短歌の<比喩>②

 <比喩>の話題の2回目。

 今回は<隠喩>から。

 <隠喩>とは、<直喩>の「~のような」「~みたいな」「~ごとき」が消えたもの、ととらえていいだろう。「綿のような雲」は<直喩>だが、「雲は綿」となると<隠喩>になる。

 この<隠喩>の一般的な修辞の効果は、というと、例えば「雲は綿」みたいな文章をいきなり読まされると、一瞬、「??」みたいな感じになって、「雲」から「綿」へ、頭の中でイメージの変換が必要になる。<隠喩>というのは、「~ような」が省略されているので、それを頭のなかで補って理解するという、読んでから理解にいたるまでのタイムラグが生じる。このタイムラグが心地よく感じることができれば、文芸としての<隠喩>技法は効果的だったといえるし、何だかよく分からないままだと、それは失敗ということになるだろう。

 理屈はともかく、実作をみていこう。

 今回も、前回同様に、の田村元による「すごい比喩の名歌集」30首選(角川「短歌」2020年12月号)より。

 

 身の内にまっ赤な鉄を滅多打つ鍛冶屋が居りて二日酔いなり

                     佐佐木幸綱『テオが来た日』

 雪はみぞれに、みぞれは雨に、そうやって会わなくなっていったことなど

                     小島なお『展開図』

 

 1首目。「二日酔い」を「身の内にまっ赤な鉄を打つ鍛冶屋が居」るようだと喩えたわけである。こういう作品は、完全に比喩を愉しむ作品。へえ、面白いこと言うなあ、と愉しめばよい。

 2首目。雨がみぞれから雪になるのではなく、雪がみぞれを経て雨になっていくというのが、少しばかり面白い感じ。田村の解説を引用するなら「…下の句の内容を踏まえると、恋人への思いが、だんだんと薄らいでいったことの暗喩なのだろう」とのこと。そうやって読むといいのだろう。

 

 <隠喩>というのは、<直喩>と比べて、各段に<喩>を味わうという要素が強くなる。つまり、「AのようなB」の「B」を説明するために<喩>を使うのではなく、「A」を味わいましょう、ということだ。けど、佐佐木幸綱作品のような、こんな「A」を詠んでみましたよ、ドヤア、みたいな感じだと、ただの面白い歌になってしまうので、修辞技法として洗練させようとすると、複雑な様相を示してくる。

 次は、そんな複雑な<喩>の作品。

 

 陽に灼けて胸筋腹筋割れてゐる板チョコレートが私は好きだ

                 松山紀子『わたしも森の末端である』

 モルヒネを打たずに心を縫うような痛みだ今日の空の高さは

                 中島祐介『Starving Stargazer

 青空へわたしはろくろっくび伸びてくちづけしたし野鳥のきみと

                 大森静佳「現代短歌」2019年4月号

 

 1首目。「板チョコレート」を「陽に灼けて胸筋腹筋割れている」ような人間、に喩えた。一読、<この喩ドヤア>系の作品に分類できそうだが、「ような人間」の部分が<省略>されているのがポイント。短歌は、字数に制約があるから、どうやって<省略>を施すか、というのも、短歌の修辞技法のひとつといえる。それはともかく、この<省略>があることで、「私は好きだ」が、「板チョコレート」だけではなく、「板チョコレートのような体をした人」にもかかってくるように読めてしまうのである。短歌ならではの<隠喩>の効果ということがいえるだろう。

 2首目。「今日の空の高さ」を「モルヒネを打たずに心を縫うような痛み」に喩えている。これは<隠喩>。そして、「痛み」を「モルヒネを打たずに心を縫う」ような痛みに喩えている。なので、ここは<直喩>。それから、「心を縫う」も<比喩>。前回までの議論の用法でいえば<コロケーションのずらし>。「心」は縫えない。「心臓」は縫えるだろうから、ここは「心」を「心臓」のような臓器に喩えた。ということで、1首に3つの<比喩>が折り重なって詰まっているという、複雑な<喩>を施した作品といえる。

 3首目。大胆な<省略>と<倒置>が施されている。<省略>は、「伸びて」のところ。「首が伸びて」と補うといい。<倒置>は2つ。上句は「わたしはろくろっくび青空へ(首が)伸びて」、下句は「野鳥のきみとくちづけしたし」となる。なので、散文にすると、「わたしはろくろっくび。青空へ首が伸びて野鳥のきみとくちづけがしたい」となる。で、そう解読すると「首が伸びて」のところは、「首を伸ばして」が日本語として正しいだろうから、<省略>技法を効果的に使用した、といえるかもしれない。

 で、<比喩>はどこにあるかというと、「わたしはろくろっくび」と「野鳥のきみ」の2つ。

 修辞技法を取り出せば、<省略>と<倒置>と<隠喩>の合わせ技、という作品といえよう。

 

 ところで、複雑な<喩>としては、視覚を聴覚で喩えるという、アクロバティックな作品もある。

 引き続き、田村元選による作品を取り上げよう。

 

 朝の陽のいまだ脆きにひとときの拍手のごとき川面を越えつ

                      小原奈実『短歌』2019年5月号

 スプレーのやうに演歌をまき散らし銀のトラック那智の浜越ゆ

                      小黒世茂『やつとこどつこ』

 

 1首目。「拍手」のような「川面」。聴覚で視覚を喩えている。

 2首目も同様。「スプレー」のような「演歌」。こちらの方が、<喩>としては複雑で、トラックから漏れ出る大音量の演歌がスプレーの噴霧のようだ、というのを凝縮して「スプレーのやうに演歌をまき散らし」と表現した。凝縮してもキチンと読者に伝わるのは「まき散らし」の部分が的確だからだろう。

 

 筆者も視覚を聴覚で喩えた作品を思い出した。それは、佐藤佐太郎の代表歌。

 

 はなやかに轟くごとき夕焼はしばらくすれば遠くなりたり

                          『歩道』佐藤佐太郎

 

 「轟く」ような「夕焼」。アクロバティックな表現には違いないが、この作品がそれだけで終わらないのは結句の「遠くなりたり」。「遠く」が、夕焼けが遠くなっていく様子と響きが遠ざかっていく比喩様子と両方にかかっているからだ。

 

 と、今年は、ここまで。

 また来年、引き続き「短歌」の世界のあれこれについて、お喋りします。