前回までと同様、穂村の論考をもとに進めていこう。
穂村弘は、吉川宏志の作品から、リアルの「構造」を抽出している。
それは、こういう歌からだ。
門灯は白くながれて焼香を終えたる指の粉をぬぐえり
吉川宏志
秋陽さす道に棺をはこびだし喪服に付いた木屑を払う
この吉川の2首は、同じ<構文>でできていると穂村は言う。
<構文>とは具体的に、「門灯」と「秋陽」、「焼香を終えたる」と「棺をはこびだし」、「指の粉をぬぐえり」と「喪服に付いた木屑を払う」の組み合わせが、殆ど同一のパターンで書かれていることを指している。特に大きなポイントは「指の粉」や「喪服に付いた木屑」といった具体的で小さな違和感に着目して、そこを丁寧に描写していることだ。
(穂村「『実感の表現』をめぐって」『短歌の友人』河出書房新社)
「具体的」と「小さな違和感」というキーワードが出てきた。吉川の作品にある、「リアリティ」は、この「具体的」と「小さな違和感」によるものといえるだろう。そして、それがすなわち、リアルの「構造」と呼べるものなのだ。
もう少し、吉川の作品を見ていこう。
くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶(ものう)きときを
吉川宏志
この作品にある、「具体的」で「小さな違和感」はどこだかわかるだろうか。
そう、<かすかにかたむけり>の部分だ。
旅に出た夕方の物憂げな時間帯に、主体は果物屋さんの前を通りがかった。そのさい、果物の載っていた台が、かすかにかたむているのを発見した、という歌である。
歌の内容としては、私に言わせれば、実にどうでもいいことを詠っているのだが、こうしたどうでもいい内容の歌が、良い歌として評価されるのは(ちなみに私もこの歌は、良い歌と評価する、つまり、歌の良し悪しというのは、歌の内容ではないということなのだが、それは、別の話題である)、ひとえに、<かすかにかたむけり>というリアリティに拠っている。
そのリアリティを担保するのが、「具体的」で「小さな違和感」であり、この作品であれば、かすかにかたむいていた、ちいさな違和感の具体的な描写、ということになる。
穂村は言う。
「かたむけり」が一首にリアリティを与えている。現実には真っ直ぐであっても「かたむけり」と書くことで「実感の表現」が可能になるとも云える。「大きく」ではなく「かすかに」かたむいていることも重要だ。違和感が小さければ小さいほど読者の受け取る現実感は逆に大きくなる。「指の粉」「木屑」のささやかさを想起されたい。
(穂村、前掲書)
現実には傾いていなくたって、<かたむけり>と詠うことで、リアルになる。ホントは真っ直ぐでも、真っ直ぐと詠うとリアリティは担保されない、といっているわけだ。なんて、短歌は罪深いんだろう。
そうそう、前回までに紹介した歌をもう一回提出しよう。
こんな歌だった。
うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
村木道彦
「うめぼしのたね」のリアリティはどこからくるか。と、いうと、まずは「具体的」である。けど、コカ・コーラの缶も「具体的」である。しかし、「小さな違和感」でいうとどうだろう。コカ・コーラには違和感はないだろう。夏のベンチに置かれているものとして、コカ・コーラは、かなりいい線をいっていよう。一方、うめぼしのたねは、オヤッとした感じになる。現実的にあり得るモノだから、大きな違和感はないだろうが、小さな違和感があるだろう。
もう少し、穂村の論考から、例歌をあげてみてよう。
おさなごの椅子の裏側めしつぶの貼りついており床にしゃがめば
吉川宏志
所在なき訪問客と海を見るもろもろのペンキはがれる手すり
東直子
「具体的」「小さな違和感」のキーワードを補強する例歌だ。
吉川のは「めしつぶの貼りついており」、東のは「ペンキはがれる手すり」だ。ようまあ、短歌ってのは、こんなゴミみたいなどうでもいいものを詩歌にするものだなあ、とつくづく思う。
こうした作品を読むと、私は、「ああ、短歌だな」と思う。何というか、これらの作品は「ザ・短歌」とでもいえるような、リアルの「構造」がくっきりとみえよう。
それはともかく、これらの例歌をあげて、穂村は言う。
「めしつぶの貼りついており」「もろもろのペンキはがれる」具体的で小さな違和感のバリエーションである。本当にあったことだ、という感覚を補強するために必須と思えばこそ、短い定型のなかでその描写に文字数が費やされているのだろう。
これらを写実的リアリズムの影響下に、その一部をツール的に技法化した表現とみることもできそうだ。
(穂村、前掲書)
最後の一文に注目しよう。
これ、何言っているかわかるであろうか。いきなり、話が大きくなっている。
次回は、この穂村の一文を解読するところから、話を進めてきたい。