短歌の<比喩>③

 <比喩>の話に戻る。

 

 短歌の世界の<比喩>表現として、「短歌的喩」と呼ばれるものがある。

 これが、なかなか面白い。

 この「短歌的喩」は、吉本隆明が提唱した概念で、短歌のみにあらわれる独特の比喩の働きをいう。概略をかいつまんでいえば、短歌を上句と下句にわけて、それぞれが喩として円環的、相互的には働いている、とする(『現代短歌大事典』三省堂)。

 

 灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ

                       岡井隆『斉唱』

 

 吉本は、この岡井の作品で、上句は下句の「像的な喩」、下句は上句の「意味的な喩」とした。(前掲書)

 「像的な喩」「意味的な喩」というのは、少し難しいけど、要は、上句は下句の喩であり、下句は上句の喩だ、お互い喩え合っているのだ、と簡単にとらえるとスンナリわかるかと思う。

 岡井の作品でいうと、<灰黄の枝をひろぐる林>というのは、まるで<亡びんとする愛恋ひとつ>のようなものだとして、心象を実景の意味として喩えているといえるし、一方で、<亡びんとする愛恋ひとつ>というのは、まるで<灰黄の枝をひろぐる林>のようだと、実景を心象の像として喩えている、ということがいえよう。

 本当は、もう少し難しい概念なのだけど、ごく乱暴にいうとそういうことである。

 以前、取り上げた角川「短歌」2020年12月号の特集「比喩の魔力」でも、「短歌的喩」の作品として、田村元が次の作品を取り上げている。

 

 群青の胸をひらいて空はあるかけがえないよさみしいことも

          北山あさひ「かばん」2016年5月号

 ゆうぐれの前方後円墳に風 あのひとはなぜ泣いたのでしょう

                  田口綾子『かざぐるま』

 

 北山の作品ついて、田村は次のように解説する。

 

 (前略)「群青の胸をひらいて」が青空の隠喩になっている。また、この歌は、上の句の青空(風景)と、下の句のかけがえのなさ(思い)とが、互いに比喩の関係にある。吉本隆明が「短歌的喩」と呼んだ、短歌ならではの比喩が用いられた歌だ。

(角川「短歌」2020年12月号)

 

 田村の解説を補うならば、群青の「空」は、まるで「かけがえのない」さみしさのようだ、ともいえるし、今わたしが抱えている「かえがえのない」さみしさというのは、まるで、今見上げている「空」のようだ、ともいえる、というわけである。

 空の風景が「像」で、今の心情が「意味」ということだ。今の心情を空という「像」で喩え、空の風景を心情という「意味」で喩えている、ということである。

 2首目の田口の作品も同様だ。

<ゆうぐれの前方後円墳に風>は、悲しみの「像的な喩」といえる。つまり、悲しみとは、まるで、ゆうぐれの前方後円墳に吹いている風のようなものだ、といっている。一方で、あのひとの悲しさは、ゆうぐれの前方後円墳に吹く風の「意味的な喩」といえる。つまり、ゆうぐれの前方後円墳に吹いている風というのは、まるで、あの人の悲しさのようなものだ、といっているのである。

 

 もう少し、掲出してみよう。

 筆者が最近読んだ歌集、永井祐『広い世界と2や8や7』(左右社)から。

 

 君は君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る

 宇宙でもこわれないもの 枕もとにグレープジュースを置いて昼寝を

 春のなかで君が泣いてる 階段はとてもみじかくすぐに終わった

 七月の夜は暑くてほっとする むかしの携帯を抱いて寝る

 セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい

 

 1首目から4首目までは、上のかたまりが「意味的な喩」で、下のかたまりが「像的な喩」であり、5首目だけは、上句が「像的な喩」で下句が「意味的な喩」といえるだろう。そして、どの作品も、上のかたまりと下のかたまりが互いに比喩の関係にある、ということがいえるだろう。

 

 以上が「短歌的喩」なのだが、さて、どうであろうか。

 スンナリで納得できるであろうか。

 もう一度初めに戻って、岡井隆の歌を、再び掲出しよう。

 

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ

 

 この作品、上句と下句は互いに比喩の関係にあるんですよ、と言われると、ああ、そうか、と思うが、もし、そんな解説がなかったら、果たして、そんなことに気が付くだろうか。

 筆者は、もしこの「短歌的喩」という概念の解説がなかったら、到底、分かりようもなかったろう。林を見ている主体がいて、それを見ながら、愛恋がいま終わろうとしているなあ、と感嘆しているんだなあ、としか解釈ができなかったと思う。

 せいぜい、主体の林を見ている状況と、愛恋の終わりを重ねて、一首を重層的に構成している、という理解までであろう。比喩の関係にあるというところにまでたどり着けるかどうかは、はなはだ心許ないし、もし、運よく比喩関係にあった、と読み取ることができても、お互いが比喩関係にあるとまでは、分かりっこなかったろう。頑張ってみて、灰黄の枝が広がっているイメージは、愛恋の終わりと重ねることができる、なんてところまでで、愛恋の終わりは、灰黄の枝が広がっている林のようだ、という解釈は導き出せようもなかったろう。

 そのように考えると、この「短歌的喩」というのは、<読み>の解釈のひとつと捉えることもできる。なので、この概念を使うことで、より深い<読み>ができる、ということはいえるだろう。ただし、「それは深読みですよ」という批判もまた成り立つとは思う。

 なので、この岡井の作品にしても、今後、新たな視点を見つけ出すことで、「短歌的喩」を批判的にとらえる論点は提出できると思う。まして、筆者のあげた永井祐の作品は、果たして「短歌的喩」として、相互的な比喩関係にあると主張できるかどうかは、はなから議論の余地がありそうである。

 筆者としては、この「短歌的喩」が、短歌の<読み>というのをカルト的というか、短歌愛好者だけにしか分からない閉鎖的な<読み>に陥ってしまうきらいはあるものの、短歌独特の<比喩>表現であるという点については首肯する。すなわち、上句と下句が隠喩関係にある表現である、ということは成り立つと思う。そして、そうした、互いに比喩的な関係にあるというのは、短歌形式以外にはありえない修辞技法ともいえよう。

 であるから、「短歌的喩」というのは、短歌形式のなかで独自に進化した<比喩>表現である、と主張するのはそんなに無理な主張とは思わない。ただ、「短歌的喩」という呼称はどうなんだろう。短歌形式で、喩法が独自の進化を遂げたということで、ガラパゴス的比喩表現ととらえてみてはいいのではないか。で、呼称も「ガラケー」ならぬ「ガラユー」なんて感じのキャッチーなネーミングにすれば、わりと受け入れられやすいかもしれない、なんて思ったりもする。