<抒情>のしくみ②

 前回、「コノテーション」をいうキーワードを提出した。

 ここで議論しているのは、あくまでも「言葉」のイメージある。つまり、「夕陽」という「言葉」から、私たちは勝手に「ノスタルジー」といったようなイメージが喚起される、ということを議論している。

 無論、実際の沈みゆくまっかっかな夕陽そのものをみて、ヒトの心象にノスタルジーが喚起される、ということもあるとは思うけど、「コノテーション」というのは、詩歌の修辞用語なので、あくまでも「言葉」に貼り付いているイメージという前提で、議論を進めたほうが誤解がなくていいと思う。

 そして、そのイメージというのも、別に、あらかじめ決まっているものではないはずだ。「夕陽」から「ノスタルジー」というイメージが喚起される、というのは実際の夕陽にそういう作用がないとはいわないが、多分に文化的時代的なものだろうと思う。つまり、共通の文化を持つ一定程度のヒトの集まりで長い時間をかけるなかで、「夕陽」から「ノスタルジー」というイメージが喚起される、という共通認識が生まれていったのだろうと思う。だから、文化や時代が違うと、当然、ある「言葉」の「コノテーション」も異なる、ということになる。

 例えば、文化の違いというなら、動植物にはりついている「コノテーション」は国によって違うだろう。日本人が感じる「蛍」のイメージは、おそらく、欧米人のそれとは大きく違っていると思うし、「蜻蛉」や「蛙」や、とにかく、詩歌の題材として詠われている動植物というのは文化的なイメージに拠っているから、違う文化の人とは同じイメージを認識できないだろう。

 時代の違いもあるだろう。平安時代の「衣」や「文」なども、現代のそれらの「コノテーション」とは明らかに異なっていよう。

 ほかにも、同じ日本で現代に暮らしていても、世代や性別や社会的地位によって、「言葉」のイメージは異なるだろう。「コンビニ」という「言葉」ひとつとっても、ある世代は身近なものだったりするが、ある世代には歌の題材としてふさわしくないと思っている場合もある。あるいは、社会的地位によって、生活には無くてはならなものだったり、チープのイメージだったり、労働の搾取の象徴だったり、はたまた、性別によっては、危険なイメージを持つことだってあるかもしれない。

 そういういろんなイメージが喚起される「言葉」から、できるだけ共通の「イメージ」を認識できるような「言葉」を、詩歌では「コノテーション」として選択している、ということがいえる。

 であるから、詩歌を嗜んでいる人でも、古典和歌が分からないのは、古典文法が難しいということもあるが、当時の「言葉」の「コノテーション」が分からない、だから、その詩歌を味わうことができない、ということがあるからだと思う。また、現代短歌で、世代間格差がみられるというのも、案外、この「コノテーション」の違いだったりするのかもしれない。例えば、若い世代では「イオンモール」が共通の「コノテーション」として作用しているが、若くない世代にとっては、「イオンモール」を詠って何で<抒情>できるのか、さっぱり分からない、という感じだろう。

 そうした世代や性別や社会的地位にかかわらず、共通なイメージを持ってくれる代表格が「夕陽」といった言葉だ。「夕陽」という言葉を見ると、誰もがみんな「ノスタルジー」といったイメージを喚起してくれるに違いない、という前提のもと、詩歌を作っているといえよう。

 そして、それは、実際の夕陽そのものに「ノスタルジー」を喚起するような要素、例えば、暖色系の色合いの空模様、とか、沈んでいく様子、とかに、うら寂しさなんていう感情がうまれて、「ノスタルジー」が喚起される、ということはないとはいわないが、先に言っているように、やはり文化的な要因の方が大きいと思う。

 文化的な要因というのは、「夕陽」の「コノテーション」でいうなら、童謡の「赤とんぼ」や「夕焼け小焼け」を全国のどこの学校でも斉唱したという音楽教育の成果が、日本人の原体験として日本全国あらゆる世代の共通のイメージ喚起に果たしている、という仮説は成り立ちそうだし、その原体験を上書きするように、日本人が日本で生活していくなかで、テレビ映像や小説世界などで繰り返し共通イメージがはかられているのだろうと思う。

 

 夕陽の「コノテーション」を利用して<抒情>させている作品を2つ。

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

                     穂村弘『ドライ ドライ アイス』

ゆうぐれの商店街を過ぎてゆく子供・自転車・豆腐屋の音

                     笹公人『抒情の奇妙な冒険』

 

 1首目。上句はずいぶんと具体的であるが、このような具体の描写が一首にリアリティを与えるという、短歌特有の技法。そのローラーに座ったら世界中が夕焼けのようだ、と主体が感じた、ということ。結句に夕焼けを持ってくることで、グランドに夕焼けが映えるイメージが鮮明に浮かび、なんとも抒情できるではないか。これが<世界中が朝焼け>だったり、<快晴>だったり<曇天>だったり<夕立>だったりしたら、一首、歌にならない。ここは<夕焼け>以外にはない。<夕焼け>という言葉に貼り付いている、私たちが感じるイメージで、私たちは勝手に抒情するということになる。

 2首目。こちらは、より露骨である。どうだ、<ゆうぐれ>だ、しかも、<商店街>だ、そこに、子供や自転車や豆腐屋のラッパの音まで聞こえてくる、さあ、抒情しろ、と読者に迫っているかのようである。ここまで露骨だど、逆に歌としてはウザくて、<抒情>できるわけがないじゃないか、と思うかもしれない。

 しかしながら、そのあたり、作者は了解済みなのだろう。こうやって<抒情>のアイテムをあえて露悪的に叙述しているのだ。だから、計算づくの<抒情>ということになる。この笹の歌集は、タイトルからしてそうであるように、<抒情>のカタログ、というか、どういう舞台設定、道具立て、役者の配置、言い回しをしたら、<抒情>できるのかという、テキストのような歌集である。であるので、当然ながら話題にしている、「コノテーション」もうまく利用していよう。

 笹の作品は、以前にあげた、小池光の「砂糖パン」の連作と比較するとわかりやすい。小池の連作にも、チープな<抒情>するためのアイテムがあった。自転車、川べり、幼子と男親、といったものだ。あの連作で唯一、オリジナリティがあるとすれば<砂糖パン>というワードということになろうか。ただし、小池は、読者を<抒情>させるためにそうしたアイテムを提出したというわけではないだろう。そういう点でいうと、笹の作品は、やはり計算した<抒情>という感じであろう。

 

 と、いうわけで、だらだらと喋ったので、そろそろ一旦まとめよう。

 短歌は、字数が少ないから、あれもこれも詰め込むことはできない詩型だ。そういう制約の中で、言いたいことをちゃんと言って、しかも、短詩として読者に何事かを伝えるには、それなりの工夫が必要となる。それは、読者に<抒情>してもらうときも同様だ。

 短歌では、言葉を尽くして読者に<抒情>してもらうなんてことはできない。そこで、歌作の修辞技法のひとつとして「コノテーション」がある。この技法を利用することで、短い詩型である短歌のような字数に制限のある詩歌でも、存分に読者を<抒情>させることができるのである。

 というところで、今回はここまで。