穂村弘『水中翼船炎上中』を読む2

前回、穂村弘の新歌集『水中翼船炎上中』を取り上げたが、せっかくなので、もうしばらくこの歌集を読み解くことにしよう。
この歌集の構成は、現在から、少年時代の回想へ向かい、青年期へ行き、母の死をむかえ、再び現在に戻るという構成になっている。
少年時代の回想というのは、穂村自身の少年時代と重なるから、昭和四〇年代で、この前亡くなった、さくらももこちびまる子ちゃん」の時代設定とほぼ重なる(穂村が三つ年上である)。この時代に子ども時代を送った同世代には、より共感性が高いだろう。

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕

 

連作「楽しい一日」の巻頭作品。この一連で穂村は第四三回短歌研究賞を受賞している。連作は、一人っ子の「ぼく」を主人公として核家族だった少年時代を、掲出歌にある「食堂車」「富士山」といったようなベタなアイテムを並べてノスタルジックに描いた作品がえんえんと続く。
私は、この連作を初出当時の「短歌研究」誌で読んだが、あまりに作為的でちょっとグロテスクな印象を持ったものだ。今回、歌集におさめられたのを改めて読むと、全体の構成のせいか、そんなに露悪的な感じは受けず、わりとうまく連作構成がなされていると感じた。

ハイドンの羊あたまの肖像を見上げる夏の音楽室に

夏休みの朝のお皿にさらさらとコーンフレーク零れつづける

モウスコシガンバリマショウが降ってくる桜並木の下をゆくとき

 

作品の多くに、当時の子ども時代を彷彿とさせるアイテムが登場する。一首目なら音楽室の肖像画であり、二首目であればコーンフレーク。(なお、この二首目にある「さらさら」という凡百なオノマトペは、「お皿」の韻律を整えるためだけにあることに注意したい)。三首目だったら、上句は通信簿の評価の言葉がノスタルジーを喚起させるアイテムとなろう。なお、三首目の読みとしては、その通信簿の評価の言葉が、空からひらひらと花びらのように降ってくる、という隠喩表現ということでいいだろう。下句からすると、三学期の終業式のようだ。
こうした作歌の手法としては、ノスタルジーの喚起を通して抒情しようとしているわけで、わりと安易である。ただ、そうしたものを並べたところで、凡百の歌人なら、ああ、そんなことがあったね、で終わる。そのノスタルジーの喚起するアイテムを使っていかに詩歌に昇華させるかが一流歌人しての腕前。その、職人芸をここでバラすなら、読者に少し、オヤ? と思わせればいい。実は、それで詩歌になる。一首目は「羊あたま」という造語、二首目は「零れつづける」という結句現在形、三首目は上句の隠喩といった技法だ。

お茶の間の炬燵の上の新聞の番組欄のぐるぐるの丸

 

これも、「炬燵」「新聞の番組欄」といった、ベタなアイテムが使われている。そして、やはり、「ぐるぐるの丸」に見られるような、凡百のオノマトペを使いながらも、造語的で、だけど、すぐにピンとくる共感性の高いところを詠うのが、絶妙である。そして、毎回指摘しているが、上句からずーっと続く写実的な描写による作品のリアリズムは、ここでも健在だ。