わからない歌④

  話の流れが斉藤斎藤の作品へといったので、今回からは、永井祐を離れて、斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』から、「わからない歌」を掲出してみよう。

 

「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンをおつけしますか」

                          斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 

 こうした人を食ったような歌は、日常詠というよりは、時事詠的・社会詠的に解釈すれば、まだ理解しやいすいかもしれない。

 掲出した歌は、現代社会に起こりうるかもしれない現象を、そのまま会話体でまとめた作品。ドキュメントタッチにしてみることで、リアリティをだしてみました、という感じか。コンビニのレジでの店員と客の一場面。店員に自分の名前を「渡辺さん」と呼ばせたのが鑑賞のポイント。大衆消費社会の象徴であるコンビニで、顔のない大衆のひとりであった主体が、店員に名前を呼ばせたことで、かけがえのない人間であるということを知らしめている、と解釈できよう。ただし、下句のマニュアル的な応対によって、その主体の抵抗も儚く潰えるというところが、作品のオチというか、現代社会へのアイロニーということになろうか。

 大衆消費社会に生きる大衆のひとりであるわれの在り様、といったような主題を、斉藤は、これまた現代社会を象徴する没個性的・マニュアル的な語り口を取り入れて、作品化している。

 

 お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする

 「こんにちは」との挨拶によりこのぼくをどうしてくれるというんですか

 

 さて、こうした会話ともモノローグともいえない独特の語り口は、斉藤が、先に述べた主題に迫るために生み出したものである。

 たとえば、八〇年代、いわゆるライトバースと呼ばれた作品では、会話体をうまく用いて、新しい口語の短歌を提出した。

 

 バック・シートに眠ってていい 市街路を海賊船のように走るさ

                     加藤治郎『サニー・サイド・アップ』

 荷車に春のたまねぎ弾みつつ アメリカを見たいって感じの目だね

 

 一首目の結句「走るさ」の「さ」、二首目の結句の「目だね」の「ね」の終助詞が会話体からの援用である。こうした終助詞を使うことで、新しい口語表現を獲得した。

 あるいは、いっそのこと、会話体で一首つくる、なんてこともした。

 

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

                          穂村弘『シンジケート』

 

 しかしながら、会話をそのまま一首にするなんてのは土台無理な話で、この穂村作品のようなものは、あくまでも実験的な歌として捉えるとよいだろう。

 とにかく、短歌の韻律にうまく口語を乗せる方略として、ライトバースは終助詞をいじることをやってみせた。おそらく、そうした方略に、もっとも意欲的で、もっとも成功したのが加藤治郎の一連の作品だった思う。

 このような加藤をはじめとする新しい口語短歌は、現代の若者の恋愛といった主題をいかにして現代詩歌としてバージョンアップするか、あるいは、当時の言語感覚にフィットさせて詠うか、という問題意識によって獲得されたものであった。しかし、斉藤斎藤の語り口というのは、そうした問題意識とは全く別の理由によるものであった。

 

(「かぎろひ」2020年1月号所収)