<抒情>のしくみ③

 前回は、コノテーションの分かり易い例として、「夕焼け」「ゆうぐれ」といった「言葉」を取り上げた。

 今回は、いくつかの歌を鑑賞しながら、コノテーションの作用を実際に確認していこう。

 前回取り上げた、笹公人の『抒情の奇妙な冒険』から。

 

しのびよる闇に背を向けかき混ぜたメンコの極彩色こそ未来

おしくらまんじゅう押されて泣いた赤鬼がさよならしてる冬の路地裏

野球盤の消える魔球の球尽きて星野の部屋に夕闇せまる

スライムをブラウスに入れたことなども若葉の頃の記憶に溶けて

懐かしのヒーローアニメ主題歌の「♪だけど」の後が沁みる夜更けぞ

ドラクエのコスプレ姿の旧友を無視して過ぎる冬の十字路

聖子ちゃんカットの群れはまぼろしか 炎暑の竹下通りを過ぎる

 

 1首目。「しのびよる闇」は、夕闇とする実景の叙述としてだけではなく、何かの隠喩としての意味を持たせている。「闇」に、字義以外の意味が貼り付いているので、ここはコノテーションの用法。闇とメンコの極彩色の色彩の対比、また、結句にある、この歌のテーマである「未来」からガキの頃と現在の主体の対比もある。一首のなかに、いろんなことが詰め込まれている。よりわかりやすいのは「メンコ」というアイテムで、ノスタルジーというか、昭和30年代がらギリ50年代の日本の高度成長期の心象風景を表しているといえる。ちなみに、作者の笹は昭和50年生まれだから、この歌で歌われる情景は、まさしく氏のアタマのなかで作り上げた、作り物の心象風景である。だから、そうした作り物の風景にリアリティを出すために、「メンコの極彩色」なんていう具体を詠っているともいえる。と、こちらは、<コノテーション>ではなく<リアリティ>の範疇の話題。

 2首目。こちらも、「三丁目の夕日」的なノスタルジーを演出する舞台としての「冬の路地裏」。おしくらまんじゅうするのは、冬に決まっているんだから、「冬」はついているのだけど、ここは律感を優先したというところか。それはともかく、「路地裏」はうまい舞台を持ってきたと思う。「路地裏」に貼り付いている言葉のイメージ、すなわち<コノテーション>は、結構、共感性も高く、抒情的といえる。やはり「裏」という言葉が抒情を誘うのだろう。表よりも裏。陽が昇るよりも、陽が沈む。恋人が居る、よりも居ない。幸せよりも不幸。と、単純に、ポジ、よりも、ネガ、のほうが、抒情を出しやすい。なので、そうしたネガティブな言葉には、より抒情的な<コノテーション>は貼り付いている、といえよう。作者側からすると、そうしたネガティブな言葉を叙述すれば、読者は勝手に抒情してくれる、と計算して歌を作っている、という言い方もできよう。そうした計算を露悪的というか、「これは、作られた抒情ですよ」と手の内を見せながら作品として提示しているのが、笹の作歌手法だ。

  3首目。こちらは結句の「夕闇せまる」が、できすぎた「夕闇」の<コノテーション>による抒情の手法。また、先の話題でいうと、「消える魔球」の<消える>や<尽きて>あたりの、ネガティブな言葉、すなわち「生まれる」ではなく「消える」、「充ちる」ではなく「尽きる」といった言葉は、短歌としては抒情しやすい、ということを分かって詠っている。

  4首目。「スライム」や「ブラウス」に貼り付いている<コノテーション>で、少年のころの甘酸っぱい記憶なんてのを共感してもらおうという手法。一応、念のためにいっておくが、これは笹の実体験というわけでは決してない。「スライムを女子のブラウスのなかに入れちゃったこともあったよね」というシチュエーションなら、読者は「そうそう、そういうこともありえるよね」と勝手に抒情するだろうという、想定で、「スライム」や「ブラウス」なんて「道具」を笹が並べて歌にしたということだ。また、そういうシチュエーションなら、初夏の瑞々しい時期がイメージに合うだろうということで「若葉の頃」にした。そして、それでもノスタルジーを出してみたかったので、「記憶」と詠い、遠い日の青春の一コマなんていう、ありきたりな主題(無論、歌の主題はありきたりでいいけれど)をもってきた、というわけである。ただ、「スライム」の緑色と「若葉」の色彩の共通性、あるいは、「スライム」のドロドロ感と、記憶が「溶ける」という意味の重層あたりは、いわゆる<縁語>という多分に短歌的なレトリックを駆使しているから、そんなに抒情ありきで作っているわけでなく、そこそこ手練た歌作をいっていいだろう。けど、それらは<コノテーション>とは別のレトリックの話題なので、ここでは、提示するだけにしておく。

  5首目。「あしたのジョー」の主題歌の歌詞の「だけど」の後が心に沁みる、というのがこの歌の言いたいこと。けど、それを直截に詠うと歌にならないから「懐かしのヒーローアニメ」なんて、遠回しな言い方をして詩情を出そうという魂胆。それはともかく、結句の「夜更け」の<コノテーション>が抒情を誘う。べつに、「夜明け」でも「夜入り」でも「夜中」でも、心には沁みようが、やはり「夜更け」と詠ったほうがより抒情的でしょうな。

  6首目。こちらは「冬の十字路」の<コノテーション>で抒情しようということ。春や夏よりも秋や冬のほうが抒情しやすいだろう。そして、ここは、声をかけずに過ぎるので「十字路」ということになろう。「路地裏」なら声をかけずに過ぎさることは無理だろう。なお、私はよくわからないが、「ドラクエ」の昔の画面なんてのは、よく十字路でキャラクターが出会ったりしているようなので、ドラクエに詳しい人なら、この十字路の言葉の選択はピンとくるものなのかもしれない。

  7首目。聖子ちゃんは、言わずと知れた松田聖子。だから、西暦でいうと1980年代。この一時期に松田聖子の髪型が流行ったけど、あの髪型を懐かしんで、竹下通りを過ぎているという歌。流行したのだから、「群れ」という言葉の選択も絶妙だ。で、設定としては「炎暑」にしている。ここは、当然ながら、春や秋や冬じゃなく、夏じゃないとダメ。しかも、「初夏」や「真夏」や「猛暑」や「残暑」や「酷暑」じゃなくて、「炎暑」じゃないとダメ。ここは、実は動かない。なぜだかお分かりであろうか。すなわち、「炎暑」の炎で空気ゆらゆらしている感じや、真夏の暑さで見られる蜃気楼のイメージと、「まぼろし」が対応しているからである。これが、短歌の<縁語>というレトリック。なので、聖子ちゃんカットという俗なものを詠っただけでない、詩的技法も駆使されていて、鑑賞に耐えられるだけの作品である、ということができよう。そういうわけで、「炎暑」という言葉からイメージできる、炎のゆらゆらした感じ、とか、蜃気楼で景色がゆらゆらしているイメージが<コノテーション>ということになる。ただし、蜃気楼のゆらゆらは、炎暑の実景に近いから、字義だけではなく広義の<コノテーション>ととらえるとより正確かもしれない。なお、結句の「過ぎる」も、ちょっとした抒情性を生み出す動き。「歩く」とか「通る」とか「向かう」とかよりも「過ぎる」のほうがいい。「向かう」はポジだが、「過ぎる」はネガだ。過ぎ去ったもの、という過去のイメージが付加されていよう。こうした言葉をさりげなく選択できるかどうかが、歌人としての感性といえるのではないか。

 

 と、ここまで<コノテーション>のはたらき、について、かなり分かり易い笹の作品をとりあげて確認してきた。

 なんとなく、<コノテーション>の技法というものがつかめてきたと思う。

 では次に、さりげない<コノテーション>の用法をみていきたい。

 とりあげるのは、藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川文化振興財団)。こちらの歌群のほうが、より短歌らしい。といったら、笹に失礼か。いや、笹への賛辞か。

 とにかく、藪内の作品をいくつか。

 

傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出でゆく

川の面に雪は降りつつ或る雪はたまゆら水のうへをながるる

 

 まず2首。こちらは、「降る雪」に貼り付いているイメージを信頼して歌にしている。「降る雪」の<コノテーション>。どうであろう。白い色からは、静謐や清純、すぐに消えていく様からは、儚さやさみしさ、もちろん、美しさや冷たさもあるだろう。イルミネーションに照らされれば華やぎも感じられようが、藪内の雪は、しんしんと静かに空から降ってくる「雪」の<コノテーション>で抒情を生み出している。

 1首目。これまでに、いろいろな場で取り上げられている藪内の代表作。上句の的確な描写とともに、うつむくしぐさから生まれる有り余る抒情性。近代短歌の本流ともいえる詠いぶりながら、「うつむいて」と口語を挿入する現代性もある。そして、そうしたなかでの「雪」の<コノテーション>がこの歌を抒情させているといえないだろうか。やはり、「雨」ではダメだろう。ここは「雪」でしょうな。

 2首目。こちらは「雪」そのものを詠った作品。ただし、雪を観察して一首詠んだ近代短歌的な写実的な歌、というよりは、これまでさんざん古典和歌から詠われてきた「雪」の <コノテーション>を上書きして、抒情性を際立たせるという職人的手法による歌という感じが私にはする。つまり、写生写実の短歌というよりも、レトリックで言葉を弄んで詩情を表現するという、職人的あるいは多分に人工的な短歌である。

 

電車から駅へとわたる一瞬にうすきひかりとして雨は降る

うつくしく雨は上辺を濡らすのに傘の内臓なんだ我らは

眼の良きほどに遠くなる輪と思ひつつ視力検査の四月、雨の日

 

 続いて、「雨」。「雨」の言葉から、私たちは、どんな詩情をイメージするだろうか。「春雨」でも「秋雨」でも「驟雨」でも「雷雨」でも「長雨」でも「夕立ち」でも「豪雨」でもない、ただの「雨」。この「雨」というたった一文字に、いったいどんな<コノテーション>があるのだろう。

 1首目、下句の繊細な視覚による表現。また、句またがりによるちょっとしたアクセントも素敵。ここの「雨」は<うすきひかり>と修飾することで、神聖さとか自然の神秘性、生命の源のような大きなイメージまで想起できるのではないか。ここは、さっきみた「雪」ではだめだろう。しずかに天から降る命の源としての「雨」だろう。

 2首目。三句「のに」で下句へつなげる。「内臓」というやや大胆な言葉を「なんだ」のやや乱暴な口語で受けているのが新鮮。やはりここでも、「雨」から受ける生命性がイメージできよう。やはりここは、「雪」ではだめだ。

 3首目、視力の良いことを「ほどに遠くなる輪」と詠うのが、一首の発見といえる。結句は、「雨の日」にかかる<コノテーション>を信頼して抒情を引き出している。

 

 藪内の歌は、雨、花、星といった抽象的な詩的素材を歌の材料として、それらの素材に張り付いている伝統的な短歌的抒情を上手にさばいて一首作り上げている、といった感じの歌が多い。よくある歌の素材をきっちり作品にまとめていく職人肌の作風だ。こうした歌作は、簡単そうでとても難しい。うっかりすると、どこにでもありがちな作品になってしまう。

 職人的というと、こういう作品もあった。

 

桃ひとつ卓の上に割かむとす肉体といふ水牢あはれ

 

 この歌もやはり、「桃」から受けるコノテーションから「肉体」の語を持ち出して、作られたエロスをたたえた一首と読める。

最後に、少し毛色の違う作品を。

 

片翅に「死ね」片翅に「死ぬ」と書きはなつた蝶がどこまでも飛ぶ

 

 こちらは、「死ね」や「死ぬ」という強い言葉に引っ張られて読んでしまうが、「蝶」に注目したい。ここを、たとえば「蜻蛉」や「テントウムシ」や「鳥」や「帽子」や「紙飛行機」といった、別の飛んでいくものと比べてみたらよい。どうだろう。歌の様相がガラリと変わることがわかるはずだ。つまりは、「蝶」に貼り付いているイメージから受ける抒情性によって一首の様相が決まってくるということなのだ。