短歌の「写生」を考える①

 今回からは、近代短歌の重要理念である「写生」について議論したい。

 ただし、これまでさんざんお喋りした「韻文」の魅力が引き続きのテーマであることには変わりはなく、おそらく、「韻文」の話題がところどころにぶり返されると予想される。

 

 「写生」とは何か。

 もう短歌の世界で、「写生」というと、何か密教の教義のようなよくわからない理念と化してしまった感がある。

 これ、結社の門下に向けて言う場合、広く歌人に向けて言う場合、あるいは短歌をたしなんでいる人々に歌作のノウハウとして言う場合、とで、説明の仕方が全く異なる。

 とくに、結社の門下に向けて言う場合などは、何か、伝承めいてもいて、門下生は有難く一言一句おろそかにしないで後世に引き継いだりしているが、そんなものは、その結社で有難がっていればいいだけのことで、議論の俎上にあげるものじゃあないので、ここでは放っておく。

 ここでは、「写生」について、『現代短歌ハンドブック』(雄山閣、平11)から小池光の面白い解説を見つけたので全文引用したい。やはり、用語解説というのは専門性があることは当然だけど、その当事者としてどっぷり浸かった者より、周縁にいる者の文章の方がずっといい。

 小池光はいう。

 

 近代短歌の大きなスローガンのひとつであり最大の威力を発揮した教義ともいえよう。しかしその内実を語ることはむずかしい。正岡子規は写実と写生をほとんど区別せず用いた。それは西欧絵画のスケッチ、つまり対象をごく写実的に誇張や変形を伴わず簡潔に描写する技法を文芸の領域に適用する試みで、写生文を提唱しては大いに実践しつつ、また写生文の定型詩型への応用としてその斬新な短歌も生まれた。それは情緒や空想、雰囲気といったつかみどころのない言葉のたわむれを廃し、現実というものを最高の実体として尊重し、現実の諸関係を言葉の諸関係におきかえることを志向するもので、近代主義的思考の産物であり、もっといえば対象と言葉が客観的に一義的に結び得るという信念においてそれは端的に科学主義である。写実、写生を尊重する思考は、西欧の近代科学を信頼し、そこに立脚して近代日本を建設せんとした時代の精神と合致するものであった。しかしこのような楽天的リアリズム思想は詩歌にあって次第に迷路に入ってゆく。斎藤茂吉はスケッチの訳語にすぎなかった写生の語を「生」を「写す」と読み替え、人間の空想、妄想もまた喜怒哀楽もみな「生」あらわれであると解し、ほとんど無規定概念にまで写生を拡張した。写生といえばどんなあらゆる歌もが写生の産物であるといい得るようになった。こういう規定困難な標語ゆえにいよいよ神秘性を増し、今日に至るまで作歌指針として多くの人々を呪縛し続けている。

 

 

 いかがであろうか。

 はじまりの一文から、「写生」とは、概念でも理念でもなく「教義」と言っているところからして可笑しい。「教義」なら、そりゃあ内実を語るのはむずかしいだろう。

 それでも、「写生」は子規が提唱したものであることは押さえて、そこを解説をしている。

 子規の言う「写生」というのは、小池の言う通り、というか、他の解説文を読んでも、西欧絵画のスケッチ、という程度のものだったということがわかる。

 しかしながら、このスケッチ程度の概念である「写生」を、短歌文芸でやってみると、いろいろ難しいことがわかってくる。そもそも、スケッチだって、実物そのものを描写することは不可能だ。写真じゃないのだから(写真だっても実物とは違うじゃないか、という論は立つが、ここでは措く)。ましてや、短歌のような短い詩型でどうやって実物をありのままに簡潔に描写するのか、という問題がすぐに成り立つ。そこで、そうした根本原理的な疑問にはとにかくうっちゃって、「情緒や空想、雰囲気といったつかみどころのない言葉のたわむれを廃し、現実というものを最高の実体として尊重し、現実の諸関係を言葉の諸関係におきかえることを志向するもの」と「写生」をとらえることにした。つまり、前近代の志向を否とし、近代の志向を是とする、比較論としての産物だった、ということがいえよう。

 であるから、小池が、「写実、写生を尊重する思考は、西欧の近代科学を信頼し、そこに立脚して近代日本を建設せんとした時代の精神と合致するものであった」と断言するのも大いに首肯できよう。ただし、こうした踏み込んだ解説は、やはり周縁にいる者でしか書けないと思うけれど。

 それはともかく、子規の言う「写生」というのは、近代的な短歌っていうのは、やっぱり、前近代の近世和歌がやっていた、言葉のたわむれじゃくて、近代主義的な西欧絵画みたいにスケッチしていくのがこれからの短歌文芸にはいいんだよ、という提唱であった。こうした子規の「写生」観を、小池は楽天的リアリズム思想といったわけだ。

 さて、「写生」という概念が、この程度のものであれば、「教義」だなんて皮肉られなくてもよかったのだが、時代が進むにつれて、おかしくなっていく。

 小池は、その変遷について斎藤茂吉をあげて解説していくのだが、実は、茂吉が登場するまえから、各々の歌人が「写生」概念をいろいろ言い出して、「写生」概念はどんどん変容していっていた。

 その一人である、伊藤左千夫は、『歌譚抄』で新たに「主観」という概念を提出して、「写生」概念を変容させている。

 

 事実を歌に詠むといふのみで写生とは云はない、(中略)見よ歌の形式と云ふものは、帯の如くに接続して居る、(中略)であるから樹と石とあつてもそれを並べることは出来ないで、必ず左右につなぐとか上下につなぐとか是非つないでしまはねばらなぬのである それで其つなぎは何かと云へば即主観である。

 (伊藤左千夫『歌譚抄』)

 

 左千夫は、「写生」ってのは、事実を詠むだけではない。なぜなら、短歌の形式というのは帯のようにつながっているものだから、樹とか石とかを並べただけじゃ歌にはならず、つなげないといけない。で、そのつなぎってのは何かというと、それはすなわち「主観」だ、と言うのだ。

 この左千夫の歌の接続の話は、歌作する立場からすれば、よくわかる話ではある。樹とか石とかをただ描写するだけじゃ、歌にはならない、その事実をつなげてはじめて歌になるのだ、ということだ。そりゃあそうである。少なくとも韻文というのは、そういうものだ。樹や石といった事実を、たらだらと描写することはできない。調べを整えながら、なんとか定型にしてつなげていくのが韻文であろう。そして、そのつなげることを、左千夫は「主観」と名付けたわけだ。たしかに、定型につなげるためには、作者のつなげようという意識がないと、短歌として作品にはならないだろう。だから、そうした作者のつなげようという意識を「主観」という概念でとらえようと提唱しても、おおきな誤解はないだろう。

 しかし、ここでの問題は、そうした歌作の作業を、子規の「写生」概念に補足するかたちで述べたことだろうと思う。

 何か、別な名称でもつければよかったのに、左千夫は、こうした「主観」が「写生」には必要だ、といったために、「写生」概念は混乱することになった。

 この混乱に拍車をかけたのが、続く、島木赤彦の『歌道小見』であった。

 赤彦は言う。

 

 私どもの心は、多く、具体的事象との接触によって感動を起します。(中略)左様な接触の状態をそのまま歌に現すことは、同時に感動の状態をそのまま歌に現すことにもなるのでありまして、この表現の道を写生と呼んで居ります。

 

 ちょっと何言ってるのかよく分からない文章である。どうにも「教義」めいた臭いがするが、結論の部分を読む限りでは、「感動」の状態をそのまま歌にすることが「写生」である、といいたいのだろう。じゃあ、「感動」とは何か、というと、具体的事象との接触によって起こすもの、ということだ。先ほどの、樹や石のたとえでいうと、樹や石をみたときの、何かしらの心の動きを「感動」というのだろう。そうした「感動」をそのまま歌にするというのが、「写生」というのである。

 こうなると、子規の「写生」とは、相当はずれた概念といっていいだろう。「主観」が作者の定型につなげようとする歌作上の意識であるとすれば、「感動」は作者の心の動きそのものということになる。そんな「感動」を歌にするのは、少なくともスケッチとは言わないだろう。けど、スケッチとは言わないが「写生」と赤彦は言っているのだ。

 

 こうして「写生」規定がどんどん拡大された後、やっと茂吉の登場となる。

 小池の茂吉サゲの一文は、こうした流れのなかにあるのだった。

 

 さて、こうして、「写生」論の変遷を簡単に見てきたのだが、見た結果、小池の言う通り、各々の歌人がいろいろ言うことで、「ほとんど無規定概念にまで写生を拡張した」ということに尽きるだろう。ただし、無規定概念にまで「写生」を拡張するまでには、各歌人が「写生」について、歌作を通して、あれこれ考えたことは分かる。

 そのあれこれ考えたことを強引にまとめるなら、それは、どうやら子規の言う、スケッチだけでは、短歌を作るときの説明はできない、ということなんだろう。 

 では、子規のいう「写生」概念を歌作に用いるためには、どうしたらいいか。

 というと、やはり左千夫の言う「主観」なるものが必要になるのだろう、というのが筆者の意見である。

 つまり、作者の意識すなわち「主観」が歌作に反映されるもの、それが短歌の「写生」である、という意見だ。

 この点について、実作で考えてみよう。

 

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                           正岡子規

 今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅(ほろび)の光

                           伊藤左千夫

 

 1首目。作者は、瓶にささっている藤の花をみている。それが、いまにも畳に届きそうだと認識をしたわけである。もしこれを、スケッチするなら、瓶にささっている藤の花が畳に届きそうだ、という文章になって、まったく散文としては、面白くもなんともない。どうでもいいことをスケッチしているだけだ。

 けど、これを「主観」の作用によって韻文へと変化させることで、このどうでもいいことのスケッチに大きな魅力が生まれるのだ。

 韻文への変化とは、定型に言葉をつないでいくということである。つなぐことで調べが生まれる。そして、この定型へと言葉をつなぐ作業がすなわち「主観」ということになる。もうひとつ、この「主観」によって必然的に生まれるものがある。それは、「構図」である。すなわち、藤の花をみている作者の「視点」が必然的に生まれるのだ。つまり、左千夫の言う、樹だの石だのをただ並べるのではなく、それをどのように「つなぐ」のか、そのつなぎには、どうしたって「構図」が必要になる。そこで、やっとスケッチすなわち「写生」になるのだ。この歌であれば、病床にいる作者の「視点」が、この歌の「構図」となったといえる。

 2首目。今朝、庭には朝露がひえびえとしていて、秋草もそのほかみんなかすかな光のなかにあるなあ、という心情を読んでいる。それを調べ豊かに言葉をつないで韻文にして詠んでいる、ということだ。作者は、朝露に濡れた秋草にかすかな朝の光をさしている状態をみて、「すべて幽けき寂滅の光」と言いたかった。これを言うために、初句から、言葉をつないだのだ。とくに、「寂滅の光」なんてのは、左千夫にしか詠えない表現であろう。けど、その表現をただ投げ出しても、作品にはならない。結句の表現の最大の効果をあげるために、朝の庭先で広く見渡した作者の「視点」によって「写生」をするための「構図」を決めて、言葉をつないだのである。これが、「主観」なのだ。

 

 そういうわけで、短歌の「写生」というのは、とにかく「主観」というのものが必要なんだということがわかるだろう。これがなくちゃ、「写生」をするための「視点」が定まらないし、「視点」が定まらなくては「構図」がとれない。そして、その「構図」によって「写生」した事象を定型へとつないでいく、という一連の歌作上の作業が作者の「主観」ということになるのである。