短歌で虚構をやる理由②

 あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。

 

 少し前に、去年の角川短歌賞受賞作品の田中翠香「光射す海」の虚構性について議論した。

 この作品は、シリア内戦に赴いた戦場カメラマンを主人公とした50首連作なのだが、作者は、戦場カメラマンでも何でもなく、虚構として50首連作を構成していたのであった。

 この50首連作について、筆者が出した論点は、大きく2つだった。

 まず、前提として、

・一首をテクスト分析するであれば、虚構であることは問題にはならない。

 ということを確認したうえで、次の2点を提出した。

 すなわち、

・ただし、今回は50首連作での評価であるので、テクスト分析とはまた違った指標での評価となる。そのうえ、今回は、作者の匿名性を利用した所業であり、作者の属性が明らかになっていれば到底評価されない連作である

・また、こうしたルポルタージュ性の強い内容を短歌でやるのは無理があったのではないか。ルポルタージュや小説世界といった散文形態の方が、短歌のような韻文よりもずっと作者のいいたいことを伝えられるだろうと筆者は考えるから、こうした作品を作ろうとした作者の動機を筆者は理解できないし、もっというと倫理的な問題もある

 

というようなことを論点とした。

 

 さて、この50首連作について、江戸雪と内山晶太の両者が角川「短歌」1月号の「時評」で取り上げた。

 

 江戸雪は時評「誰にも邪魔されない世界」で、次のように言う。

 

 長く内戦状態にあるシリアにカメラマンとして赴く人間が詠われている。厳密と言っていいほどの場面設定のせいか映画を見ているような感覚を持って読んだ。読みが分かれるような難しい歌はない。(中略)

 …これは小説ではない。つまり、短歌を読むときの、歌を読み解いて何かを探り当てる楽しさは得られない。(中略)

 さらに、受賞のことばの冒頭でこの連作が「想像と虚構を中心としつつ」作られたことが表明されている。そこに少し違和感を感じてしまった。もちろん、目の前の作品が虚構かそうでないかは大きな問題ではない。読者として言葉を手がかりに想像をふくらませて読み、感じ、ときに感動するだけだ。ただ、それを可能にするには作者と読者の間の暗黙の契約がある。「本当にあったことかもしれない」という曖昧さの契約だ。(中略)

 …短歌は言葉の、言葉だけの世界だ。そこに「虚構」という情報が入ってしまうと、言葉が作り上げた世界が褪せてしまう。(中略)

 本当にあったことと虚構との間にあるものこそが文学の面白さ、魅力だとおもうのである。

(角川「短歌」2021年1月号)

 

 端折りすぎて、よく分からなくなった感じもするけれど、とりあえず、要旨をまとめよう。

 

・この作品からは、「短歌を読むときの、歌を読み解いて何かを探り当てる楽しさは得られない」

・作品が「虚構かそうでないかは大きな問題ではな」い

・読者と作者の間にある「本当にあったことかもしれない」という曖昧さの契約が重要だ。なぜなら、短歌は、言葉だけの世界なので、「そこに『虚構』という情報が入ってしまうと、言葉が作り上げた世界が褪せてしまう」からだ

・「本当にあったことと虚構との間にあるものこそが文学の面白さ、魅力だ」

 

 と、いったところが、今回の江戸の評論の論点といえるだろう。

 とりあえず、順番に見ていこう。

 

 まず、1点目の「短歌を読むときの、歌を読み解いて何かを探り当てる楽しさは得られない」については、例えば、道券はなの50首連作と比べると分かり易い。本Blogでも田中と道券の両方の連作を取り上げたが、確かに、田中の作品の一首一首に読みが分かれる歌は、ほぼないといってよい。他方、道券はなの50首は、読み解くのに時間のかかるものが結構ある。本Blogでも、「解凍」なんて言葉を使いながら、かなり字数を使って作品を読み解いている。なので、この江戸の主張は、筆者も首肯できる。ただし、だからといって、田中のこうした作品群を否定的にとらえる必要はない。そういう作品世界も短歌にあってもいいだろう。

 続いて、2点目。江戸は虚構作品であっても、大きな問題はない、と述べている。この点についても、筆者としては、一首評であれば異論はない。その通りである。

 3点目。ここが、今回の主要な論点となる。すなわち、江戸のいう「曖昧さの契約」というワードについての賛否だ。江戸によれば、作者と読者に間には、ある曖昧な「契約」があるという。それはどんな「契約」かといえば、「本当にあったことかもしれない」という「契約」なのだという。つまり、読者は、作品を「本当にあったことかもしれない」という「契約」を作者と曖昧ではあるが交わしたうえで読んでいる、という。だから、作者が、この作品は虚構ですよ、とあからさまに言われてしまうと、「そこに少し違和感を感じてしま」うし、「言葉が作り上げた世界が褪せてしまう」というのである。

 この点が、今回の江戸の主要な論点と筆者はとらえる。で、この主張、筆者がこれまで本Blogで繰り返し主張している、「ホントのようなウソ」とかなり近いのではないか、と思う。

 かつて、本Blogでは、エッセイの例を持ち出して、「ホントのようなウソ」を例示した。

 それが以下だ。

 

 話をものすごく単純にいうと、小説というのは、作者が考えた「面白い話」を、「いかに面白く書くか」、というのものだろう。読んで、面白ければ本は売れる。

 他方、エッセイというのは、作者が考えた「面白い話」を「いかに本当らしく書くか」というものなんだと思う。だから、「面白い話」が本当なのかウソなのかは問題ではない。それが、ちゃんと本当らしく書かれてあれば、もともと面白い話なんだから、本は売れる。

 で、「本当らしい」の担保として、そのエッセイを書いた作者の属性はかなり重要になる。「枕草子」の作者が実は男性だった、となると、あの内容はフィクションだった、ということになり、とたんにツマラないものと感じよう。べつに、古典にこだわる必要はなく、なんでもいいけど、例えば、さくらももこもものかんづめ』が、実はさくらももこが書いていなくて、別のゴーストライターがいて書いていたとしてもバレなければ作品に支障はないがけど、実はゴーストライターがいたなんてことがオオヤケになると、途端に、内容が嘘くさくなってしまう(というか、ウソだったということがバレる、ということだろうけど)ということだ。私は、あまりエッセイは読まないけど、売れている作家のエッセイの多くは、アシスタントなりゴーストライターなりが代わりに書いていると思うし、そして、その内容のほとんどは雑誌や編集者のテーマに合わせた作り話だと思っているけど、別に、それはそれで問題はない、と思う。

 そういうわけで、エッセイというのは、「本当らしく」書かれてあればそれでいいのであり、「本当かどうか」の証明は一切必要としないジャンルである、ということだ。

 と、ここまで、話を進めて、短歌の話題に移る。

 私は、原則として「歌集」というのは、「エッセイ集」と同じように読んで愉しむものなのだろうと思う。

つまり、やはりそこで詠まれてある歌の内容が、本当がどうかは問題にならない。別に、作り話でも、見てもいないことを見たように詠っても問題はない。大切なのは、それらの歌にリアリティがあるかどうか、ということである。リアリティがないと、読み手としては、まったく面白くない、ということだ。あるいは、本当らしく書いていながら、明らかなウソが分かるととたんに騙された気持ちになってツマラなくなる。こちらも、エッセイを読む愉しみと同じだろう。

 

 どうだろう。江戸の主張とかなり一致していると思う。

 で、今回の田中の所業について、江戸は、契約の不履行を主張している、ということができよう。すなわち、読者である江戸にとって、作者である田中が、これは虚構です、と、「受賞のことば」でいうのは、読者と作者で交わした「曖昧な契約」の不履行だ、と主張しているのである。

 この点について、読者側である江戸の主張については、これまで見てきた通りである。

 では、一方の作者側である田中は、どうか。

 と、いうと、やはり「受賞のことば」あたりで、カミングアウトはしておかなくちゃアカンだろうな、とは思う。

 つまり、この作品は「ホントのようなウソ」ですと、言っておかないと後々面倒なことになる、という計算が働いたのだろうし、それはそれで、賢い計算だったとは思う。

 で、筆者としては、「今回は、作者の匿名性を利用した所業であり、作者の属性が明らかになっていれば到底評価されない連作である」と、作者の田中を責めつつも、やはり、賞レースと匿名性は相性が悪いということは、繰り返し主張しておきたいと思う。

 

 と、いうことで、論点は、作者の属性がわからない状態での連作の評価についての可否、というあたりに絞られるのではないか。

 そんなことを踏まえて、続いて、内山晶太の「時評」をみてみよう。

 内山は言う。

 

 …たしかにこの一連は作中主体の葛藤が薄い。(中略)修羅場にあるはずのどっちが前だか分からなくような混乱がない。ぐねぐねとした曲線状の流れはなく、直線的に連作が進んでゆくように見える。だから想像や虚構が良くないというわけではなくて、その葛藤の薄さや直線的な連作の進行が戦場カメラマンという特殊な職業の冷静かつ沈着なイメージとうまく結びつけられたのが「光射す海」だった。(中略)

 そして、田中が選択した作品作りの方法は、選考委員に事実性を重んじて選ばれたものであったとしても全く否定される筋合いではない。作者匿名による選考は、作者名ありきで作家性に沿った読みができないところが難しいとして、それはこれまで論じられてきた部分であり、作品そのものの力の有無とは次元の異なる問題ということになる。

(内山晶太「二つの新人賞」角川「短歌」2021年1月号)

 

 注目すべきは、後半のパラグラフだ。

 内山は、田中の作品作りの方向は否定される筋合いではない、と田中を擁護する。

 そのうえで、「作者匿名による選考は、…作品そのものの力の有無とは次元の異なる問題ということになる」と述べる。

 さて、ここで内山の言う「作品」とは、「一首」なのか「一連」なのか。

 ここが、どうも筆者にはわからない。

 文脈で判断すると「連作」ととらえていいと思うが、ちょっと確信が持てない。

 もし、このパラグラフで内山が言っている「作品」が「一首」単体を指すならば、筆者は首肯できる。しかし、「作品」が「連作」全体として指しているならば、筆者は到底首肯することはできない。なぜならば、筆者は、「連作」での作者匿名と連作そのものの力の有無は、同じ次元の問題と考えるからである。

 つまり、50首連作で、一首評の読みは到底できない、というのが筆者の立場である。

 例えば、道券はなの50首をテクスト分析したとしても、それで、50首の「連作」の評価になるのかといえば、そんなことは到底できない。できるのは、あくまで「一首」の評価である。

 同様に、田中の50首作品を、作品構成をバラバラにして、テクスト分析の手法で分析する意味があるかというと、その必要性は感じられない。

 この作品の評価は、先ほどの江戸の論述に沿っていえば、「本当にあったかもしれない」という作者と読者の「曖昧な契約」があってはじめて成り立つといえるのだ。

 というわけで、内山の主張については、「一首」単体を指すならば首肯できるが、「連作」全体として指しているならば首肯することはできない、というのが筆者の立場である。