わからない歌①

(2019年初出の、歌誌の連載原稿を転載)

 「わからない」歌をわかるようにしたい、そして、願わくば「いい」歌と読めるようにしたい、というのが、ここのところの話題であった。

 今回は、永井祐の作品を取り上げる。

 

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな

                     『日本の中でたのしく暮らす』

 永井は、二〇一二年に第一歌集を出版後、現在(2019年)まで歌集は編んでいないので、この第一歌集にある掲出歌が、現在のところの彼の代表歌と言っていいだろう。

 おそらく、この歌の何が「いい」のか、さっぱり「わからない」、というのが初読の感想と思う。この歌の発表時もそうした反応が多かったと記憶する(初出は二〇〇二年)。

 主体は、駅のプラットホームで電車を待っている。白線の手前、列の先頭に立っているのを想像すると、臨場感があっていいだろう。そこに、これから乗るべき青い電車がやってくる。「あの」だから、遠くに見えて、まだ電車は減速していない距離だ。その状況で主体は、モノローグしたのである。

 歌としては、初句の「青い」でかろうじて詩歌になったという感じか。だから、この「青い」をしっかり味わって抒情したい。ここに詩情が感じられれば、「いい」歌となるし、そうでなければ、「よくない」歌となろう。

 歌集中には、こうしたいわゆるダウナーなモノローグの作品がわりとある。そして、このモノローグが、現代の若者の気分を表している、なんていう感じで歌集出版時は、論じられていた。

 しかしながら、ダウナーなのは、歌の内容もさることながら、永井独特の口語文体にもあらわれていよう。

 掲出歌でいえば、下句の、どうしようもなく緩んだ口語文体。これを意識的に短歌作品として提出した。ここに、永井の革新性がある、と私はみる。

 下句のどうしようもなく緩んだ文体、これを文法分析するとこうなる。「はね飛ばす」の他動詞に、受身「れる」と助詞「たり」がくっついている。続いて、「する」の他動詞に、助詞「の(ん)」と断定「だ」と未来「う」と助詞「な」がくっつく。これだけ、助動詞や助詞がくっついている。例えば、この部分を文語に強引に変換すると、「はね飛ばせられたりするならむか」で、多分、文語文としては成立しないと思う。

 何が言いたいかというと、この永井の文体は、口語でしか表すことのできない文体だということ。換言するならば、口語でしか発想できない歌の誕生である、ということだ。

 文語ベースで作られてきた近代短歌からの完全な脱却が、この作品にはみられるわけで、恐らく、近代短歌の文語ベースの歌人からは、こうした文体は短歌の生理として受け付けなかったのではないか、と私は推測する。それが、「わからない」の根本ではないだろうか。こうした口語発想の緩い文体は、これまでの短歌とは明らかに違うものだ、と直感的に感じたのではないか、と思うのである。

 八〇年代のライトヴァースから始まって、口語文体はヴァージョンアップを施しながら、二十一世紀になり、永井祐や斉藤斎藤に代表される緩いモノローグ文体で、また、大きくアップデートした、というのが、私の現代口語短歌の見立てである。

 次回は、永井作品を別の角度から鑑賞する。

 

(「かぎろひ」2019年7月号所収)