは分かったが、その<抒情>のメカニズムは分からない。なぜ、そうしたイメージを持つと、私たちは<抒情>することができるのか。ここを探るのが、本Blogの目的だ。

 

 今回は、その<抒情>の秘密を「言葉」に見つけたいと思う。

 あまり、複雑な議論になってもつまんないので、単純にこの世には、人が<抒情>する「言葉」というのが存在するのだ、ということで話を進めよう。

 すなわち、ある「言葉」を歌に使うと、あら不思議、たちどころに、誰もがみんな<抒情>する、…と、まではいかないだろうが、とにかく歌に詠むことで<抒情>しやすい「言葉」が存在するのではないか、というわけだ。

 では、この作品では、それは一体、どの「言葉」だろう。

 と、いうと、筆頭としては、<夕照>だろう。

 「夕陽が照っている様」といったような字義になるだろうが、これが私たちの<抒情>をかきたてるのだ。

 これを、次のように改作すると、ガラリと歌のイメージが変わることが分かると思う。

 

 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで     原作

 暁はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで     改作

 

 夕陽を朝日にしてみた。このように変えると、下句の墓碑の喩と整合しなくなって、読み手のイメージはつながらなくなる。やはり、この歌は夕陽でないとダメだ。なんなら、下句を変えちゃえばいいのではないか、という意見もあるかもしれないが、それもダメだ。この歌は、パルコの3つのビルが墓碑に見立てているのが、主題だから、ここを変えると別の歌になってしまう。<抒情>の議論と関係がなくなってしまう。

 そういうわけで、「言葉」の比較でいえば、「暁」よりも「夕照」のほうが、どうも<抒情>しやすい感じがしないだろうか。

 けど、次のような意見もあるかもしれない。それは、「夕照」は、この歌に歌われているから、<抒情>するのだと。すなわち、「夕照」と「墓碑」がこの歌では整合的に組み合わさっているから、<抒情>するのであり、「夕照」それ自体に<抒情>しているわけではない、と。

 それは、そうかもしれないが、例えば、映画(原作は漫画)のタイトルとして、

三丁目の夕日」、が、「四丁目の夕日」、でも、そんなにイメージは変わらないが、

三丁目の夕日」、が、「三丁目の朝日」、だったら、ガラリとイメージは変わってしまうだろう。

 やっぱり、<夕日>には<朝日>とは違って、私たちのイメージとして、何か、<抒情>するものがあるのである。この映画の例でいえば、夕日には「ノスタルジー」といったようなイメージが「夕日」という「言葉」に貼り付いているんだろう。

 では、仙波の<夕照>はどうだろう。

 そこには、「沈みゆくもののあわれ」とか「ものかなしさ」とか「没落」とか「感傷」とか、とにかく、そんなイメージが貼り付いていよう。こうしたイメージは、<暁>とは対極となるだろう。暁はこれから日が昇るわけだから、そんな「没落」のイメージは持ちようがないだろう。

 で、そうした<夕照>という「言葉」に貼り付いたイメージを利用して、作品の下句の「パルコのビルは墓碑のようだ」というこの作品の主題とうまく整合させている、というわけだ。

 詩歌には<抒情>しやすい「言葉」がある、という論点が理解できたであろうか。

 さて、今回提出した<夕照>という「言葉」。

 これは、「夕陽が照っている様」といったような「字義」で、それ以上でも以下でもない。つまり、<夕照>には、「ものかなしさ」や「没落」といった意味は「字義」にはない。

 同様に、<夕日>に「ノスタルジー」といった意味は、「字義」上は、これっぽっちも存在していなくて、それは、あくまでも、「夕日」という文字をみて、読み手が勝手にイメージしているだけである。

 しかし、私たちは「夕日」という文字を見ることで、何か懐かしさや切なさや感傷的といった、全部合わせて「ノスタルジー」といったものを、共感的にありありとイメージすることができる。

 それはなぜか。

 と、いえば、「夕日」という「言葉」に、そうしたイメージが貼り付いているからだ。

 こうした、ある「言葉」に貼り付いているイメージを「コノテーション」という。

 というわけで、<抒情>というのは、この「コノテーション」によっているのだ、というのが、ここから先の議論になる。

 「コノテーション」が<抒情>の秘密を解くカギなのだ。