わからない歌⑩

 前回、〈リアリティ〉というワードを出して、わからない歌をわかる歌にしようと試みた。次の作品も同様に〈リアリティ〉の追求で読み解ける。

  白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                     永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 この作品、一年前にも取り上げたが、もう一回読み解こう。この歌は、三つのことが現在形で詠われている。「白壁に煙草の灰で字を書こうと思ったけど、思いつかなかったので、こすりつけた」とは詠っておらず、あくまで も、字を書こうと思った今、思いつかなった今、こすりつけようしている今、と三つの出来事をそれぞれ現在形で詠っているところに、 この歌の大きな特質がある。で、どうして、こうやって詠っているのかといえば、それぞれの今を〈リアル〉に詠いたかったから、と考えてみるのはどうだろうか。

 あるいは、主体の行動をリアルタイムで実況中継している歌、ととらえるといいかもしれない。スポーツの中継番組のように「白壁に字を書こうとしています、思いつかないようです、こすりつけようとしています」と主体が実況している、その実況の言葉をそのまま一首にした、ととらえるのだ。

 このような実況型は、次の作品にもあてはまるだろう。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

                          斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 この作品も、本欄で一年前に提出したものだが、永井の作品と同様に〈リアリティ〉というワードで鑑賞することができるだろう。こちらも、主体が、歩きながら「なんでしょう」と実況しているのである。

 さて、こうした現代口語短歌の技法は、何も永井や斉藤だけではない。

  降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む

                          内山晶太『窓、その他』

  かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く

                   早坂類『風の吹く日にベランダにいる』

  どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く

                          花山周子『風とマルス

 どの作品も、実況型で詠っている。

 一首目は、そんなにわからなくはないだろう。「踏みたくて踏む」がわからないといえばそうだが、ここが実況の部分だ。この「踏みたくて踏む」という心の移ろいに〈リアリティ〉を感じることができれば、この歌は味わうことができるだろう。

 二首目。結句の「歩く」の現在形終止がどうにも日本語として危うい。歩き出す、とか歩いた、歩いている、あたりがしっくりこよう。けど、これも、リアルタイムで主体が「ひとりひとりで歩く」と実況している、と読めば、この表現もアリといえるのではないか。

 三首目。こちらはずいぶんと、威勢のいい歌である。「ぶっ叩く」というのが、実況しているという状況としてぴったりである。「あーっと、花山さん、今、自分の影をぶっ叩きます」と、主体が実況しているのだ。

 これらの現代口語短歌の実況型というのは、〈リアリティ〉の追求の試行のなかで、どのように詠えば〈リアリティ〉が担保されるだろうか、と作者があれこれ考えた、ひとつの帰結といえるのである。

(「かぎろひ」2021年1月号 所収)