短歌の<比喩>①

 今回からは<比喩>をテーマにお喋りをする。

 けれど、実のところ短歌の世界で<比喩>の話はもう出し尽くした感があるので、ここで何か新奇なことを言えるかどうかは、ちょっと自信がない。

 それに、おそらくお喋りしていくうちに、だんだんと話がいろんな方向にとっ散らかっていくような気もするが、これまでの<コノテーション>や<コロケーションのずらし>といった議論とも絡めることができればとも思う。

 

 今回は<比喩>のなかでも、比較的分かりやすい<直喩>から。

 

 <比喩>とは何か。

 というと、「あるモノやコトを、別のモノやコトで表す」ということだ。<直喩>なら、「綿のような雲」「夢みたいな時間」「まるで写真のような感じのする絵」とか、「~のような」「~みたいな」「~の感じの」といった<比喩>の目印があるのでわかりやすい。ちなみに、これらは、口語体の場合。文語体なら、「~のごとき」一択だ。

 こうした<直喩>であれば「AのようなB」「AみたいなB」「Aのような感じのB」というように、BをAで表しているのがわかると思う。

 作品から確認しよう。

 今回、引用する作品は、角川「短歌」2020年12月号の田村元氏による「すごい比喩の名歌集」30首選より。作品の素晴らしさもさることながら、膨大な作品のなかから「これぞ」という新旧の名歌を取り出してきた氏もすごい。

 

 トランプの絵柄のように集まって我ら画面に密を楽しむ

                        俵万智『未来のサイズ』

 縛りなきしりとりのやうな日常を揺さぶるために水仙を買ふ

                        門脇篤史『微風域』

 かなしみは出窓のごとし連理草夜にとりあつめ微かぜぞ吹く

                        北原白秋『桐の花』

 

 1首目。今年発刊の俵万智の最新歌集から、Zoomのようなオンラインの場で映る画像を「トランプの絵柄」に喩える。説明するのにけっこうな言葉数を要するようなモノ(Zoomのようなオンラインの場で映る画像、じゃあ、説明としては乱暴だ)を喩えるなら「トランプの絵柄」みたいなものよ、と、さっくりと説明できて、ああ、なるほどねえ、とさっくりと理解できる、という、<比喩>表現のお手本のような作品。

 2首目。「日常」という、ちょっと短歌じゃ説明できないバカでかいモノを「縛りなきしりとり」のようなものさ、といって、なんとなく説明した気になるという、これも<比喩>表現のお手本といっていい作品。

 3首目。「かなしみ」を「出窓」に喩える。感情はなかなか言葉で言い表せないので、<比喩>を使うと伝わりやすい。

 とりあえず、3首をみたけど、「AのようなB」という<直喩>というのは、「AのようなB」の「B」が、説明するのにちょいと面倒だったり、漠然としていたり、言葉にしにくい感情だったり、といったものを、そうだねえ、喩えるなら「A」のようなものだよ、と表現することだ。掲出歌でいえば、「A」は「トランプの絵柄」であり「縛りなきしりとり」であり「出窓」である。

 すなわち、<比喩>というのは、説明しにくい、あるいは、イメージをしにくい「B」のようなモノやコトを、分かりやすい、あるいは、イメージしやすい「A」のようなモノやコトに置き換えて表現する修辞技法である。

 と、ここまでは、そもそもの<比喩>の修辞技法の説明としていいだろう。

 しかしながら、短歌では、そうした本来的な修辞技法から、より文芸的なそれへと深化してきている。

 

 他人(ひと)の記憶に入りゆくような夕まぐれ路地に醤油の焦げるにおいす

                        久々湊盈子『世界黄昏』

 自販機のなかに汁粉のむらさきの缶あり僧侶が混じれるごとく

                        吉川宏志『石蓮花』

 苦しみののちに生まれし小国のごとき椿を拾ふ二つ、三つ

                        栗木京子『ランプの精』

 

 1首目。「夕まぐれ」を「他人(ひと)の記憶に入りゆくよう」なものと喩えた。 「AのようなB」の<直喩>の修辞技法には違いないが、先ほどとは、様相が異なっていることがわかるだろうか。普通、「夕まぐれ」を喩えるのに、「他人(ひと)の記憶に入りゆくよう」だとは、喩えない。こうした作品というのは、<比喩>そのものを味わう作品、ということがいえよう。

 「AのようなB」の関係性というのは、「B」を説明するために「A」を持ち出してきているものだ。主従関係でいれば、「B」が主で「A」が従だ。しかし、掲出歌のような「AのようなB」の関係性というのは、「A」の比喩表現を味わうために「B」の「夕まぐれ」を持ち出してきた感じだ。つまり、主従関係でいうと、本来的な<比喩>の用法とは逆転している、といえよう。

 2首目。「自販機に並んでいる汁粉の缶」を「僧侶が混じっている」ようだ、と表現した。これも、<比喩>の愉しさを味わう、「ザ・短歌」のような作品。当然、吉川もそんなことは分かって作っているので、わざわざ直喩を結句に持ってきて、「これは比喩を愉しむための作品ですからね」と目配せをしているようだ。

 3首目。2,3個の椿を「苦しみののちに生まれし小国」に喩える。これなんかもう、「社会詠」の範疇に入れてもいい作品だろう。「椿」を詠いたいんじゃなくて、当時の国際社会を詠いたかったのだ。だから、「AのようなB」の「B」は、「椿」じゃなくてもいいかもしれない。落ちて拾える花なら、何色の花でもいい感じがする。なので、これを<直喩>の表現技法の掲出作品とするには窮屈な感じがするけど、こういう詠い方ができるのも現代短歌の深化だ。

 

 せっかくなので、「AのようなB」の主従関係について、吉川宏志の作品で確認しよう。氏の作品群は、これまで「近代短歌」が連綿と繋いできた修辞技法の到達点、といっていいと思う。今回の角川「短歌」12月号の特集でも、先の田村元のほか、高野公彦、内山晶太の両氏が、吉川の作品を引用して比喩について論じている。

 次の2首は、その内山の掲出した吉川作品。

 

 人を抱くときも順序はありながら山雨のごとく抱き終えにけり

                         吉川宏志『夜光』

 画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ

                             『青蟬』

 

 この2首を比べて、筆者の言う「AのようなB」の主従関係の違いがわかるだろうか。

 1首目は「山雨」のような「情事」の関係であり、とある情事を「山雨」に喩えている。この作品については、情事にも順番があるんだけれど、の、「けれど」の逆接を比喩で補っており、「情事」が主で喩は従の関係だ。本来的な<比喩>の修辞技法だ。

 一方の2首目は、「画家が絵を手放す」ような「春の日暮れ」。こちらは、<比喩>そのものを味わうための作品といえる。すなわち、「画家が絵を手放す」が主であり、「春の日暮れ」は従だ。何となれば、「春は暮れ」でなくても、「秋は暮れ」でも「冬は暮れ」でも歌としての味わいはそんなに変わらないんじゃないか、とまで、思う。

 

 今回は、<直喩>表現についてみてきた。

 <比喩>は、もともと、分かりにくい物事を、「AのようなB」といった表現で、分かりやすく説明するための修辞技法のひとつだった。しかし、短歌文芸に取り入れられることで、<比喩>そのものを味わう、といった短歌技法のひとつに深化した、というのが、今回の主張だ。

 

 次回は、少し難しくなって<隠喩>、さらにいくつかの技法を重ねた複雑な<喩>についてみていきたい。