短歌の一首評について


 下にあげるのは、河野裕子の作品である。

 

 限りある生を互みに照らしつつほたるの点滅に息合はせをり
 河野裕子『桜森』1980年刊

 

 たとえば、私が、この歌を批評せよ、と言われたら、粗々こんな感じになる。

 上句で主体は蛍へ心を寄せているのがわかる。初句に「限りある生」と強い言葉からはじめて、一首を整合させていくのは、なかなか勇気が必要だ。蛍が点滅している様を「互みに照らしつつ」を描写しているのは素晴らしい。下句で、主体の動作が描写される。蛍が点滅している様を「息合わせをり」と詠っているのが、この歌のポイントとなる。この描写によって、蛍の限りある生に寄り添う、同じ「限りある」命を生きる主体と重なり、生のはかなさが表現されている。
 蛍には、はかなさといったコノテーションが張り付いており、そうした蛍のイメージを効果的に詠っていて、夏の夜の寂しさを表現することに成功した。
 4句の字余りによって「ほたるの点滅」がもたつき、結果、リズムの面でも4句が強調される効果を導いている。また、結句が232に細分されることで、スピードを緩めて「をり」に余情を引き出している。

 

 これで、だいたい400字だ。あと、何度か書き直せば完成稿となろう。
 実は、この作品は、結社誌『塔』4月号の裏表紙の「河野裕子の一首」という連載ページからとった。執筆は澤村斉美。
 こちらを引用するので、比較してほしい。
 ただし、これは批評ではなく、鑑賞文であることをあらかじめ確認しておく。

 

 ゆっくりと光が点っては消える蛍。数々の蛍がそれぞれのリズムで点滅し、照らしあう幻想的な景色のなか、作者はその点滅のリズムに息を合わせているという。光の点滅は一、二週間ほどを生きる蛍の生の姿そのものだ。息を合わせていると、自身の「限りある生」もまた照射される思いがするという一首。
 蛍は蝉と並び、河野裕子が繰り返し詠った素材である。河野の蛍の歌には古典和歌以来の手法、つまり魂や死者のイメージを重ねる手法や、近代の写生的な詠み方をしているものがある。また、蛍の点滅を「呼吸」と捉えることは佐藤佐太郎に、「息合はせ」は石本隆一に先駆表現がある。しかし、掲出歌や第二歌集『ひるがほ』の「生まれ来しわれの暗さに遡行してほたるは水に触れつつ飛べり」などは、暗闇のなかに生の根源を浮かび上がらせるところが実に河野らしい。当時までに見られた蛍の歌の様式を更新しており、河野もその意欲が十分だったのではないか。

(澤村斉美「河野裕子の一首 28」『塔』2020.4)

 こちらも原稿用紙1枚、400字だ。

 さて、両者の文章を読み比べてみよう。
 澤村の第一パラグラフは、歌の解釈であり、私と澤村の「読み」の相違はなさそうである。同じように解釈し、鑑賞していよう。ただし、ここで、注意しなくてはいけないのは、私の文章は「主体」を使い、澤村は「作者」を使っているところである。ここが、いかにも短歌の鑑賞文らしいところである。鑑賞文であれば、私も「作者」と使いたいところだ。つまり、澤村は、このうたの心象は、河野裕子本人であるという前提で、すべてを語っているということである。
 続いて、澤村の第二パラグラフは、河野の蛍という素材の扱い方について、話をひろげる。短歌の鑑賞文というのは、その一首だけではなく、一首が詠われている背景について解説を施すということをして、一首を深く掘り下げるのである。
 今回、澤村は、河野の蛍の扱い方を解説することで、一首の背景を説明している。すなわち、河野は、蛍を歌の素材としてよく使っている、そして、その歌い方には、古典的な手法も、近代的な手法もある。さらに、この歌い方は、ほかの歌人にも先駆表現があるが、河野の歌い方は当時までの蛍の歌の様式を更新していると解説する。ただ、ここのところで、「様式を更新しており」まで言い切ってしまっているのが、ちょっと残念だ。自説を提示してそれについて反証する紙幅がないのであれば、はじめから言わないほうがよかった。それこそ批評文や研究論文ではないのであるから、さらりと「個性的だ」とか、「違った蛍の歌の魅力をひきだした」あたりでおさめたほうがよかったかな、というきらいはある。
 それはともかく、こうした澤村の文章は、典型的な鑑賞文であるといえるし、今回の文章は、河野の一首の魅力を短い紙幅で最大限に引き出している、上質な文章ということがわかる。

 一首の鑑賞文というのは、こういうものである。
 まず、一首の「読み」を提示して、その「読み」に従って、一首を味わう。これが150字くらい。けど、それだけではなく、一首の背景も提示する。なぜならば、短歌というのはいかにも短いものであるから、それだけだと、味わうには情報が少なすぎるのである。そこで、作者の人となりや、一首の歴史的な背景などを提示して、一首をいろんな角度から掘り下げるのだ。今回の澤村でいえば、河野と蛍の歌い方の変遷を提示して、一首を深く掘り下げたわけであるが、ほかのやり方としては、この歌ができた当時の河野の境遇とか、社会事象あたりを、年表を参照したりしながら書くわけだ。ほかにも、短歌辞典を引っ張り出して、「蛍」の項目に目を通することで、「蛍」の有名な歌と比較したりして、この歌のより優れた部分を提示する、なんていうやり方があるだろう。
 そうして書いた内容を、今回であればなんとか400字に収めるために取捨選択して1文を書き上げるというのが、短歌の一首の鑑賞文である。
 であるから、短歌の鑑賞文というのは、その歌の作者名は必須だ。そして、作者の属性も必須だ。つまり、今回でいえば、河野裕子というクレジットは当然ながら、河野裕子という歌人は、どんな歌人なのかという情報は必要である。また、鑑賞する側も、河野裕子という属性を知っておいたほうが、より深く鑑賞ができよう。
 以上が鑑賞文だ。
 では次に、批評文を考えよう。
 鑑賞文と批評文の違いはなんだろう。
批評というのは、やはり一首を「テクスト」として分析することだ。そして、分析には、分析に必要な道具(ツール)があればいいわけで、ほかの情報は必要ない。と、いうか、「テクスト」以外の情報を持ち出して、批評するのはおかしいというのが、私の立場である。
 「テクスト」に関する情報は必要ないのだから、例えば、作者名のクレジットは必要ない。作者が誰だか知る必要はない。だから、「テクスト」に登場する人物は、必然的に「主体」という用語で呼ぶ。それから、歴史的背景も必要ない。いつ作られたのか、とか、「テクスト」の言葉にはどんな歴史的な事情があるのだとか、そんなことは必要ない。つまり、年表は必要ない。
 ただし、詩歌の批評だから、修辞分析、なかでもコノテーション分析は必須だ。たとえば「蛍」という言葉には、これまでどんなコノテーション効果があったか、そしてこの作品はそれを踏襲しているのか、あるいは、これまでのコノテーション効果をズラすことで新しい詩的効果を得ているのか、といった分析は詩歌批評としては存分にするべきである。今回で言うと、「蛍」には「はかなさ」といった詩情が貼り付いている。こうしたコノテーションを踏襲しているのか、あるいは、刷新しているか、という議論は修辞分析としては必要であろう。
 また、コロケーション分析もやっておいたらよい。この歌でいうと、「点滅」「息合わす」という組み合わせは、広義のコロケーション効果として、詩的効果を上げていると思う。(澤村の鑑賞文で、その点を取り上げているのは流石だ)。なので、そうしたところは、批評したい。そのほかに、取り上げる作品に何らかの比喩があれば、その比喩表現も分析の遡上にあげるといいであろう。(なお、私は、コノテーション、コロケーションともに広義の比喩表現であるという立場をとっている)。あるいは、その作品にオノマトペがあったなら、そのオノマトペについて分析し、批評するのは当然だろう。とにかく詩歌である以上、そこで使用されている修辞についてきちんと取り上げて分析しないと、それは批評とはいえないのだ。
 そのうえ、短歌は韻詩である以上、韻律分析もするべきだ。今回、400字では、あまり深く言えないけど、「ほたるの点滅に」の4句9音節は、やはり論じるべき部分と思う。

 と、いったような感じで、一首は批評されるべきであり、批評というのは、かなりテクニカルな作業といってよいだろう。
 そして、こうした「形式主義的」批評が、「歌会」の場でも行われるようになれば、「歌会」での無用な誤解や無駄な混乱がなくなるだろうというのが私の意見である。
 つまり、一首評というのは、まず、「読み」の解釈、そして「テクスト」分析の手順で進めればよく、分析の結論としてもし必要であれば、作品の優劣のジャッジをする、ということになる。
 一方、鑑賞文というのは、まず、「読み」の解釈、そして、一首の背景の解説の手順で進めればよく、もし紙幅があれば、筆者の感想などを加える、ということになる。ただ、鑑賞文は、そんなにテクニカルにやる必要はなく、基本はエッセイなのだから、書き手のコナレタ文章を愉しむという点も重視されようから、大まかなフォーマットとして考えればいいだろう。

 そうなると、前回までに登場した、大辻の提示した「刹那読み」「物語読み」は「歌会」の批評としては明確にNG、ということがわかるであろう。あるいは、斉藤斎藤の提示した「読者主義」、鶴田伊津の提示した「読み手の自在な読み」も否定されよう。

 さあ、これで一首評はいいだろう。
 しかし、短歌には、一首だけではなく、連作単位、歌集単位での批評というのが存在する。これが、短歌の批評を複雑にしているのである。
 次回こそは、話を進めて、短歌の「連作」や「歌集」について議論することにしたい。