<抒情>のしくみ④

 今回も、<コノテーション>という抒情を生み出す技法について実際の作品から検討してみよう。

 

 今回は、北原白秋を。

 なんで、ここで白秋を取り上げるのか。と、いうと、とある必要があってついこの前、白秋全集を読み直したので、そのついでにという、筆者の都合による。

 

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕    『桐の花』

ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日

あまりりす息もふかげに燃ゆるときふと唇はさしあてしかな

石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼      『雲母集』

鞠もちて遊ぶ子供を鞠もたぬ子供見惚るる山ざくら花      『雀の卵』

 

 1首目。白秋の代表歌。白秋の初期作品については、なにかと韻律の愉しさ論じられ、この歌も、まさしく白秋の音楽的な愉しさの歌には違いない。しかしながら、<コノテーション>の作用でこの作品を分析するならば、結句の「夕」が、この歌の抒情性を担保しているといえよう。また、三句目の「あかあかと」で、朱を暗示させて「夕」で情景を際立たせているともいえる。韻律の愉しさとともに春の夕べのしみじみとした情感を味わいたい。

 2首目。「ヒヤシンス」の花の様子から抒情性をつかみたいところであるが、こちらも、恐らくは、「ヒヤシンス」の語の響きのほうがこの歌では優位になっていよう。S音の摩擦音が心地よく響いている。このやや冷えた響きと心がふるえたということとが、見事にシンクロしている、といえよう。また、話題にしている、<コノテーション>の作用でいうと、「ヒヤシンス」の言葉に貼り付いてるイメージもまた、この歌の冷涼な情感に合っているだろう。おそらく、ヒヤシンスを詠って、最初に有名になった歌。

 3首目。お次は「アマリリス」。赤い色の<コノテーション>。そこから、「燃える」、「唇」といった同色のイメージ。また、「息」と「唇」は縁語ということで、統一感のある構成。ついているといえばそうだけど、イメージの共有のほうが強いと思うがどうか。この歌も「アマリリス」を最初に歌って有名になった歌といえないか。

 4首目。結句の「夕焼小焼」の俗謡性も、「七人」や「河豚」などの具体で、なんとか一首として後世に残った感じだ。

 5首目。こちらも、代表歌。これは、結句の「山ざくら花」の<コノテーション>で抒情を出すという典型的な手法といえる。

と、いった感じか。

 

 では、続いて、ぐっと現代口語短歌を。

 宇都宮敦『ピクニック』より数首。

 こちらもまた、<コノテーション>の作用を信頼して、抒情している作品を取り上げてみよう。

 

袖口でみがいたリンゴを渡したら裾でみがいたリンゴをくれた

理科室のつくえはたしかに黒かった そうだよ ふかく日がさしこんだ

牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは

幼いころの君がかいた鏡文字のひらがなに灯がともったら さあ

 

 1首目。「リンゴ」の<コノテーション>による抒情。青春、純粋、清涼感、といったようなイメージか。これは、歌の感じとウマくはまっていると思う。上句と下句の対句的な用法ながら、下句でのスピード感がすばらしい。青春を詠うスタンダードな一首、みたいで、この歌は、かなりいい歌だと思う。

 2首目。これは、「理科室」の<コノテーション>で抒情を誘う、実験的な一首と読む。「理科室」には、どんなイメージが貼り付いているか。というと、それはそれぞれだと思うが、ここでは、広く学校生活の1コマ、といったような象徴として、「理科室」を持ってきたのだと思う。青春性の象徴といってもいいだろう。例えば、これが「教室」なら、平凡にすぎるし、「更衣室」なら生々しい別の<コノテーション>になるし、「図書室」「美術室」「木工室」なら、広い共感性は生まれないだろう。「理科室」は、誰もが授業で等しく利用した教室なので、共通の<コノテーション>を誘うことができそうである。そう考えると、「理科室」の言葉の選択は、絶妙といえる。

 2句目からは「机」に焦点化して、「黒かった」という色彩に持っていく手法。下句で、日が差し込んでいるとあるから、黒い机に光が反射するイメージで、抒情させようということだ。「理科室」であっても、実験器具や人体模型を詠うのではなく、黒い机を詠ったのが、現代的というか、斬新なところだと思う。

 そして、この作品が実験的というのは、誰もが「理科室」で抒情できないだろうということである。おそらく、作者は、自分の読者を同世代がその下の世代に向けて、作品を提供している。上の世代にわかってもらおう、あるいは、皆に広く共感してもらうつもりはないのではないか。分かる読者に分かってもらえばいい。おそらく皆に共感してもらうと思うのだったら「理科室」の言葉の選択ではなく、「教室」とか「黒板」とか平凡な<コノテーション>を喚起する言葉の選択になったと思う。

 そんな、分かる人に分かってもらえはいい、という感じは3首目にもみられる。こちらは、<コノテーション>の話題とはずれるけど、上句の牛乳パックが逆からあいていて可笑しいと思うのは、誰もがそういうわけでじゃあないだろう。けれど、思春期特有の、いわゆる「箸が転んでもおかしい年頃」の現代的例示として、分かる人に分かってもらえばいい、の一例として挙げた、ということは言えるのではないかと思う。

 4首目は「バドミントン」の<コノテーション>。カップルが楽しむスポーツや遊びで、ほかでもない「バドミントン」を選択したことによる、抒情性を味わいたい。健全性とか清潔感とか、そんな感じか。他の人なら、もっと違うイメージを持つかもしれない。それが、真夜中にやっているというとことで、ちょっとした意外性というか、独特の幻想性を生み出している。この歌も、良い歌と思う人と、何がいいのかよく分からない、という人に分かれるような、実験的な一首ではないか。

 5首目は「鏡文字」の<コノテーション>。こうした抒情性が、作者の持ち味なんだろうと思う。

 

 さて、<コノテーション>について、一旦、ここでまとめておこう。

 テーマは「抒情のしくみ」であった。短歌には、抒情的な歌というのが存在する。その抒情の謎を、解き明かそうということで、<コノテーション>という詩的修辞を取り上げた。

 <コノテーション>というのは、ある言葉に貼り付いているイメージだ。例えば、「夕陽」という言葉だったら、もの悲しい、とか、寂しい、とかといったイメージ、あるいは、ノスタルジックな感情を呼び起こしたりもする。

 だから、歌に、「夕陽」を詠み込むとおのずと読者は、そうした感情が呼び起こされ、勝手に抒情してくれる、ということになる。

 今回の白秋の歌でいうと、順に「夕」「ヒヤシンス」「あまりりす」「夕焼小焼」「山ざくら花」という言葉に字義以外のイメージが貼り付いている。その貼り付いたイメージというのが、すなわち<コノテーション>と呼ばれるもので、<コノテーション>をうまく利用することで、一首が抒情的になる、というわけである。

 短歌と言うのは短い詩型だから、一首のなかであれこれ言うことはできない。そこで、「言葉」に貼り付いているイメージを利用して、読者に、例えば、寂しさとか懐かしさなんていう感情を喚起させて抒情させよう、とするわけだ。状況を夕方に設定する、とか、ヒヤシンスを詠む、とかして、「うら寂しいしみじみとした気持ち」とか、「心のうちの秘めやかな感情」とか、といった<コノテーション>を利用して抒情させている、というわけである。

 ただし、「夕陽」なんてのは、白秋の時代から、短歌にはもう何度も何度も詠われて、それこそマンネリズムというか、表現でいうとあまりに平凡なので、詠う側としても、安易に詠ってしまうとそれこそ平凡な歌になってしまうことは否めない。そこで、表現者としては、新しい抒情というか、今まで短歌に使われていない言葉を詠うことで、新しい<コノテーション>を提出しようとする。今回は、宇都宮の作品として、「理科室」や「バドミントン」を取り上げたが、私としては、実験的な作品としてとらえている。ほかにもたくさんあるだろうし、特にそれらは、現代口語短歌の歌人に顕著であろう。

 一方、そうした、凡百の<コノテーション>を逆手にとって、抒情しようとする笹公人のような前回取り上げた作品というのもある。こちらも、実験的といえるかもしれない。

 いずれにせよ、自分の作品で、これまでとは違う新たな抒情を模索するのは、常に新しい表現を求める表現者としての性分であろうから、短歌でいえば、これまで短歌作品で使われなかったような「言葉」で、これまでにない<コノテーション>の創出をはかっていくというのは、現代短歌の歌人の性分といえるだろう。

 というところで、今回はここまで。