短歌の「異化」作用とは①

 今回から、テーマを変える。

 「異化」について。

 けれど、多分、内容は引き続き「韻文」についての議論になると思う。

 

 万葉の時代から現在にいたるまで、いまだに生き残っている五七五七七の定型文芸が、現代でもなお、「短歌」と呼ばれる創作形式として存在する意義があるとするなら、それはもう「異化」作用くらいしかないだろう、と筆者は思っている。

 それくらい、短歌の世界では重要なテーマだと思うし、きちんと議論をはじめたら、一年間くらいくらい続けられそうな、広いテーマだとも思う。

 

「異化」とは何か。

 これは、短歌の世界だけの話ではなく、広く文芸一般で使われる用語。というか、芸術一般で使われる用語なのだけど、そこまで話を広げる必要もないので、とりあえずロシアフォルマリズムを起源とする文芸用語という押さえでいいだろう。

 簡単にいえば、日常的に見慣れたものが、違ったように見えることを言う。

 これを文芸一般にあてはめるとどうなるか。

 というと、読者の側からすれば、文芸作品を通して、これまで認識していたコトやモノが違って認識される、ということになる。

 他方、創作者の側からすれば、これまで認識されていたコトやモノを違う認識に変えていく手法、ということになり、突き詰めれば、もっぱら創作する上での技法ということがいえる。すなわち、こういうやり方をすれば、日常的に見慣れたコトやモノが、あら不思議、これまでとは違う世界のように見えるような叙述になりますよ、ということである。

 わかりやすい例でいうと、夏目漱石の『吾輩は猫である』がいいだろう。

 あの小説は、猫の視点で日常が描かれている。人間ではなく、猫の視点で当時の世の中を見ることで、日常のコトやモノが違って叙述されている、ということになる。

 小説の世界であれば、<語り手>を日常世界にいる人物ではないものにすることによって容易に日常世界を「異化」することができる。それは、『吾輩は猫である』の猫だったり、『フランケンシュタイン』の怪物だったり、あるいは、小さい子どもだったり、外国人だったり、異界からきた知性人だったり、知的障害者だったり、視覚障害者だったり、犬だったり、馬だったり、もしかしたら蠅や虻だったりを<語り手>とする小説も(幻想小説として)存在するかもしれない。

 とにかく、小説世界では、<語り手>を日常的な立場以外のものによって語らせることで、日常的に見ているものを容易に「異化」させることができよう。

 

 では短歌の世界での「異化」はどうやるか。

 というと、理屈はあとでつけるとして、まずは作品をみていくことから話を進めることにしよう。

 わかりやすい「異化」効果のみられる作品をいくつか。

 

 大正のマッチのラベルかなしいぞ球に乗る象日の丸をもつ 

                       岡部桂一郎『一点鐘』

 

 日常のモノである「マッチ箱」を「異化」した作品。

 令和の世の中になって「マッチ箱」はすっかり日常みかけなくなってしまったが、とりあえず30年くらい前、「マッチ箱」が日常品としてまだ普通に見かけていた頃の気分になって、この作品を味わって欲しい。

 ごくありきたりな日常のモノとしての「マッチ箱」。そんなありふれたモノのはずだったのに、初句に「大正」という元号をもってくることで、一気にノスタルジックなモノへと変貌させる。そして、2句目でラベルに注目させて、3句目に「かなしいぞ」と感嘆する。終助詞「ぞ」については、このBlogでも議論したことがあった。「かなしいな」「かなしいね」「かなしいよ」じゃ、ダメ。ここは力強く、「かなしいぞ」。この力技によって、ありきたりなモノだった「マッチ箱」が、見事にこれまでとは違う認識で見えるようになる。この作品を読む前と読んだ後では、私たちは確実に「マッチ箱」の認識がかわる。下句で描写されているラベルのおきまりのイラストが、かなしく見えてしまうのだ。多分、この作品を忘れてしまうまで、「マッチ箱」を見るたびに、私たちには、悲しさがこみあげてくるに違いない…。

 と、これが、短歌の「異化」だ。

 

 カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある

                          吉川宏志『青蟬』

 

 こちらは、マッチ箱の歌よりもずっと分かり易い。説明不要の一首。たしか、中学校の国語でも紹介されていたりするはず。日常、見慣れているカレンダーの月末の部分が、この歌によって見事に「異化」された。カレンダーの月末が、算数の分数になったのだ。だまし絵みたいな感覚といえば、そうかもしれない。

 ただ、単なる発見の歌、というだけではく、下句で淡い相聞になっているのも、実に短歌的で、きちんと作り込んでいる風の作品となっている。

 カレンダーの月末部分が、分数へと「異化」されている。

 

 おびただしき鶴の死体を折る妻の後ろに紅の月は来りき

                     小池光『廃駅』

 

 こちらは、日常見慣れた「折り鶴」を「鶴の死体」と表現する。この表現によって、これまでとは違う認識を私たちは「折り鶴」にもつようになる。これが「異化」だ。

 「おびただしき」というくらいだから、恐らく千羽鶴を妻は折っているのだろう。それを、「死体」と直截に表現する。ここで、私たちは、エッ?、と驚くと同時に、ナルホドと納得するするだろう。そして、この直截な表現によって、私たちがこれまで持っていたであろう、千羽鶴のイメージがガラリと変わったに違いない。この鮮やかさが、「異化」である。

 

 晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて
                          葛原妙子『葡萄木立』

 

 こちらは、韻文特有の言葉の圧縮率がわりと高いので、ちょっと解凍しよう。

 散文にするのなら、暑かった夏の陽もおとろえてきた夕方、瓶の中の酢が卓に立っていた、という感じか。けれど、こういう短歌作品は、散文にすると面白くもなんともない。散文にするとで、韻文のよさが吹きとんでしまうという典型。こうやることで、短歌とか和歌は、古臭くて難しくて面白くないもの、という印象になってしまうのだろう。やはり、短歌のような韻詩は、散文で理解しようとせず、あくまでも韻文のままで理解しなくちゃいけないのだけど、それはともかく。

 注目するべきは3句以下。

 瓶の中に酢は立っていた、というとこと。酢の瓶が卓に立っていた、というのは、日常の認識であろうが、これを、酢が瓶のなかで立っていた、と詠ったのが、「異化」だ。これによって、立っている瓶の中にある酢、という日常の光景が、瓶の中で酢が立っている、という非日常の光景として認識されるようになる。倒置も効果的であろう。

 このような「異化」効果は、韻文でないとその効果は発揮されないと思われ、これは短歌独特の技法といっていいだろう。

 

 これらが、短歌の世界の「異化」である。