わからない歌③

 前回は、「固定カメラ」「移動カメラ」という概念を使い、わからない歌を解釈した。今回も、この二つの概念を使って、作品を読み解いていくことにしよう。

 今回、取り上げるのは次の二首。

 

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり    

                       斎藤茂吉『赤光』

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

                       斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 

 どちらも、主体が道を歩いている場面を詠った作品なので比較がしやすいだろう。

 まずは茂吉。こちらは「固定カメラ」の歌。カメラは、茂吉が歩いた道を映している。結句「歩みなりけり」と過去形であるから、「歩いた」や「歩みであった」といったという過去の場面をカメラは映していよう。その道端で茂吉は回想する。「トマトが腐っていたところから、そんなに時間が過ぎていない道のりだったな」と。

 これが写実派の短歌、これまでの「わかる」歌である。なお、私たちは、この一首を読んで、トマトの腐った様子がありありとイメージできるのであるが、これはカメラで映しているのではなく、あくまでの茂吉の回想シーンであることに注意しよう。

 これが近代短歌の作歌の方法である。短歌の入門書などによくある、「一瞬のこころの揺れを歌にする」とか「一枚の写真を撮るように詠む」といった技法の典型である。道を歩いていたときのふっと心に浮かんだ回想、それをそのまま一首にしたということ。しかしながら、こうした作歌こそ、写実派による作歌の限界、ということもできよう。

 そして、その限界を鮮やかに越えていったのが、「移動カメラ」の作品であった。では、次に「移動カメラ」による斉藤斎藤作品をみてみよう。

 カメラは、雨の県道を移動している。現在形である。つまり、カメラは移動の真っ最中だ。そして、移動していると、遠くに何かが見えてくる。あれ、何だろうと思って、近づいたら、それはぶちまけられたのり弁だった、というのだ。

 茂吉も歩いていたが、茂吉は「なりけり」の過去形。カメラは動かない。というか、近代文語短歌は、現在形で表現するという発想が、そもそもなかった。一方の斉藤斎藤は、現在形。ただし、結句が体言止めになっているので、ぶちまけられたのり弁当をカメラがアップで映したところで「はい、カット!」という感じだ。

 こうやって、二つの作品を比べると、「固定カメラ」「移動カメラ」の違いがわかると思う。そして、この「移動カメラ」の発想は、これまでの近代短歌にはない発想であった。であれば、こうした作品こそ、現代短歌といえるものだろうと思う。つまり、この「移動カメラ」は、文語脈では無理な詠い方であっただろうし、ここに完全口語脈による新しい発想の作品が登場したといえるのである。

 斉藤斎藤のこの作品は、ここまでの議論を十分に踏まえた上で意図的に詠われている。「なんでしょう」なんて適当に詠っているようにみえて、決して即興的ではない。前回の永井祐も、わざとに緩く詠っているのであって、口語脈による新しい表現方法といったようなものを意識して詠っている。こうした、意識的な口語の詠い方がまさしく現代短歌といえるのである。

 

(「かぎろひ」2019年11号所収)