連作の「読み」とは②

 短歌の「連作」についての2回目である。
 前衛短歌運動のなかで勃興した、大きな主題を扱う「連作」については、前回否定的に述べた通りである。
 では、そうした前衛短歌運動での「連作」ではなく、数首詠ったものを、順番に並べるようなよくある連作というのは、どうやって批評するか。
 前回、例として正岡子規の「墨汁一滴」をあげたが、これは子規が新聞「日本」に明治34年に連載した随筆集である。そのなかに10首連作が挿入されているが、この連作の冒頭の1首<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり>がとても有名であり、一首評も多い。
 ただし、この一首だけでは、子規がどのような人物なのか、とか、どういう境遇でこの歌を詠んだのか、ということまでは分からない。
 では、2首目以降であればどうだろう。

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ
藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり

とあり、藤の花を続けて詠んでいるのがわかる。読み手からすると、作者は、ずっと、藤の花を見て、あれこれ空想したりしているんだなということがわかってくる。
そして、6首目に

瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす

とあり、ここで子規が病床にあることがわかり、寝ている状態の低いところから藤の花を観察していることがわかってくるのである。
 つまり、これが連作の読み方である。
 例えば、6首目の<瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす>の一首だけなら、子規が病床にいることはわかるけど、藤の花がどのような状態かを読者はイメージすることはできない。
 一方、<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり>では、子規が病床にあることはわからないが、藤の花の状態が、読者にはイメージできる。
 つまり、連作を読むことで、藤の花の様子や子規の境遇が、より立体的にわかるという仕組みになるのである。
 であるから「連作」というのは、やはり配列や構成は必要になってくるということがいえる。いうなれば、「連作」は散文でいうところの「エッセイ」としてとらえるといいだろう。
 別に古典を例にあげる必要もないのだが、だれもが知っている「枕草子」でいえば、「春はあけぼの」なら「春はあけぼの」という一本の「エッセイ」と短歌の「連作」は同じようなものだと考えたらよい。
 一本のエッセイがたとえ400字程度のものだとしても、それなりの構成は必要になるだろう。
 また、読者は、そのエッセイを読むときに、いったいいつの時代のエッセイなのか、平安なのか昭和なのか令和なのかといった時代背景を知らないと、「春」のとらえ方は違ってくるだろうし、書いた人物の属性も知らないと読んでいてピンとこないはずである。つまり、男か女か、とか、年のころはいくつか、とか、どんな職業・身分の人なのか、とか、そういう属性を知ってはじめて、「枕草子」にある、「春」の書かれてある内容について、ピンとくるのである。そうやってエッセイの内容を理解して、やっと批評にはいるということになる。
 短歌の「連作」も、1本の原稿用紙数枚の「エッセイ」と同じ読み方になる。時代背景や作者の属性がわからないと、いまひとつピンとこない、ということになる。
 現在でも、いろんな雑誌に、いろんなコラムやエッセイが載っていよう。そして、私たちが、普段、読む機会のないエッセイを、たまたま、例えば病院や銀行や美容院の待合で時間つぶしに開いたとする。
 その時、知らない作家だったら、果たして私たちはそのエッセイを味わえるだろうか。知らないだけではなく、作者の名前が、男女の属性すらわからない名前の作家だとしたら(昔でいえば「かおる」とか「ひろみ」とか「まき」とか)、どうするだろう。おそらくは、書いてあるテーマや内容で、そのエッセイを書いた人物についてあれこれ詮索したくなるのではないだろうか。つまり、男か女か、歳の頃はどれくらいか、どんな職業か、どんな嗜好を持っているか、そうやってあれこれ予想しながら、そして、こういう内容を書く作家というのは、こういう人物なんだろう、と読み手が自由にあれこれイメージして読むんじゃないだろうか。
 あるいは、ある程度知っている作家のエッセイの場合ならどうだろう。「ああ、この人らしいなあ」とか「え、こんなこと思うんだ、ちょっと意外だなあ」とか「この人のエッセイはやっぱり面白いなあ」とか、「ますます興味がわいてきたなあ」とか、そのライターの認知具合によってさまざまな感想を持つようになるのではないか。
 短歌の連作の「読み」というのも、基本は「エッセイ」の読みと同じなのだ。
 もし、属性のよくわからない歌人の「連作」であれば、こちらで、作家像をあれこれイメージして読むことになるし、知っている歌人だとしても、その歌人の認知具合によって、その連作を深く味わえたりそうでなかったりするのである。
 いかがであろう。
 これが短歌の「連作」の「読み」である。
 さあ、ここまで理解が進んだところで、それでは、岡井隆の有名なテーゼをだすことにしよう。

 

 短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 引用した部分、「短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」のところは、短歌の<私性>のテーゼとして有名であるが、そのまま「連作」のテーゼとしても有効である。そして、そのまま、エッセイのテーゼとしても通用するのではないか、とも思う。

 そういうわけで、連作の「読み」というのは、作者の属性が分からないと、あれこれ詮索したくなるくらい、作者の属性が分からなければ味わえないものなのだ、ということである。
 つまり、一首評とは、おのずと「読み」が違ってくるのだ。

 そして、「連作」の「読み」ができたら、続いて、批評に入る。
 では、「連作」の批評とは、どのようにしたらいいだろう。
 まず、「連作」の批評というのは、大きくわけて2つある。
 1つは、「連作」の構成についての批評である。歌の配列について、あれこれ批評するというものである。けど、これは、「エッセイ」でいえば、文章の構成について批評するようなもので、あまり批評としての意義は大きくない。
 もう1つは、各々の歌を「一首評」ではなく「連作」として批評する立場である。これには、手順があって、まず、作者の属性の情報を出来るだけ集める。有名は歌人の連作であれば、すでに情報があるのでここの作業は端折ることはできる。
 そのうえで、批評に入る。批評の手順としては、「連作」の主人公であるところの「主体」がきちんと整合性のある人物として描かれているかどうかの分析である。近代短歌の「読み」の作法だったら、<主体=作者>だから、整合性も何も、たった一人の人間を描いているという前提で読んで、作者の心情と短歌表現の有様について分析を施すということになるが、現代短歌となると、そうはいかない。「連作」として、岡井が言うようにちゃんと「主体」の行動に整合性があるかどうか、という分析は「連作」批評としては必須だ。広義のリアリティの担保だ。「エッセイ」だって、筆者の言ってることや、やってることが支離滅裂だったら、「なんか、このエッセイうそくせえなあ」とか「こいつ、ええかっこしいだなあ」とか「よくある話でつまらんなあ」とか、そんな感想を持つだろう。「連作」も同様だ。主体の行動に整合性がないと、リアリティが担保されなくて、つまらない一連となる。
 批評で重要なのは、詠われている内容の分析ではなく、あくまでも「主人公=主体」の整合性の分析である。詠われている内容についてあれこれ論じるのは、鑑賞文の類とおさえたほうがいいだろう。
 そうした「連作」の批評をしたうえで、あとは、各首の「一首評」ということになる。ここに至れば、あとは「形式主義的」な「一首評」で十分分析に耐えることができるだろう。すなわち、短詩型文芸の修辞技法について、一首単位でこってりとできるということだ。
 これが、「連作」の批評ということになろう。