斉藤斎藤『渡辺のわたし』の続きである。
着信を拒否られている北口の夕日がきれいですが、何か?
モノローグとしても通用するけれど、普通に読めば、「主体」が、他者に話しかけているという設定となるだろう。けれど、この関係性は、かなり曖昧だ。親しい人に話しかけているようには思えない。「何か?」なんていうぞんざいな言い方は、相手との距離が感じられる。どうやら、作品の設定としては、アカの他人に「主体」が応対している、ととらえるとよさそうだ。では、そうとらえるとして、今日、アカの他人と会話をすることなんて、ましてや、駅のコンコースのような場所でなんて、ありえるのだろうか。
例えば、これが完全なモノローグ調であれば、問題はない。
シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい
衆目を集めるであろうシースルーのエレベーターで土下座をしてみたい、なんていう空想をしてモノローグするのは、短歌では、何も問題はない。ただし、空想じゃなくホントに土下座しちゃったら、相当おかしな人になるし、少なくとも歌にはならない。
「着信を~」の作品は、そんなモノローグ調ではなく、わざわざ他者を登場させて、会話のような語り口で詠っている。
さあ、こうした語り口によって、一首にどんな効果が生まれるか。
それは、こうした語り口によって、「主体」と「作者」を切りはなすことができる、という効果が生まれよう。
かねてより、近代短歌は「作品の主人公=作者」で、大きな混乱はなかった。歌に「われ」と詠われていれば、それは「作者」のことだった。けれど、だんだんと「作品の主人公=作者」とはいえない作品も登場してきて、この歌にある「われ」はいったい誰なんだ、ということになった。そこで、それは「主体」と呼ぶことにしようということになって、今にいたっている。
そうはいうものの、短歌は、一部の実験的な作品をのぞいて、普通、登場する「主体」は、「作者」あるいは「作者の身代わり」みたいな感じで、「作者」と同じ性別や年齢やものの考え方といった属性を同じくして登場する。
しかし、『渡辺のわたし』には、そうした短歌の前提をズラしている作品がある。
そもそも、作者が斉藤斎藤という名前で、歌集のタイトルが『渡辺のわたし』というように、歌集自体がズラされている。
そうした意図的なズラしは、作品にもあらわれている。
「健一さん、これは三色スミレですか?」「いえ、責任能力です」
ここに登場する「健一さん」は、第三者としての人間Aである。「主体」は、斉藤さんでも渡辺さんでもなく、違う登場人物にズラされている。
斉藤の発明した他者に「われ」を語らせる語り口は、「主体=作者」ではない、ということはおろか、作者の属性をも切り離そうとする、短歌の作法のギリギリのところを狙った方略なのだ。
では、なぜ、そんなギリギリに向かったか。
というと、それはやはり斉藤が、現代社会のなかの「かけがえのない私」といったようなものを、どうやったら短歌で表現できるかと、あれこれ格闘した帰結なんだろう思う。
(「かぎろひ」2020年5月号所収)