短歌の「読み」について②

「読み」の話題に2回目である。
 鶴田の時評の関係部分をもう一度、引用しよう。

 

 その頃(二〇年以上前―引用者)の批評会は、もう少しテキスト寄りであった。助詞・助動詞の使い方の細かい指摘や表現上の粗さ、癖などを厳しく読み、やわらかい雰囲気というより、多少張りつめた空気の中で一冊が語られていたように思う。
 しかし、最近の批評会はもう少し読み手の自在な読みが展開されることが多いようだ。読み手が歌を自分の側に引き寄せて、その歌を喰らいつくすような。歌を読むというより、歌を通して読み手自身の短歌観を聞いているような。どう読むかにとどまらず、どこまで読めるか、を目指しているような。その分、引用される歌にも読み手の個性が表れて、同じ歌集からの引用でも全く違う雰囲気の歌が並ぶこともあり、面白くもあるのだか、面白がっていいのかという懸念もある。
(中略)歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよいのではないか。
(鶴田伊津「ひとかけらの真実」角川「短歌」2020年4月号)

 

 鶴田は、従来の「読み」と、最近の批評会で展開される「読み」の2つを提示し、そのうえで、最近の「読み」について、「歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよいのではないか」と、批判的に論じている。
 鶴田の結論部分にある「言葉に沿ってその歌を読む」というのは、鶴田のいう「テキスト寄り」の「読み」ということであろう。
 こうした「読み」について、私は、前回、斉藤斎藤のツイートや大辻隆弘の論考から、類似、ないし、同じ事象のことをいってんだろうと思われるところを提示した。
 これらの議論をふまえ、私見を述べるのであれば、一首評については、「形式主義的批評」のほうが、生産的な議論ができるであろうと考えている。この「形式主義的批評」とはどんな批評のことをいうかという点については、本Blogの「歌会」についての話題のなかで、主張した記憶がある。また、これまで「調べ」について、さんざんお喋りしたが、そこで引用した歌についても当然ながら作品の内容面についての批評ではなく、すべて、韻律面で一首を分析しており、極めて形式主義的であったといえよう。
 私のいう「形式主義的批評」をごく粗くいえば、一首について、その作品の背景や、作者の境遇などを一切、「読み」の情報に加えず、とにかく一首を「テクスト」として分析せよ、ということだ。
 例えば、前回、大辻隆弘が、大口玲子を例にあげて、「物語読み」について持論を展開していることを提示した。そこで、大辻は、「大口玲子の一首を読み、そのなかの「作中主体」の行動に感心し、歌集『トリサンナイタ』の背後にある「子どもを放射能から守るために放浪を決意する母親」という「私像」に共感する。さらに、その「私像」を「大口玲子」という生身の個人と同一視し、その行動に喝采を送る」と、「物語読み」について論じたのだが、こうした読みを私は否定する。
 そうじゃなく、『トリサンナイタ』であれば、そこから一首とりあげて、修辞がどうのとか、韻律がどうのとか、構成がどうのとか、とにかく、作品をテクストとして分析するべきなのだ。大口玲子がどんな境遇にある女性なのか、知る必要はない。もっといえば、女性という属性も必要ない。そもそも「テクスト」として分析するのだから、作者が誰なのかは、情報としていらないのである。
 そのような「形式主義的」批評のほうが、生産的な批評ができるであろうというのが私の主張だ。

 では、そうした私のいう「分析批評的批評」というのは、前回取り上げた、斉藤の「読者主義」や大辻の「刹那読み」とは違うか。と、いうと、これは違う。
 鶴田の結論部分を援用するなら、「歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよい」ということだ。
私の言葉で言うと、要は、テクストにある以外の情報で、テクストを分析するな、ということにつきよう。
 そうなると、鶴田と私は、同じ意見か、というと、そういうことでもない。これが、短歌の「読み」の議論の面倒なところである。
 なぜかというと、私が言っているのは、あくまでも一首評であれば、という前提でのことだ。例えば、歌会の場で提出された一首について、何か意見をいう場合がそうだ。
 しかしながら、現代の短歌の批評というのは、一首評ばかりではなく、連作での批評や、歌集評をいうのもある。なかでも一般的なのは、歌集の批評だろう。なので、一首評、連作の批評、歌集評、といったレベルの批評があるということを確認しておかないと、無用な混乱を引き起こすことにもなりかねない。
 今回、鶴田、斉藤、大辻の三人の主張を引用したが、斉藤斎藤は歌会の一首評について、「作者主義」「読者主義」「いいね主義」の3つの批評の立場あると主張した。これについて、私は、「読者主義」については否定的だ。あくまでもテクストに拠るべきだという立場だ。(残り2つについては、ちょっと分からない。留保したい)。
 大辻の「刹那読み」と「物語読み」は、一首評での議論であろう。であれば、この両方の「読み」についても、テクストに拠って批評しない以上、私は否定的である。
 他方、鶴田の議論は、歌集の批評会での議論であった。であれば、また、違う議論になろう。つまり、「読み」が違ってくる。「形式主義的」な批評で歌集を批評するのは、なかでも近代短歌の歌集の場合は、あまり生産的な議論にならない、というのが現時点での私の考えである。
 つまり、短歌の場合は、一首評、連作での批評、歌集評、それぞれ「読み」が違ってくる、というのが私の意見である。そして、それは、短歌特有の事情によるのだ。
 では、その短歌特有の事情とは何か。

 …そういうわけで、次回もまたもう少し「読み」について、考えていくことにしたい。