前回、短歌の<文体>について、3種類提出した。
すなわち、
・「近代短歌」の「私=作者」である<文体>
・「前衛短歌」からはじまる、主体の見たことや考えたことや感じたことを、作者が主体に代わって叙述する<文体>
・穂村の作品のような「語り手」が語る<文体>
の3つである。
短歌の<文体>については、この3つに大方は分類される。
ちなみに、小説世界の<文体>はどのように分類されるか、というと、「語り手」の「語り」によって分類される、ということになろう。「語り手」が一人称だったり、三人称だったり、と大きく分類されて、さらに、その「語り手」の語る「語り」については、「視点」や「焦点化」といった概念でさらに細かく分類されていく、ということになろうが、これはこれでかなり専門的な話になるので、やめておく。
短歌の世界も小説世界の<文体>の分類にならってもいいとは思う。ただ、短歌の世界では、「近代短歌」によって形成された<文体>が、現在なおその影響を短歌の世界に強く及んでいるという歴史的経緯を踏まえ、先の3つのように分類するのが適切であろうというのが、筆者の主張だ。
さて、そうはいうものの、短歌の世界には、先の3つにはあてはまらない<文体>も確認できる。
例えば、主人公の「発話」。小説世界ならカギカッコで示されるやつ。シナリオならセリフ、漫画なら「ふきだし」と呼ばれているやつだ。この「発話」、短歌の世界では、独特の進化を見せている。
「平凡な女でいろよ」激辛のスナック菓子を食べながら聞く
俵万智『サラダ記念日』
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
1首目。これは、主体に対する他者の「発話」をそのまま、詠み込んでいるので、「私=主体」の<文体>に「発話」を挿入した作品、ということがいえる。
2首目。これは、登場人物の2人が「発話」しているから、「会話」ということができ、「私=主体」の<文体>に「会話」を挿入した作品、ということがいえる。
この程度なら大きな問題ではない。
しかし、次の作品はどうか。
ケンタおいトランプやつてゐるときは吉本隆明読むのやめろよ
荻原裕幸『あるまじろん』
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
穂村弘『シンジケート』
これらは、「発話」だけ、「会話」だけで、一首構成されている。
こうなると、先の3つの分類に当てはめることができない。「発話体」「会話体」とでも名付けることのできる<文体>の登場だ。
こうした、<文体>は恐らくは短歌独特のものだろう。
次は、どうか。
たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう
今橋愛『О脚の膝』
非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね
田口綾子『かざぐるま』
この2首は、主体の心の中でつぶやいた言葉、のような感じの<文体>だ。
こうした、こうした心の中のつぶやきにも、ちゃんと名称がある。「心内語」という。小説世界で「心内語」は、分かり易くマルカッコで示されていたりする。ただし、「心内語」だけで、小説世界を成立させるのは恐らくは無理だろうと思う。なので、こうした、「心内語」だけの<文体>というのも、短歌独特のものだろうと思う。
続いて。
この<文体>は何か。
小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない
中澤系『uta 0001.txt』
煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか
千種創一『砂丘律』
ステッィクがきらいでチューブ入りの糊を好むわけを教えようか
高瀬一誌『火ダルマ』
これらの作品は、他者に向かって話しかけている、という仕掛けを一首のなかにつくっている、という点で共通している。料理を作る人に、先輩に、読者に、といった具合である。「心内語」は他者の存在を必要としないが、ここにあげた作品は、とりあえず、料理を作る人なり、先輩なり、読者なり、といった他者が主体の眼前に存在している、という体裁をとらないと、こういう表現にはならない。こうした、他者に話しかけているという体裁でまるまる一首作られている表現様式を<対話体>とでも呼ぼう。
これらの<対話体>は先にみた<発話体>と一見すると同じに見えるがそうではない。話しかけている他者の想定が違っている。<対話体>の方は、さほど親しい人ではない。つまり、「会話」をするほどの親しさはなく、あくまでも「対話」なのだ。
次の作品も<対話体>に分類できよう。
「こんにちは」との挨拶によりこのぼくをどうしてくれるというんですか
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
こうやって提出してみると、<対話体>もひとつの独特な短歌の<文体>として分類できるような感じがする。
それはともかく次回、こうした<文体>の種類について、引き続きまとめていきたい。