このBlogでは、短歌についてのあれこれについてのお喋りを1年以上ダラダラと続けている。
思いついたテーマを思いついたままに述べてきたので、だんだんと収拾がつかなくなってきた。なので、ここで一旦、まとめに入りたいと思う。
そもそものはじまりは、秀歌とよばれる作品の、その秀歌たる理由を知りたい、ということからはじめたものだった。違う言い方をすれば、「秀歌のメカニズム」を探ろう、といったところだ。
どういう理由で「秀歌」と呼ばれるのか、その客観的な理由を知りたい、といった、わりと素朴な疑問を解きたいと思って、ダラダラやってきた。
で、一応、その答えのようなものが、散見されはじめたので、まとめていくことにしよう。
数多ある短歌作品のなかで、ある短歌作品は良い作品といわれ、べつの作品は悪い作品といわれる。
けれど、そんな良し悪しをつける、何か基準みたいなものが短歌の世界にあるのか。
と、いうと、極論をいえば、そんな基準みたいなものはない。
誰もが好き勝手に、この作品はいいとか、悪いとか言っている、と言えなくもない。
ただ、一応、作品の良し悪しをジャッジする以上、何らかの指標がなくちゃあ、ジャッジのしようがないのは確かだ。筆者にしても、筆者なりの指標で、他人の作品を批評していよう。
けれどその指標といっても、どこかに客観的な指標が転がっているわけでなく、結局は、評者によってまちまちだから、納得できるものもあれば、まったく納得できないものもある。つまり、何でこの作品が良いのか、あるいは何でこの作品がダメなのか、読者としては、どうにも分からない、ということだ。
けど、評者によってまちまちなのは確かだけど、何らかの指標があるらしいのは間違いない。その、何らかの指標をできるだけ客観的に抽出することができれば、「秀歌」と呼ばれる、その客観的な理由もおのずと抽出できるだろう。そして、その理由が分かれば、「秀歌」のメカニズムもまた解析できるのではないか。
なので、短歌作品をできるだけ細分化して、これが秀歌の原因というか、素(もと)、といえるようなものを取り出してみよう。そして、そんな「秀歌の素」が集まって、構成されることで、秀歌が出来上がる、といったイメージで短歌作品をとらえてみよう。
と、いうのが、これまでお喋りの動機だ。
では、実際に「秀歌」のメカニズムを解析するために、まずは、短歌作品の構成部位を3つに分けるところからはじめよう。
すなわち、短歌の<調べ>と<文体>と<内容>の3つだ。
短歌は、この3つが組み合わされて、「秀歌」となる。人間が脳みそやら内臓やら骨格から全部合わさって一個のかけがえのない人間となるのと同じことだ。そして、それぞれの部位は、どの人間も違っているから、人間には人格がみんな違うわけだ。けど、脳みそは、いい脳みそもあれはいまひとつの脳みそもある。その違いを研究するために、脳科学なんてのが発達してきたわけだ。けど、脳みそだけが、その人間のすべてではない。脳みそもあれば、内臓もある、骨格もある。いろいろ分類して、いろいろ研究して、人間とはどんなメカニズムになっているのか、研究しているわけだ。そこでは、分かったことと、まだ、分からないことがあるだろう。
これから、短歌作品でやろうとしていることもおんなじことで、一つの作品を3つの部位に分けて、それぞれの良さのメカニズムを発見していく。そうして、それらが全部合わさって、「この作品は良い」だの「良くない」だののジャッジができよう、ということなのだ。
そういうわけで、「短歌」の部位を順番に見ていこう。
今回は<調べ>だ。
<調べ>については、何と15回にわたって本Blogでお喋りをしている。
この15回で議論されたことを、以下にまとめたい。
短歌は韻詩である以上、<調べ>の良さが作品の良し悪しを測る指標となるのは当然である。
じゃあ、<調べ>とは何か。
というと、普通、短歌は<韻律>で<調べ>の良さを評価してきた。
つまり、<韻律>が良ければ、それは<調べ>の良い歌である。とされてきたのだ。
じゃあ、<韻律>とは何か。
というと、これは<韻>と<律>に分けることができる。
そのうち<韻>については、短歌では、漢詩のように、あるいは西洋詩のように頭韻とか脚韻とかが、はっきり定義づけられているわけではないし、厳密な解釈が施されているわけではない。逆に、短歌で漢詩や西洋詩でいうところの頭韻や脚韻がそろいすぎると、幼稚くさくなる。これは、定型で十分調べが良くなっているところに、韻をそろえると、ヤリスギになってしまう。だから、短歌で<韻>を感じながらも「調べがいい」なんていうのは、かなり曖昧な解釈がなされているのが現状だ。漢詩や西洋詩の概念である<韻>とは別物であるが、<韻>のような母音や子音の並びに注目して「調べがいい」理由として短歌の世界では議論されている。
だから、<韻>については、頭韻がそろっているとか、A音の優位性とか、破裂音が共鳴しているとか、そんなレベルでしか議論ができない。メカニズムを抽出するほどの条件が短歌には存在していないのである。なので、ここは議論を深めようがない。短歌作品それぞれがそれぞれの<韻>で語るしかないので、客観的な指標を抽出することは不可能だ。なので、<韻>については、ここで、議論が終わる。
では、<律>はどうか。
というと、こちらは、大前提として57577という定型のリズムが備わっている。その前提で、<調べ>がいいだの悪いだの議論しているのであるから、何か、メカニズムが抽出できるのではないか、という憶測のもと、議論を深めてきた。
Blogでは<音歩>なる概念まで提出しながら、あれこれ議論したのであるが、そのなかで、ひとつの結論として、
・短歌の<調べ>は、「強弱2拍子」で読み下せるものが良い
というのを提出した。
「強弱2拍子」説とでも呼べる説だ。
Blogでは、斎藤茂吉『白き山』の
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
をテクストとして、「強弱2拍子」説を展開した。
その骨子は、
もがみがわ/さかしらなみの/たつまでに/ふぶくゆふべと/なりにけるかも/
といったもので、初句「モガミガワ」は、「モ」が強拍で「ワ」が弱拍。二句「サカシラナミノ」は「サ」が強拍で「ナ」が弱拍。あとも同じく、「タツマデニ」の「タ」が強、「ニ」が弱。「フブクユーベト」の「フ」が強、「ユ」が弱。「ナリニケルカモ」の「ナ」が強、「ケ」が弱。そうやって強弱をつけて、2拍子で読む。等時拍だから、例えば5音句の「モガミガワ」のワのあとは休拍がある。
つまり、こんな感じ。
もがみがわ・・・/さかしらなみの・/たつまでに・・・/ふぶくゆふべと・/なりにけるかも・/
と、いうように読めるのであれば<調べ>が良い、というわけだ。
これが「強弱2拍子」説の骨子である。
ただし、この結論に至るまでに、<等時拍>説と<緩急>説についての議論が必要なんだけど、それは、ここでは省略。一応、過去の<調べ>についての稿で、現代人は<等時拍>で読んでいる、という理由を説明してある。
さて、この「強弱2拍子」説であるが、この説でいくと、必然的に次のような仮説が成り立つ。
・57577にこだわらなくても、各句8音までなら、許容できるのではないか
つまり、8音を4音4音といった2拍子に分解できるのなら、各句8音でも<調べ>は崩れない、ということだ。
ただし、これ3句は例外。3句だけは、5音もしくは6音でないと<律>はつくれない。この点についても、過去の稿で理由は述べた。
なので、仮説としては、次の2つを提出しよう。
・3句以外は、8音までは許容できるのではないか
・3句は6音のトマトトマト型なら許容できるのではないか
次回、この仮説の検証をしたいと思う。