<文体>についてのまとめ③

 <文体>について議論している。

 繰り返しになるが、短歌の<文体>について、大きな分類としては、次の3つだ。すなわち、

 

・「近代短歌」の「私=作者」である<文体>

・「前衛短歌」からはじまる、「私=主体」である<文体>

・穂村の作品のような「語り手」が語る<文体>

 の3つである。

 

 そして、ほかにも「発話体」や「会話体」や「内心語体」や「対話体」とでも名付けることのできる各種ヴァリエーションが存在していることを確認した。

 今回は、こうした短歌の世界の<文体>というのは、どうして様々に発展を遂げてきたのか、ということについて考えたい。

 短歌の世界の<文体>は、どうして様々に発展を遂げたのか。というと、それは<リアリティ>の担保のためなんだろう、というのが、本Blogで提出した仮説であった。

 そこで、本Blogでは、短歌の<リアリティ>とはいかなるものか、について、9回にわたって議論したのだった。<リアリティ>というのは、要するに「本当らしい」ということだ。短歌を読んで、これは「本当らしいな」と思えば、良い歌で、「ウソくさいな」と思ったら、良い歌にならない、ということだ。

 そして、短歌に限らず、文芸全般として、「ウソのようなホント」より、「ホントのようなウソ」の方が、良い作品となる、ということがいえると思うし、短歌にも当てはまるだろう。だから、短歌作品もまた、いかに「ホントらしく」詠むかということに、技法として発展してきた、ということをBlogではおしゃべりきてきた。

 で、そうした<リアリティ>という前提の上に、短歌の<文体>も発展してきたというのが、本稿の主張であった。

 たとえば、短歌の世界には現在、<文体>の分類について、文語と口語という大きな2分法が存在する。文語というのは、昔の書き言葉だ。昔の言葉だから、現在は使われていないので、普段から短歌作品に見慣れていないと(というか見慣れていても)、一読、よく分からない、ということになって、短歌が敬遠される要因にもなる。それはともかく、何で短歌の世界に、文語が残っているのかというと、それは韻詩だから、ということなんだろうと思う。文語は短歌の韻律に乗りやすいのだ。どれくらい乗りやすいかというと、口語に比べて圧倒的に乗りやすい。だから、韻詩である短歌や俳句に文語が残っているのだろう。そうでなければ、短歌や俳句だけに文語が残っている理由なんて、ちょっと思いつかない。

 そんな文語なのだが、時代が下るにつれて、短歌の世界ではどんどん発展していった。言葉も生きているのだから変化していくのは当然で、奈良時代の文語と平安時代の文語と鎌倉時代の文語が違ってくるのと同様に、短歌の世界も「近代短歌」からかれこれ100年以上たっているんだから、明治時代の短歌の文語と現在の文語は、違ってくるのも当然である。それに、現在では、もう文語は普段の生活では使われていないわけで、短歌の世界だけで、独自の進展をしていっているといってよい。このような状況を、「文語のガラパゴス的進化」、といっている人もいる。なので、こうした、短歌独特の文語の文体は、もう「文語体」と名付けてもあながち間違ってはいないと思う。

 さらに、短歌の世界では、文語と口語が混ぜごぜになっても、すっかり許容されている。これを、「ミックス体」を呼んでいたりもする。この「ミックス体」も、ミックスのバランスによって、文語多め口語少なめの文語優位から、文語少なめ口語多めの口語優位まで、グラデーションになっていよう。

 ただし、筆者はこうした「ミックス体」の文体は基本的にすべて<文語調>として扱っている。なぜかというと、こうした「ミックス体」というのは、<韻律>面からの誘惑によるものだと思うからだ。特に、過去形や完了形の助動詞、「き、けり、つ、ぬ、たり、り」とか詠嘆の助詞「か、かな」なんていうのは、実に<韻律>に乗りやすい。これら助動詞を、作品の結句につけたりすると、どうにも短歌らしくなる。「けるかも」や「なりけり」なんてのがそうだ。そうした<韻律>の誘惑に負けて、<文語調>にしてしまうのだろうと思っている。

 一方で、完全口語で提出されている作品も多い。こうした作品は、<韻律>の革新とともに、<文体>も革新しようとする意志が筆者には感じられる。

 じゃあ、なんでまた、わざわざ<文体>を革新しようなんて思ってんのだろう、というと、これは、はじめに戻って、やはり<リアリティ>を求めた帰結なんだろうと思う。

 単純に言って、こうした完全口語で作品を作る立場の歌人というのは、「近代短歌」が連綿と発展させてきた、<文語体>に、リアリティを感じなくなったんだと思う。自分のリアルな思いに、<文語体>はあわないのだ。先ほどの「ウソのようなホント」とか「ホントのようなウソ」の例を持ち出すのなら、<文語体>は、どうにもウソっぽいと感じるのではないか。「けるかも」や「なりけり」なんて、自分の今ここの思いとは程遠い、古くさいものと感じてるんだろうと思う。

 ただ、そんな完全口語は、やはり<韻律>にはそうそう乗ってくれるものではない。実に乗りにくい。どれくらい乗りにくいかというと、文語に比べて圧倒的に乗りにくい。だから、短歌の世界では、完全口語の作品は、あれこれ試行錯誤をしながら進展していったと言ってよい。そして、現在では、<文語体>と比較してそこそこの<韻律>の口語短歌が提出されてきているというのが現状と考えている。であるから、筆者は、完全口語短歌は、成熟期の渦中であるというのが、筆者の立場である。

 歴史的推移をみれば、「近代短歌」は文語で詠まれてきているから、現在でも短歌は、<文語調>で詠まれているのが主流だ。多くの歌人は、それで自分の作品の<リアリティ>は担保されていると考えているのだろう。

 しかし、それでは自分のなかの<リアリティ>は担保されないと考えている歌人も少数ながらも存在していて、そんな歌人が、あらたな<文体>を提出している、といえるだろう。

 そんな一例として、Blogでは「心内語体」ともいえる作品の変遷を議論した。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                         今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                            脇川飛鳥

 

 このような、等身大の私、そのままの私の想いをダイレクトに詠いたい、という欲求が、こうした「心内語」だけで一首詠んだ「心内語体」とでもいえる<文体>でできた作品なのだと思う。

 そして、そうした<文体>が深化しているものとして、次の作品を提出した。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                           田口綾子『かざぐるま』

 

 この歌の革新性については、既にBlog内で述べている。

 以上、<文体>についてまとめるならば、短歌の世界での<文体>の進展は、<リアリティ>の担保によって牽引されてきた、というのが本Blogでの主張だ。

 単純にいって、「ホントのようなウソ」を上手につければ、それは良い作品、といえるわけだから、そんな「ホントのようなウソ」をウマくつけるような<文体>を求めて、短歌の<文体>というのは進展を遂げている、ということなのだと思う。