短歌の「リアル」⑥~口語短歌編その1

 前回は大辻の論考を引用しながら、<リアルの構造>について議論した。
 <リアル>というのは、要は<本当>のことだ。つまり、読み手側からすれば、一首を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と思えば、それは<リアルな歌>、ということになる。
 で、リアルがリアルたる所以、つまり、その構造を探るために、ここまであれこれ議論した。前回は、読者が一首を読んで、これは<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と実感すれば、それは、まさしく<リアルな歌>といえるだろう、という仮説にたって、では、どうやったら実感できるか、という点を大辻の論考より議論した。
 そこで、導きだされたこととして、一首のなかに、
・作者の「今」の瞬間の様子が分かる
・作者の過去の体験が分かる
 の2つが読み取れると、どうやら、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するのではないか、というところまで進んだのだった。
 そして、そんな実感ができる技法として、近代短歌は<精緻な時間の叙述法>という技法を発見した、というわけである。
 さて、この大辻の論考であるが、実は、この論考の主要な論点は、ここではない。近代短歌の時間の叙述法は、いわば前段の議論で、主要な論点は、現代口語短歌の時間の叙述法についてなのだ。
 その論旨をざっとのべると、近代短歌は、精緻な時間の叙述ができるけど、現代口語短歌は時間の経過を叙述することのできる助詞や助動詞が貧しいから、そうした精緻な叙述ができない。そこで、現代口語短歌は「今」という時間の定点を多元化する詠み方を生み出した。しかし、それは本質的な問題ではく、本質的には、口語短歌は「今」をできる限り正直に記述しようとしているために、そうした詠み方になっていよう、という。
 そして、永井祐と斉藤斎藤の作品から、そうした現代短歌の時間の叙述の特質を検証している。
 その結果、次のように、大辻は結論付ける。

 

 永井や斉藤が採用した現代口語は、生き生きと明滅する「今」を記述することに秀でた言語体系である。しかがって現代の若者たちが、今、生きている瞬間をリアルな形で表現するために現代口語を利用するのは故なしとしない。しかしながら、「現在形」を多用し、助詞・助動詞を排除した現代口語の文体では、かつて近代短歌が描出した肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことは難しいと言わざるを得ない。
(前掲書)

 

 このように、大辻は、短歌形式の<時制>の叙述法に注目して、近代文語短歌の精緻な叙述と比較するかたちで、現代口語短歌の時間の叙述に関して否定的に述べたのであった。
 ここの論点を整理すると、
・近代文語短歌は、時制に関わる助詞や助動詞を駆使することで、肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことができる。
・しかし、現代口語短歌は、「今」を記述しているから、肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことは難しい

 と、いうことだ。

 この議論に、正対していると思われる論考を展開したのが、斉藤斎藤であった。
 この先は、斉藤の論考をみながら、口語短歌の<時制>の叙述について、考えてみたい。

 斉藤は言う。

 

 (前略)口語短歌の話者は、特定の時点に固定されてはおらず、時間軸を移動しながら発話している。タイムマシンで移動しながら、過去や、未来の出来事もいま目の前で起こっているかのように詠うのが、口語短歌の基本的な方法だろう。だとすれば、出来事はつねに話者の<現在>において起こるのだから、話者にとっての<過去>であることを示す時制表現は、必要なくなるはずである。口語に過去を示す助動詞が少ないのは、端的に不要だからではないのか。
 また完了の助動詞も、話者の立ち位置が発話時に固定されているからこそ、複数のニュアンスの使い分けが必要となるのである。話者が時間軸を移動しながら叙述する場合、完了形で描かれていた出来事は進行形で描かれることになる。だから文語において「ぬ」「たり」などが果たしていた機能は、口語では「た」が一人で肩代わりしているのではなくて、「ている」などの継続を示す表現や、助動詞ぬきの現在形に、分担されているのではないか。(中略)
 ついでに言うと、口語短歌に現在形が目立つことを理由に、いまの若者は「今」にしか興味がない、というようなことも言われるが、これも逆ではないかと思う。口語短歌現在形が目立つのは、「今」を離れて話者が動くからである。さまざまな時制表現を駆使して話者にとっての「今」に強くこだわるのは、むしろ文語のほうではないか。

 (斉藤斎藤「口語短歌の『た』について」「短歌人」2014.9)

 

 斉藤も疑問形で論述しているように、これは仮説として論じていると捉えるのがいいだろうが、大辻の論考にうまくかみ合わせていることはわかる。
 口語短歌で、一首のなかで現在形の多用されている点について、斉藤は<時間軸を移動しながら発話している>と述べる。これは、大辻も同じで、前掲書には「…時間の定点はひとつではなく多元化されている。そして、作者はそのつど異なった『今』の間を移動し、それぞれの『今』の上に立って叙述内容を言表していく」と述べており、ここの点については、両者の相違はない。
 しかし、なぜ、口語短歌が「時間軸を移動しながら発話している」のかというと、両者の意見は分かれる。
 大辻は、現代口語の過去を表す助動詞の貧困が理由だという。
 一方、斉藤は、そもそも現代口語短歌は、時間軸を移動しながら現在形で詠うのが基本的な方法なのだから、過去を示す助動詞は端的に不要なのだ、また、完了の助動詞も継続表現や現在形に分担されているのだ、という。
 この点について、どちらが正しいか、あるいは、論理的に整合しているかのジャッジは難しいだろう。突き詰めると、どちらも推論の域を超えていないようにも読めよう。
(次回に続く)