短歌の<私性>とは何か①

 前回までは、<リアルの構造>について、議論を進めてきた。

 今回からは、テーマを変えて、短歌の<私性>について議論したい。

 こちらもまた、短歌にとっては重要な論点なのだが、なぜ、重要なのかというと、やはり「近代短歌」の本質にかかわるからだ。であるから、これから議論することは、前回までにあれこれ議論した短歌形式の「リアリティ」についての内容とかかわってくるはずなのだけど、うまくリンクできるかどうかは、まだわからない。

 とりあえず、現代口語短歌を分析しながら、なんとか<私性>の深いところ、できれば「近代短歌」の本質のあたりまでたどりつけるように頑張りたい。

 

 はじめに分析する作品は、これだ。

 

 日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる

                      永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 内容は難しくないだろう。解説も不要だろう。

 注目したいのは、<暮らす>と<さしいれる>の2つの述語だ。どちらも「現在形」で記述されている。けど、よくみてほしい。これ、<暮らす><さしいれる>とも、日本語の「時制」として、おかしくないだろうか。

 <たのしく暮らす>、これ、正しくは「たのしく暮らしている」であろうし、<さしいれる>も、正しくは「さしいれてみる」「さしいれている」「さしいれた」あたりになるだろう。いずれにせよ、<暮らす><さしいれる>の動詞の「現在形」終止は話し言葉の日本語としておかしい。

 こうした、現代口語短歌の「現在形」終止のある口語短歌作品について、斉藤斎藤は次のような提案をする。

 

 (前略)しかしそろそろ「口語短歌」を、二つに分けて論ずる時期ではないか。二つとは、目の前の出来事をリアルタイムで中継する、話し言葉/実況タイプと、過去の出来事を書く私の現在から振り返る、書き言葉/追憶タイプである。

(「短歌人」時評、2016.5)

 

 斉藤は、口語短歌を2つにカテゴライズすることを提案しているわけだが、その1つを「話し言葉/実況タイプ」と名付ける。なるほど、目の前の出来事をリアルタイムで中継しているということにすれば、「現在形」終止で記述しても、日本語としておかしい、ということにはならない。

 つまり、掲出している永井の作品でいうと、今、主体が日本のなかでたのしく暮らしている、という状態をリアルタイムで実況しているととらえるとよい、ということだ。ただし、それでも、<たのしく暮らす>は、やっぱりヘンで、実況するという設定でも「たのしく暮らしている」という、<~ている>形であらわさないと話し言葉の日本語としてはおかしいとは思う。

 そうした粗さはあるものの、口語短歌作品のいくつかは、話し言葉で実況している、ということにすれば、日本語のおかしさはある程度解消されるので、この提案はなかなかいい線といっていると思う。主体が、ぐちゃぐちゃの雪に手を差し入れる状況を、リアルタイムで実況している、とらえると、この「現在形」終止は、これでいい、となる。

 日本語としておかしな「現在形」終止を、斉藤のいう<話し言葉/実況タイプ>としてとらえたら、そのおかしさが解消されるであろう現代口語短歌は、たくさんあるが、いくつかあげるなら次のような作品群だ。

 

雨の日は身をいじめたい思いもち庚申塚をまわって帰る      沖ななも

宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている     奥田亡羊『亡羊』

降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む  

                          内山晶太『窓、その他』

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く 

                          花山周子『風とマルス

あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                         山川藍『いらっしゃい』

震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる

                    堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

              初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 いかがであろう。

 どれも、リアルタイムで実況している作品だととらえれば、へんな日本語とはならない。

 さて、提出した堂園と初谷の作品であるが、この2作品については、東郷雄二が『ねむらない樹』5号で<私性>についての小論で言及している。

 東郷は、堂園と初谷の作品と、岡井隆<薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ>ほかの作品とを比較し、<私性>を2元論的に論じる。

 東郷は言う。

 

 この二つ(堂園に代表される歌と岡井に代表される歌の2つ―引用者)の<私>は多数の軸において対立する。まず前者(堂園の作品―引用者)の<私>は瞬間的で奥行きがない(瞬間性)。こうして切り出された<私>は過去と切断された<私>である(非歴史性)。(中略)かたや後者(岡井らの作品―引用者)の<私>は持続的で奥行きがある(持続性)。そのため過去と繋がっており、積み重ねられた記憶を抱えている(歴史性)。岡井の歌も藤原の歌も、自分の今の状況と過去の苦い記憶が重ね合わされていることからもそれは明らかだろう。

(『ねむらない樹』5号、2020.8)

 

 こうして、東郷は岡井や藤原龍一郎の作品(「首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば」)と比較するかたちで、堂園や初谷むいの作品(「イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが『ん?』と振り向く」)には、瞬間性と非歴史性という2点を指摘する。

 そして、次のように小論をしめくくる。

 東郷は言う

 

 現代の若手歌人は歴史性をになう持続的な<私>よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>に惹かれている。

(東郷、前掲書)

 

 堂園と初谷の2作品をして、「現代の若手歌人」とくくってしまうのは乱暴と思うが、とりあえず、この2人について言えば、導かれる結論としては整合していよう。

 そして、この東郷の「瞬間性」と「非歴史性」という指摘は、そっくり斉藤斎藤の言説に重ね合わせることができる。

 すなわち、目の前の出来事をリアルタイムで中継する、「話し言葉/実況タイプ」の作品は、歴史性をになう持続的な<私>よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>に惹かれているがために、そうした「現在形」終止で詠われているのである、と。

 

  斉藤斎藤の提案する「話し言葉/実況タイプ」というのは、いわば作歌のやり方、すなわち方法論からの提案なのだが、要は、かけがえのない今を詠うには、リアルタイムで実況するのが最適なやり方で、それため「現在形」終止で歌を作っている、というわけだ。

 で、問題は、東郷が指摘している堂園と初谷の作品のような現代口語短歌のいくつかは、なぜ、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>を詠うのか。

 つまり、東郷のいう「瞬間性」なり「非歴史性」なりに惹かれるのか。

 

 と、それは、<リアリティ>の追求ということなんだろうと思う。

 つまり、イマココのかけがえのない瞬間、イマココの私のリアルな思いを詠いたい、という追求がそうさせているのだと思う。

 永井の歌であれば、<日本の中でたのしく暮らす>というイマココの実感として、<道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる>という行為があるのだろう。

 そして、この2つの事象は、ともに因果関係がないように詠われている、という点も重要だ。

 つまり、歌からは、日本の中でたのしく暮らしているという具体事例として、道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれている主体、という関係性は読めるのだけど、その2つの事象が、それぞれ独立して詠われているというのがポイントだ。

 この2つの主体の想起と行為は、それぞれ瞬間的なものだ。そして、それぞれに独立しているから、非歴史的なのだ。

 そうした瞬間的で非歴史的であるということを表現するする技法として、リアルタイムで実況するという「話し言葉/実況タイプ」の叙述方法が選ばれているのである。

 これが、永井の作品にみられる<リアリティ>だ。

 もうひとつ。

 では、なぜ、こうした叙述法が選ばれているか。

 というと、これまでの近代短歌的手法に、どうにも<リアリティ>を感じていないのではないか、と思うのだ。だから、実況しているのだろう。

 

 さて、話を進めて、また問題を提出しよう。

 これら、「話し言葉/実況タイプ」の現代口語短歌作品、果たして実況しているのは、いったい誰だろうか?

 この問題を考えることで、次回、短歌形式の<私性>の沼へと潜っていくことにしよう。