わからない歌、わかる歌

 現代の短歌には、一読「わからない」、という歌がある。

 ただし、この「わからない」は、表現や言葉が難しくてわからない、というのではなく、表現は平易で言葉の連なりも正しいけれど、「え、この歌の何がいいの?」というような、いわば、「作品の良さがわからない」といったわからなさではないだろうか。

 例えば、こんな歌。

 

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 

                          穂村弘『シンジケート』

 どうだろう、この「作品の良さ」が果たしてわかるだろうか。

 初句二句の〈ほんとうにおれのもんかよ〉は、主体のモノローグととらえていいだろう。そして、三句以降は倒置となっていて、冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は、ほんとうにおれのもんかよ…、と読めよう。

 で、「わからない」のは、〈卵置き場に落ちる涙〉、のところだろう。卵置き場というのは、どの冷蔵庫にも必ずある、卵を冷やすために空いている円形のあれ、だ。その卵置き場(の穴に)涙がポタリと落ちているのをみて、主体は嘆いているのだ。

 と、かなり詳しく歌の解説をしてみたけれど、多分、まだこの歌の良さはわからないと思う。

 そこで、この歌を並べてみよう。

 

東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる

                          石川啄木『一握の砂』

 この啄木の作品を「わからない」という人はいないだろう。青年期の孤独感とか寂寥感とかといった感情が実によく詠われていて、誰もが深く共感することだろう。

 では、再び穂村の作品を読み返してみよう。こちらも、啄木の作品と同じく、青年期の孤独感や寂寥感といったものを詠っていると読めないか。

 そうなると、ここでの「わかる」のと「わからない」との違いというのは、蟹と遊んでいるのと、冷蔵庫を開けて覗き込んでいるのとの違いとなろう。

 今、違いと言ったけど、実のところ、私は、どちらも戯画化されたオーバーな描写だな、と思っている。啄木の歌でいうと、哀しみを表現するのに、蟹と遊ぶイジけた描写で同情を誘うなんてなあ、と思うし、穂村の歌でいうと、卵置き場に涙を落とすなんて、ずいぶんとまあ哀しみをオーバーに表現したもんだな、と思う。つまり、歌の構図は啄木も穂村も同じなのだ。

であれば、あとは私たち読者が、卵置き場に涙する青年に抒情できるかどうかということになる。もし、蟹と遊んでいる戯画化された情景に抒情できるのなら、穂村の戯画化された情景にも抒情できると思うが、どうか。

 では、ここで、「わからない」が「わかる」ためのキーワードを提出しよう。それは、抒情だ。現代の歌人も、近代の歌人と同じく、抒情したがっているのだ。抒情したいがために昔も今も人は詠うのだ。と思えば、少しは現代短歌が身近に感じるのではないか。

 ということを踏まえて、次の作品をみてみよう。次はこんな歌。

 

女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る 

                      斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

 コンサート会場の休憩時間とか、試合の終わったスタジアムの帰り際とかになると、女子トイレは大変混雑する。それは男子トイレの比ではない。トイレを待つ行列がトイレからはみだして通路にまで及んでいるなんてのは、いつだって女子トイレだ。主体は、そんな女子トイレからはみ出してしまった行列のしっぽを見ている。そして、それがかなりせつない、というのだ。何だか無理やり一文にしたような文体のねじけた感じも、主体の切なさを表現している、ともいえそうだ。

 しかしながら、多くの読者にとって、そうした女子トイレの光景はわりと見かけるものではあるけれど、それを見た主体が切なく思うことについては、さっぱり「わからない」のではないか。

 なので、先ほどと同じく、別の作品を並べてみよう。

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 

                        若山牧水海の声

 こちらはたいへんよくわかる作品だ。こちらの近代短歌の主体は、海辺で白鳥をみて哀しからずや…、と感嘆した。

 一方、斉藤のえがく現代の主体は、行列のしっぽをみて、せつない…、と感嘆している。つまり、私にいわせれば、どちらも何かを対象として抒情したがっているのだ。片や、海の上をただよう白鳥に、片や、女子トイレのはみだしている行列のしっぽに。抒情の対象が違うだけで、昔も今も、作歌の動機は同じなのだ。だから、牧水の歌の良さがわかる人は、斉藤の歌の良さもわかると思うが、どうだろう。

 せっかくなので、もう一首。

 

  ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

                          笹井宏之『ひとさらい』

 この作品については、先の穂村や斉藤の作品と比べて、一読「わかる」人が多いのではないかと思う。

 〈ねむらないただ一本の樹〉という、静謐でかつ幻想的なイメージ。〈ワンピース〉には清楚さや純潔さといったコノテーションが張り付いていよう。樹から落ちる〈実〉は、主体の分身であり、小さな生命の源であり、永遠性のメタファーともいえる。また、実が落ちる、のではなく、〈実を落とす〉という、主体の能動性を示す表現によって、主体の〈あなた〉に対するほの淡い情感も読み取れよう。

 作者の笹井は、幼少時から難病を患い、ほぼ寝たきりの状態で歌作をしていたという。瑞々しい抒情をたたえた作品を多く遺し、二十代で逝った。

 さて、この作品にも、近代の歌人の作品を並べてみよう。近代短歌で著名な病身の歌人、となると、そう、この歌人がふさわしい。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり

                                正岡子規

 笹井は、現代の子規といってもいいだろう。

 ただ、子規の場合は、目に見えるものをひたすら写生することで抒情したのだが、笹井の場合は、イメージを自在に飛ばして作品にした。起き上がって自由にあちこち見て感じることができないからこそ、ベッドの中で自身の詩的イメージをひたすら純化させて、透明感のある作品世界を作りあげたのだ。

 そして、その作品世界は、広く私たちの共感を誘う。抒情をたたえた作品であるからこそ、私たちは、笹井の作品世界が「わかる」のだ。

 

(『旭川歌壇』2020年所収)

<内容>についてのまとめ

 ここまで、このBlogでだらだらとお喋りしてきた議論のまとめの作業をしているが、今回は、<内容>についてまとめたい。

 ただ、<内容>については、本Blogではたいした議論をしていないので、すぐに終わる。

 短歌の世界では、どういう<内容>であれば、良い作品といえるのか。

 というと、実は短歌は、何を詠ってもいいんだろうと思う。

 どんな題材を歌にしても、詠い方によって、良い作品にもなれば、良くない作品にもなる、ということなんだろう。

 そんな短歌なのだけど、一方で短歌は「抒情詩」ともいえるわけで、じゃあ、その<抒情>というのは一体何なのか、その正体がわかれば作品の良し悪しも多少は測れるのではないか、という前提のもと、本Blogでは、<抒情>する作品とはいかなる構造になっているのか、ということについて議論をした。

 そこで、<抒情>の仕組みとして7回にわたって書き進めたのであるが、そこでも、話題を絞って、もっぱら<抒情>をもたらす「言葉」について議論した。

 短歌には<抒情>する「言葉」というのが存在する。では、なぜその「言葉」があると人は<抒情>するのかというと、その「言葉」の<コノテーション>の作用によるのだ、といったような話を進めてきた。また、<コノテーション>の作用のほかにも、<コロケーションのずらし>と名付けた技法によっても、<抒情>ができる、ということについても、主張した。

 この2つ、すなわち、<コノテーション>の作用、と、<コロケーションのずらし>についてが、今回、提出した話題であった。

 さて、この2つは、広義の<比喩>表現にあたる。

 そこで、<比喩>表現がどのように<抒情>をもたらすのか、という点について、次に話をはじめたところまでが、本Blogでの現在の状況である。

 続きはまたの機会に、ということにしたいと思う。

 

 と、いうところで、1年以上、60回以上にわたって長々と議論してきた、「名歌の仕組み」についてのテーマを閉じたいと思う。

 次回からは、ここ最近、主に紙媒体で発表してきた雑文をあげていきたい。

 

 

<文体>についてのまとめ③

 <文体>について議論している。

 繰り返しになるが、短歌の<文体>について、大きな分類としては、次の3つだ。すなわち、

 

・「近代短歌」の「私=作者」である<文体>

・「前衛短歌」からはじまる、「私=主体」である<文体>

・穂村の作品のような「語り手」が語る<文体>

 の3つである。

 

 そして、ほかにも「発話体」や「会話体」や「内心語体」や「対話体」とでも名付けることのできる各種ヴァリエーションが存在していることを確認した。

 今回は、こうした短歌の世界の<文体>というのは、どうして様々に発展を遂げてきたのか、ということについて考えたい。

 短歌の世界の<文体>は、どうして様々に発展を遂げたのか。というと、それは<リアリティ>の担保のためなんだろう、というのが、本Blogで提出した仮説であった。

 そこで、本Blogでは、短歌の<リアリティ>とはいかなるものか、について、9回にわたって議論したのだった。<リアリティ>というのは、要するに「本当らしい」ということだ。短歌を読んで、これは「本当らしいな」と思えば、良い歌で、「ウソくさいな」と思ったら、良い歌にならない、ということだ。

 そして、短歌に限らず、文芸全般として、「ウソのようなホント」より、「ホントのようなウソ」の方が、良い作品となる、ということがいえると思うし、短歌にも当てはまるだろう。だから、短歌作品もまた、いかに「ホントらしく」詠むかということに、技法として発展してきた、ということをBlogではおしゃべりきてきた。

 で、そうした<リアリティ>という前提の上に、短歌の<文体>も発展してきたというのが、本稿の主張であった。

 たとえば、短歌の世界には現在、<文体>の分類について、文語と口語という大きな2分法が存在する。文語というのは、昔の書き言葉だ。昔の言葉だから、現在は使われていないので、普段から短歌作品に見慣れていないと(というか見慣れていても)、一読、よく分からない、ということになって、短歌が敬遠される要因にもなる。それはともかく、何で短歌の世界に、文語が残っているのかというと、それは韻詩だから、ということなんだろうと思う。文語は短歌の韻律に乗りやすいのだ。どれくらい乗りやすいかというと、口語に比べて圧倒的に乗りやすい。だから、韻詩である短歌や俳句に文語が残っているのだろう。そうでなければ、短歌や俳句だけに文語が残っている理由なんて、ちょっと思いつかない。

 そんな文語なのだが、時代が下るにつれて、短歌の世界ではどんどん発展していった。言葉も生きているのだから変化していくのは当然で、奈良時代の文語と平安時代の文語と鎌倉時代の文語が違ってくるのと同様に、短歌の世界も「近代短歌」からかれこれ100年以上たっているんだから、明治時代の短歌の文語と現在の文語は、違ってくるのも当然である。それに、現在では、もう文語は普段の生活では使われていないわけで、短歌の世界だけで、独自の進展をしていっているといってよい。このような状況を、「文語のガラパゴス的進化」、といっている人もいる。なので、こうした、短歌独特の文語の文体は、もう「文語体」と名付けてもあながち間違ってはいないと思う。

 さらに、短歌の世界では、文語と口語が混ぜごぜになっても、すっかり許容されている。これを、「ミックス体」を呼んでいたりもする。この「ミックス体」も、ミックスのバランスによって、文語多め口語少なめの文語優位から、文語少なめ口語多めの口語優位まで、グラデーションになっていよう。

 ただし、筆者はこうした「ミックス体」の文体は基本的にすべて<文語調>として扱っている。なぜかというと、こうした「ミックス体」というのは、<韻律>面からの誘惑によるものだと思うからだ。特に、過去形や完了形の助動詞、「き、けり、つ、ぬ、たり、り」とか詠嘆の助詞「か、かな」なんていうのは、実に<韻律>に乗りやすい。これら助動詞を、作品の結句につけたりすると、どうにも短歌らしくなる。「けるかも」や「なりけり」なんてのがそうだ。そうした<韻律>の誘惑に負けて、<文語調>にしてしまうのだろうと思っている。

 一方で、完全口語で提出されている作品も多い。こうした作品は、<韻律>の革新とともに、<文体>も革新しようとする意志が筆者には感じられる。

 じゃあ、なんでまた、わざわざ<文体>を革新しようなんて思ってんのだろう、というと、これは、はじめに戻って、やはり<リアリティ>を求めた帰結なんだろうと思う。

 単純に言って、こうした完全口語で作品を作る立場の歌人というのは、「近代短歌」が連綿と発展させてきた、<文語体>に、リアリティを感じなくなったんだと思う。自分のリアルな思いに、<文語体>はあわないのだ。先ほどの「ウソのようなホント」とか「ホントのようなウソ」の例を持ち出すのなら、<文語体>は、どうにもウソっぽいと感じるのではないか。「けるかも」や「なりけり」なんて、自分の今ここの思いとは程遠い、古くさいものと感じてるんだろうと思う。

 ただ、そんな完全口語は、やはり<韻律>にはそうそう乗ってくれるものではない。実に乗りにくい。どれくらい乗りにくいかというと、文語に比べて圧倒的に乗りにくい。だから、短歌の世界では、完全口語の作品は、あれこれ試行錯誤をしながら進展していったと言ってよい。そして、現在では、<文語体>と比較してそこそこの<韻律>の口語短歌が提出されてきているというのが現状と考えている。であるから、筆者は、完全口語短歌は、成熟期の渦中であるというのが、筆者の立場である。

 歴史的推移をみれば、「近代短歌」は文語で詠まれてきているから、現在でも短歌は、<文語調>で詠まれているのが主流だ。多くの歌人は、それで自分の作品の<リアリティ>は担保されていると考えているのだろう。

 しかし、それでは自分のなかの<リアリティ>は担保されないと考えている歌人も少数ながらも存在していて、そんな歌人が、あらたな<文体>を提出している、といえるだろう。

 そんな一例として、Blogでは「心内語体」ともいえる作品の変遷を議論した。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                         今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                            脇川飛鳥

 

 このような、等身大の私、そのままの私の想いをダイレクトに詠いたい、という欲求が、こうした「心内語」だけで一首詠んだ「心内語体」とでもいえる<文体>でできた作品なのだと思う。

 そして、そうした<文体>が深化しているものとして、次の作品を提出した。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                           田口綾子『かざぐるま』

 

 この歌の革新性については、既にBlog内で述べている。

 以上、<文体>についてまとめるならば、短歌の世界での<文体>の進展は、<リアリティ>の担保によって牽引されてきた、というのが本Blogでの主張だ。

 単純にいって、「ホントのようなウソ」を上手につければ、それは良い作品、といえるわけだから、そんな「ホントのようなウソ」をウマくつけるような<文体>を求めて、短歌の<文体>というのは進展を遂げている、ということなのだと思う。

 

<文体>についてのまとめ②

 前回、短歌の<文体>について、3種類提出した。

 すなわち、

 

・「近代短歌」の「私=作者」である<文体>

・「前衛短歌」からはじまる、主体の見たことや考えたことや感じたことを、作者が主体に代わって叙述する<文体>

・穂村の作品のような「語り手」が語る<文体>

 の3つである。

 

 短歌の<文体>については、この3つに大方は分類される。

 ちなみに、小説世界の<文体>はどのように分類されるか、というと、「語り手」の「語り」によって分類される、ということになろう。「語り手」が一人称だったり、三人称だったり、と大きく分類されて、さらに、その「語り手」の語る「語り」については、「視点」や「焦点化」といった概念でさらに細かく分類されていく、ということになろうが、これはこれでかなり専門的な話になるので、やめておく。

 短歌の世界も小説世界の<文体>の分類にならってもいいとは思う。ただ、短歌の世界では、「近代短歌」によって形成された<文体>が、現在なおその影響を短歌の世界に強く及んでいるという歴史的経緯を踏まえ、先の3つのように分類するのが適切であろうというのが、筆者の主張だ。

 

 さて、そうはいうものの、短歌の世界には、先の3つにはあてはまらない<文体>も確認できる。

 例えば、主人公の「発話」。小説世界ならカギカッコで示されるやつ。シナリオならセリフ、漫画なら「ふきだし」と呼ばれているやつだ。この「発話」、短歌の世界では、独特の進化を見せている。

 

 「平凡な女でいろよ」激辛のスナック菓子を食べながら聞く

                       俵万智『サラダ記念日』

 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 

 1首目。これは、主体に対する他者の「発話」をそのまま、詠み込んでいるので、「私=主体」の<文体>に「発話」を挿入した作品、ということがいえる。

 2首目。これは、登場人物の2人が「発話」しているから、「会話」ということができ、「私=主体」の<文体>に「会話」を挿入した作品、ということがいえる。

 この程度なら大きな問題ではない。

 しかし、次の作品はどうか。

 

 ケンタおいトランプやつてゐるときは吉本隆明読むのやめろよ

                       荻原裕幸『あるまじろん』

 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

                       穂村弘『シンジケート』

 

 これらは、「発話」だけ、「会話」だけで、一首構成されている。

 こうなると、先の3つの分類に当てはめることができない。「発話体」「会話体」とでも名付けることのできる<文体>の登場だ。

 こうした、<文体>は恐らくは短歌独特のものだろう。

 次は、どうか。

 

 たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                        今橋愛『О脚の膝』

 非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                        田口綾子『かざぐるま』

 

 この2首は、主体の心の中でつぶやいた言葉、のような感じの<文体>だ。

 こうした、こうした心の中のつぶやきにも、ちゃんと名称がある。「心内語」という。小説世界で「心内語」は、分かり易くマルカッコで示されていたりする。ただし、「心内語」だけで、小説世界を成立させるのは恐らくは無理だろうと思う。なので、こうした、「心内語」だけの<文体>というのも、短歌独特のものだろうと思う。 

 続いて。

 この<文体>は何か。

 

 小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない

                       中澤系『uta 0001.txt』

 煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか

                       千種創一『砂丘律』

 ステッィクがきらいでチューブ入りの糊を好むわけを教えようか

                       高瀬一誌『火ダルマ』

 

 これらの作品は、他者に向かって話しかけている、という仕掛けを一首のなかにつくっている、という点で共通している。料理を作る人に、先輩に、読者に、といった具合である。「心内語」は他者の存在を必要としないが、ここにあげた作品は、とりあえず、料理を作る人なり、先輩なり、読者なり、といった他者が主体の眼前に存在している、という体裁をとらないと、こういう表現にはならない。こうした、他者に話しかけているという体裁でまるまる一首作られている表現様式を<対話体>とでも呼ぼう。

 これらの<対話体>は先にみた<発話体>と一見すると同じに見えるがそうではない。話しかけている他者の想定が違っている。<対話体>の方は、さほど親しい人ではない。つまり、「会話」をするほどの親しさはなく、あくまでも「対話」なのだ。

 次の作品も<対話体>に分類できよう。

 

 「こんにちは」との挨拶によりこのぼくをどうしてくれるというんですか

                     斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする

 

 こうやって提出してみると、<対話体>もひとつの独特な短歌の<文体>として分類できるような感じがする。

 

 それはともかく次回、こうした<文体>の種類について、引き続きまとめていきたい。

 

<文体>についてのまとめ①

 今回からは短歌の<文体>について、まとめていきたい。

 本Blogでは、主に<私性>をテーマとして、9回にわたって議論した部分である。

 そもそも短歌の<私性>と<文体>は、いかなる関係があるのか、というと、これは大ありで、というのも、「近代短歌」の世界では、作品を詠んでいるのは「私」であるというのが、大前提となっている。それは、近代文学のひとつのジャンルである「私小説」のような文芸である、ととらえても大きく間違っているわけではないと思うし、そもそも筆者は、明治期に標榜された自然主義文学の理想形が「近代短歌」である、というテーゼのもと、議論を進めている。

 それはともかく、「私小説」みたいなものなんだから、「私」の見たもの、感じたもの、考えたものを、「私」が詠んでいる、というのが「近代短歌」であり、そうなると、おのずと<文体>も、そういう形態になっていく、ということになる。

 

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり                                                 

                          正岡子規

 

 この子規の作品が典型だが、「私」が見ているものが詠われている。換言するなら、「私」の見えないこと、知らないこと、考えないことは、詠われない、ということでもある。これが「近代短歌」の<文体>だ。

 なお、この作品の「私」は誰かといえば、当然、病床にいる正岡子規だ。つまり「私=作者」だ。こうした決まりごとも「近代短歌」にはある。「近代短歌」は「私小説」のような文芸である、といっても大きな間違いではないというのは、こういう理由による。

 ただし、この「私=作者」は明文化されているわけではない。ただ、何となく短歌というのはそういうものだとして、作者は歌を詠み、一方、読者は歌を読み、その歌を理解してきたのだ。この読みの理解というのは、いわば、読みの作法みたいなものである。作品に「われ」「我」「吾」「私」「俺」など、とにかく、一人称がでてきたら、それは「作者」として読んでいいし、作品で、見えているもの、感じていること、考えていることは、それは「作者」のそれ、ととらえてよろしい、ということだ。

 けれど、そんな「近代短歌」にも今にして読み直したら、ちょいとおかしな<文体>の作品もある。

 

 東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる 

                           石川啄木『一握の砂』

 

 これなんかは、よくよく読むと、変な<文体>だ。

「東海の小島の磯の白砂に」は、作者である石川啄木の見ているものを詠んでいるかというとそんなことはない。啄木が見えているのは、蟹と砂浜だろう。

 この上句の視点は、イマドキの感覚でいうと、グーグルアースが東海の引きの画面からグーンとズームして蟹と遊んでいる石川啄木をキャッチしている感じだ。だから、筆者には、この上句の視点は作者というよりグーグルアースのように思える。

 けど、そうした議論がこれまでなされなかったというのは、やはり、近代短歌は「私=作者」である、という作法のもとで読んでいるため、よくよく読めばおかしな<文体>だとしても、大方は許容されていた、ということなんだろうと思う。

 さて、そんな「私=作者」が強固な「近代短歌」であったが、その「近代短歌」の文体>に変革を迫ったのが、「前衛短歌」だった。

 

 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ                             

                        塚本邦雄『水葬物語』

 

 塚本のこの作品は、塚本のアタマのなかでこしらえた「私」が主人公となっている。「私=作者」からの脱却だ。「前衛短歌」というのは、こんな<文体>の変革といったチマチマした議論だけの小さな変革じゃなくて、もっとダイナミックな運動体だったといえるけど、とりあえず、いま議論している<文体>論の狭い範疇でまとめるなら、「前衛短歌」は、「近代短歌」とは違う、新しい<文体>を提出した、ということは間違いがない。

 さて、ピアノがドロドロになっていく様子を見ている主人公、この人物も「私」には違いないけれど、「近代短歌」の「私」ではない。すなわち、「私=作者」ではない。じゃあ、誰か、というと、残念ながら、名称がない。そりゃそうである。「近代短歌」の世界では、「私」は「作者」以外にはありえなかったんだから。「前衛短歌」によって、これまでにはなかった新しい世界が作られたので、名称も新たにつけなくてはならない。

 そこで、1980年代の終わりくらいから、作品にでてくる「私」については、<作中主体>とか<主体>という名称で呼ぶようになった。

 この新しい「私」の出現によって、短歌の世界は新しいステージに入った、と筆者は考えている。つまり、「近代短歌」とは明らかに違う、別の種類の短歌である。もし、この別の種類の短歌に名前を付けるのであれば、「近代短歌」と区別するために「現代短歌」と名付けるのがいいと思っている。なので、時間的推移というか短歌史として、「現代短歌」の始まりはいつか、と問われたら、それは、「前衛短歌」の始まり、すなわち、1950年代初頭である、と答えよう。

 ただし、「現代短歌」というのは、時間的推移というより、「近代短歌」と区別するために提出した短歌の種類であるから、「現代の短歌の世界=現代短歌」ではない。

 現代だって、「近代短歌」の方がまだまだ圧倒的に多い、というのが短歌の世界の実情であろう。つまり、現代でも、作品の中で、見たり感じたり考えたりしている「私」は「作者」である、という前提で読む、という作法が受け継がれている、ということだ。

 

 さて、<文体>に話を戻す。「前衛短歌」によって、「近代短歌」とは違う、新しい<文体>が出現した、というところまで、話を進めたのだった。

 「前衛短歌」から30年くらい時代が進み、1980年代に入ると、短歌の世界には、またも新しい<文体>が出現する。

 

 終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて                   

                        穂村弘『シンジケート』

 

 この作品、何がこれまでの<文体>と違うかわかるだろうか。

 注目するのは「ふたりは眠る」のところだ。

 「私は眠る」でも「あなたは眠る」でも「僕らは眠る」でもない。そうじゃなく「ふたりは眠る」なのだ。

 これは、<文体>の議論でいうなら、短歌が「三人称」で叙述されているということだ。

 小説世界でいうところの「語り手」と呼ばれる人物の登場である。

 と、いうわけで、ここまでで、短歌には3つの<文体>がそろった。

 すなわち、

・「近代短歌」の「私=作者」である<文体>

・「前衛短歌」に代表される、主体の見たことや考えたことや感じたことを、作者が主体に代わって叙述する<文体>

・穂村の作品のような「語り手」が語る<文体>

 の3つである。

 

 では、これで<文体>のまとめは完了か、というと、そんなことはなく、短歌の<文体>には、他にもいくつかのヴァリエーションがある。

 そうした<文体>について、次回、引き続きまとめていくことにしたい。

 

<調べ>についてのまとめ④

 さて、ここまでは、強弱2拍子説で8音までの増音では<調べ>が崩れないことを検証した。

 この話題の最後に、どうにも<調べ>が良くない作品をみて、その良くない原因を探ってみたいと思う。

 ただ、近代短歌はもちろんのこと現代口語短歌だって、<調べ>が良くない作品というのは、それだけで作品のアベレージが低いわけだから、そうそうあるわけではない。けど、それでも、<調べ>のよくない作品を提出しているのは、あえて<調べ>の悪いことを何らかのアベレージとしている、ということはいえるだろう。であるから、そんな<調べ>の良くない作品というのは、本来的には<文体>や<内容>も含めて論じるべきなんだけど、今回は、とにかく<調べ>の検証であるから、そうした総体的な評価は留保するということを、あらかじめ断っておきたい。

 

 筆者が、意図的に<調べ>を崩した作品の典型として思い浮かぶのは、これだ。

 

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ

                         塚本邦雄『水葬物語』

 

 この作品の韻律についての議論は、これまでたくさん論点が出ているから、ここで何か新たな論点を提出するつもりはない。

 しかし、こうした意図的に<調べ>を崩した作品であっても、強弱2拍子で読み下せるということをここでは確認しておこう。

 すなわち、

 

「かくめーか・・・/さくしかにもたり/かかられて・・・/すこしづつえきか/していくぴあの・/」

 

 と、2拍子で読み下すことができるのだ。

 これはなぜかというと、初句は5音定型、2句は8音の5音3音分割、3句は5音定型、4句は8音の5音3音分割、5句は7音の4音3音分割、と、音節を2拍節で打つことができるからだ。

 ところが、次の作品は、そうはならない。

 

 もし子供がいたら我慢して雪遊びに付き合う自分になってるだろう

                      永井祐『広い世界と2や8や7』

 オレンジ色に染まってる中央通り 市ヶ谷方面 酒屋を右に

 閉店したペットショップを見つめてる青年サラリーマン まだ見てる

 

 1首目は、こんな感じだ。

「もしこどもが・・/いたらがまんして/ゆきあそびに・/つきあうじぶんに/なってるだろう・/」

 

 初句は6音で、5音定型プラス1音で拍は打てる。強拍が「も」で弱拍は「こどもが」の「も」または「が」だ。ここは、リズムが崩れないのは、前回までに議論した通りだ。

 しかし、2句は、2拍子では拍は打てない。3音5音は無理だ。

 さらに、3句の6音字余りで完全にリズムが崩れてしまっている。

 ただし、下句は2拍子ではまるので、一応短歌の体はなしている、という感じだ。

 2首目はどうか。

 

「おれんじいろに・/そまってる・ちゅう/おうどーり・・・/いちがやほーめん/さかやをみぎに・/」

 

 こちらも、初句7音だが、ここは拍節は打てる。「お」を強拍で、「い」を弱拍で打てば、等時拍の2拍子でリズムよくいける。しかし、2句3句の句跨りがリズムを崩している。さらに、2句の句割れが重なって、ここは2拍子が打てない。ただし、下句は2拍子で難なく読み下せるので、これで短歌の体をなしていよう。

 3首目。

 

「へーてんした・・/ぺっと・しょっぷを/みつめてる・・・/せーねんさらりー/まん・まだみてる/」

 

 こちらも初句増音で6音だが、ここは拍節が打てる。強拍が「へ」で弱拍が「し」または「た」だ。2句3句も2拍子で打てるが、下句は難しい。「青年サラリーマン」が拍にはまらないし、結句の1字アケが意図的にリズムを崩している。

 他の歌集からも提出したい。

 

 今年最後のゆうだちと知らずに君が水槽ごしに眺めてた雨

                     千種創一『砂丘律』

 君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす

                     堂園昌彦『やはて秋茄子へと到る』

 雲が高いとか低いよとか言ひあつて傘の端から梅雨を見てゐる

                     荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

 

1首目

「ことしさいごの・/ゆーだちとしらずに/きみが・・・・・/すいそーごしに・/ながめてたあめ・/」

 

 初句7音だが、ここは2拍子でとれる。しかし、2句3句の句跨りで拍がとれなくなる。「ゆーだちとしらずにきみが」は、12音だから単純に2句7音、3句5音で分ければいいかというと、そんなことにはならない。リズムが取れない以上、そんな分け方はできない。もし、ここを強引に2拍子で打つなら、表記のようになる。ただし、下句は、強弱2拍子で難なく読み下せるので、ここで短歌の体をなしている、といえよう。

 2首目。

 

「きみはしゃがんで・/むねにひとつの・/いきてしぬ・・・/さくらのそんざいを/ほのめかす・・・/」

 

 初句7音だが、ここは2拍子で打てる。しかし、下句は打てない。「さくらのそんざいをほのめかす」は14音だから単純に4句7音、結句7音に分ければいいかというと、そんなことにはならない。リズムが取れない以上、そんな分け方はできない。もし、強引に2拍子で読み下すとなると、表記のようになる。4句は「さ」を強拍で打ち、「そ」を弱拍で打つ。「そんざいを」は5連符でつめて読むということになる。そして、結句は5音としてリズムをつくることになり、<調べ>としては悪いといえよう。

3首目。

 

「くもがたかいとか/ひくいよ・・・とか/いいあって・・・/かさのはしから・/つゆをみている・/」

 

 この作品は、初句2句のリズムがとれない。「くもがたかいとかひくいよとか」の14音を強弱2拍子で打つのは困難だ。強引に2拍子で打つなら表記のようになるが、完全にリズムは崩れている。ただし、3句以降は、強弱2拍子で難なく読み下せるので、ここで短歌の体をなしている、といえよう。

 

 以上が、<調べ>を崩している作品の分析だ。

 字余りならすべて<調べ>が悪いわけでもないことが確認できたと思う。

 

 最後に、次のようにまとめておこう。

 

 強弱2拍子説というのは、

 等時拍で各句を2拍子で打つと<リズム>よく読める。すなわち、<韻律>の<律>が良いということだ。

 そして、2拍子で拍節が打てればいいのであるから、各句8音までなら<律>は崩れないということになる。

 この点をさらに細かくまとめるならば、以下だ。

 

・初句8音なら、4音4音分割なら<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

・初句7音なら、3音4音、4音3音なら<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

・初句6音なら、4音2音なら<調べ>は崩れない。また、3音3音なら、1拍を3連符でとれるので<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

 

・2句4句5句は、4音4音分割なら<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

 

・3句は、6音で3音3音なら1拍を3連符でとれるので<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

 

 以上が、本Blogでの<調べ>の議論での結論だ。

 

<調べ>についてのまとめ③

 今回は初句6音の検討からはじめる。

 

 半年前雪が積もった 半年前人にもらったUSBだ

                     永井祐『広い世界と2や8や7』

 日曜から土曜にわたる階段で僕は平たいアメーバになる

 

 この2首は、初句を4音2音に分けることができる。そして、強弱2拍子で読み下すなら、1首目は「はんとしまえ・・」として、強拍が「は」で弱拍が「ま」の2拍子だ。同様に、2首目の初句は、「にちようから・・」で、強拍が「に」、弱拍が「か」の2拍子となる。これら初句6音は、定型5音の休拍1コ分が1音節になった、ととらえればいいので強弱2拍子のリズムは、初句5音のときと変わらない、と、いえる。つまり、<調べ>は崩れていない。

 しかし、初句6音が4音2音ではなく、2音4音になると、これは<調べ>が崩れる。

 

 泣く機能がないひとなのか朧夜をかくも奇妙なこゑあげて行く

                     荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

 黒ぶだうの黒さを剝いてふかしぎなにごりを口にする朝の妻

 雨ふたたび降りはじめれば七月の傘おもむろに咲いてゆく街

 

 これらの作品は、6音すべて1拍におさめる感じで読まないとリズムはつくれない。

 すなわち、1首目なら「なくきのうが」を1拍におさめる。6連符のようにして畳みかけるようにして読む。そして、2拍目をまるまる休符にしないと、<調べ>がとれない。あるいは、「なくきのう」を5連符にして1拍につめこんで、2拍目を「が・・・」ととるようにする。ただし、6連符だろうが、5連符だろうが、読み下せばわかるが、拍節感に大きな違いはないので、ここは、どっちでもいい。いずれにせよ、初句5音の通常の強弱2拍子の拍節では読み下せない、という確認ができればいい。そして、通常の強弱2拍子の拍節に音節を嵌めて読み下せない以上、<調べ>が崩れている、といえる。

 ただし、3首目なんかは、崩れているのだけど、初句と4句のリズムに統一感があって、面白い<調べ>となっていることは、補足しておきたい。

 さて、初句6音のバリエーションには、もうひとつ、3音3音に分ける型もある。

 

 獏になつた夢から覚めてあのひとの夢の舌ざはりがのこる春

 荻原裕幸『同』

 名古屋駅の地下街はすべて迷路にて行方不明者ばかり三月

 父に頬を打たれるやうな懐かしい痛みのなかに咲いてゐる梅

 

 これら3首は、初句6音で3音3音に分けることのできるものである。この場合は、先ほどの2音4音の分解と同じく、1拍に6音をいれて一息に読む。つまり、6連符のように読む。しかし、2音4音と比べて、3音3音は3連符が2つ並んだリズムを感じることができないだろうか。この3連符のリズムを感じとることができれば、3音3音分割で生まれる独特の<調べ>の面白さが理解できると思われる。

 これは、3句6音でも同様だ。

 

 かつて、このBlogで3句6音の6連符の読み下し方を、次のように説明していた。

 引用開始

 

 うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しもひとりし思へば

                               大伴家持

 清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 

                          与謝野晶子『みだれ髪』

 

 2首とも、3句目に注目しよう。どちらも6音節「ヒバリアガリ」「サクラヅキヨ」となっている。

 より細かくみるならば、「ヒバリ/アガリ」「サクラ/ヅキヨ」と3音3音に分かれている。

 こうした3音3音になっているいわゆる字余りの3句のリズムは4拍子説だと拍節がとれない。なので、これは例外として扱われる。

 では、私たちは、この3音3音になっている3句目をどうやって読み下しているだろう。

 というか、そもそも3音3音になっているのだから、そうやって3音3音で区切って読んでいるに違いないのだ。つまり、「ヒバリアガリ」なら、「ヒバリ アガリ」と区切っている。

 そのように区切ると、一首全体のなかでこの3句がどんなリズムになるかというと、3連符が2つ並んだ感じになる。ここが3句3音3音字余りのリズムの面白さなのだ。

 その面白さを説明するには、「短歌のリズムは強弱2拍子の等時拍である」という定義に基づく「短歌強弱2拍子説」がとても都合がいい。

 すなわち、この作品は、こんな感じで読み下される。

 

ウラウラニ・・・/テレル・ハルヒニ/ヒバリアガリ・・・/ココロ・カナシモ/ヒトリシオモエバ

 

 2句目と4句目のアタマはオフビートで入ってもいいというのは、前回議論した通りだ。今回は、オンビートで入れて、3音節が終わったところで休符をいれてみた。また結句は、8音節なので、休符なしとなっている。

 では、注目の3句目をみてみよう。ここのところは、「ヒバリアガリ」の「ヒバリアガ」を5連符として1拍で読んで「リ」を2拍目アタマと読むのが正確な2拍子の等時拍になろう。けれど、読めばわかるが、「ヒバリアガ」の5連符で読もうと、ひといきに「ヒバリアガリ」と6連符で読み下そうと、さほどリズムの違いはない。3音3音のつながりだから、普通に読めば3連符が2つ並んだように読めるのだ。

 私は昔から、この3句3音3音の6音節の3連符読みの面白さをどうやったら説明できるかと、ずっと思案していたのだけど、今回、「強弱2拍子説」ですんなり説明ができて、とてもすっきりしているところである。

 

引用終了

 

 つまり、初句と3句の定型5音のところは、6音でも<調べ>は崩れないというのが、筆者の主張である。

 

 さて、話を初句増音にもどそう。

 初句7音、初句6音とみて、残るは初句8音となった。

 初句8音も、等時拍強弱2拍子説であれば、許容できる音節、となっている。

ただし、それは、4音4音分割に限る。それ以外は、<調べ>は崩れる。

 初句増音の作品の多い荻原裕幸『リリカルアンドロイド』にも初句8音はある。

 

 昨日のわたしが今のわたしを遠ざかる音としてこの春風を聴く

 サンダーバードの書体で3と記された三階のかたすみは朧に

 スマホの奥では秋草の咲く音がする結局そこもいま秋なのか

 

 これらはすべて4音4音分割の初句8音である。一応、音節であらわすと、句跨りのない三首目を例に上げると、以下のようになる。

「すまほのおくでは/あきくさのさく・/おとがする・・・/けっきょくそこも・/いまあきなのか・」

 初句「す」を強拍で「お」を弱拍で読み下せば、<調べ>が崩れずに2句以降へと読み下せるのが確認できる。

 

 そういうわけで、ここまでのところをまとめておく。

 

 強弱2拍子説の<調べ>の検証であった。

 初句であれば、8音までなら<調べ>は崩れないという仮説をたてて、検証した。

 結果、

・初句8音なら、4音4音分割なら<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

・初句7音なら、3音4音、4音3音なら<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

・初句6音なら、4音2音なら<調べ>は崩れない。また、3音3音なら、1拍を3連符でとれるので<調べ>は崩れない。それ以外は崩れる。

 

 次回に、続く。